うちのギルド長が②
Lv2。
昨日、ギルド連盟から届いた昇格通知を思い出すだけで、頬が緩む。ルーキーの指定依頼を終え、Lv1になってからも採集、護衛、討伐と真面目にこなしてきた。その成果が、ようやく数字になったのだ。
「オレも、もう新人じゃないってことだよな」
「Lv2の新人冒険者スーラだな」
向かいの同期は、パンをちぎりながら即答した。
「Lv2だぞ?」
「昨日までLv1だったやつが、急に一人前ぶるな。同期として恥ずかしい」
ぐぬぬ。こいつとは話が合わない。
オレはスープを飲み干し、席を立った。
一般の冒険者から見れば、まだ下の方なのは分かっている。でも、一段上がったのは事実だ。
何しろ、数字が二倍だ。強さも二倍――かは知らないけど、昨日より強いのは間違いない。
どのくらい強くなったかは、戦えば分かる。
よし。誰かに相手をしてもらおう。
◇
「先輩、ちょっと模擬戦しません?」
「やだよ。朝から面倒くさい」
次。
「今、時間あります?」
「ない」
「まだ何も言ってないんですけど」
「顔で分かる」
次。
「オレ、昨日Lv2に――」
「おめでとう。忙しいからまたな」
なんだ、このギルド。向上心が足りないんじゃないか?
朝から自主訓練に来た後輩を、もう少し可愛がってもいいと思う。
「……お前、何してんだ?」
振り向くと、大盾を片手に提げたモアさんがいた。大きな身体に分厚い腕。ヤドリギで長く活動する、Lv3のベテランだ。
オレより一つ上。いきなり二つも三つも上に挑むより、ずっと堅実だ。
うん。ちゃんと考えてるな、オレ。
「モアさん! 模擬戦してください!」
「うちは、あんまりやらんのを知ってるだろう?」
「オレ、昨日Lv2になったんですよ!」
「聞いたよ。おめでとう」
「ありがとうございます! じゃあ――」
「じゃあ、終わりだな」
「今のは模擬戦の流れでしょう!」
モアさんは、子どもをあやすように笑った。ちょっと気に入らない。
「Lv3相手に、今のオレがどこまでやれるか知りたいんすよ。お願いします!」
頭を下げると、笑い声が止んだ。
しばらくして、大盾を担ぎ直す音がする。
「まあ、それなら一回くらいはいいか」
「ほんとですか!」
声を上げたせいで、周りの冒険者が振り向いた。ソファで飲み物を飲んでいたミルヴスさんとも目が合う。
「あー……またアイツか」
「聞こえてますよ!」
「モアさんが優しくてよかったな」
何か言いたげな顔だ。まあいい。見ていれば分かる。
「ほんじゃ、始めるか?」
大盾が構えられた。
空気が変わる。さっきまで笑っていたモアさんの身体が、一回り大きく見えた。
けど、Lvは一つ上だ。届かない相手じゃない。
剣を抜き、全身に『身体強化』を巡らせる。
「お願いします!」
地面を蹴った。
鋭く踏み込み、右から振り抜く。
――ガンッ!
盾を打つ音に、周囲から声が上がった。
「モアさんが模擬戦してるぞ」
「相手、昨日Lv2になったスーラだろ?」
そう、そのスーラ様だ。もっと見てろ。
剣を引き、左へ回る。盾が来た。右へ切り返しても、もうそこにある。
「いい動きするじゃないか」
盾の向こうから、余裕の声がした。
「でも、モアさん全然動いてねぇ!」
「うるさい!」
観客の笑いを背に、一度距離を取った。
正面から走り込み、直前で身体を沈める。盾の下。その脇腹へ剣を――
「『重量増加』」
盾が、すっと沈んだ。
ガァンッ!
壁を殴ったような衝撃が、手首から肘、肩まで突き抜ける。
「っ――!」
剣が手から滑りかけた。指を握り直すだけで、腕が痺れる。
「『痛覚鈍化』」
痛みが遠のく。完全には消えないが、これなら動ける。
「ちゃんと繋いだな」
モアさんが笑った。
「さて、その判断はどう転ぶかな?」
答える代わりに踏み込む。
さっきの盾は、受ける瞬間だけ重くなった。だったら、その前に抜けばいい。
左右に切り返し、盾を振らせる。そこから正面へ。剣を振る直前、脚、腰、肩、腕へと強化の出力を上げた。
盾が動く。
読めてますよ。その端、その外側――
「そこだ!」
カンッ、と軽い音がした。
止めたのは盾じゃない。モアさんの手甲だった。
「なっ――」
反動に耐えようと剣を握り込む。だが、指に力が入らなかった。
痛くない。なのに、右手だけが自分のものじゃない。
剣がこぼれ落ちる。
「悪くはなかったぞ」
足を払われ、視界が回った。
「うわっ!」
背中から落ちたオレに、拍手と笑いが降ってくる。
「惜しかったな!」
「盾しか見てなかったぞ、スーラ!」
うるさい。地面、硬い。
「見事に引っかかったな」
「……説教ですか?」
どうせ、調子に乗るなと言われる。昔から、オレが凄いと言えば、みんなそう返してきた。
「昨日までのお前さんなら、引っかかることすらできなかった。強くなってるぞ」
「え?」
モアさんは手甲を叩いた。
「盾を読んで、動かそうとしただろう。だからオレは、その読みの先にこいつを置いた。お前さんが相手を読むように、相手もお前さんを読む。巧者なら、もっと深く、もっと鋭くな」
参ったな。
落ちた剣を拾おうとして、また指が滑った。
「……これ、なんで?」
「『痛覚鈍化』を強くかけすぎたな。痛みだけじゃなく、腕の感覚まで鈍らせた。握力が落ちているのにも、気づかなかっただろう?」
「……はい」
「痛みは身体からの知らせでもある。動けるようにするのはいいが、何が起きているかまで分からなくしたら本末転倒だ」
強くかけたら、よく効く。そこまでは合ってた。効きすぎたら駄目なのか。
オレは右手を開いたり閉じたりした。次は、ちゃんと握れるか確かめる。
悔しい。でも、教えてもらえてよかった。
差し出された手を掴み、立ち上がる。
「最後の入り方も悪くなかった。ちゃんと盾を動かしてたぞ」
「……ほんとですか?」
「そこは嘘ついてどうする」
少し嬉しい。とはいえ、負けたのは負けた。
「まあ、モアさんはLv3ですからね」
「ん?」
「いや。さすがだなって」
負け惜しみに聞こえたかもしれない。
そのとき、飲み物をすする音がした。ミルヴスさんが、まだソファにいる。最初から最後まで見ていたらしい。
目が合うと、カップが置かれた。
「嫌な予感しかしない」
「ミルヴスさん!」
「ほらきた」
「次、お願いします!」
頭を抱えたミルヴスさんは、しばらくオレを見ていた。やがて、口元がほんの少し緩む。
「……一回だけな」
立ち上がっただけで、訓練場が静まった。
戦闘指南役でもあるこの人が、模擬戦するところは見たことがない。
理由は知らない。でも、せっかく立ってくれたのだ。こっちも全力でいく。それが礼儀ってもんだろう。
「お願いします!」
ミルヴスさんは素手のまま、軽く手を上げた。
「いつでもどうぞ」
絶対、後悔させる。
脚に魔力を回し、踏み込――
「そこから来る?」
思わず止まった。
「……え?」
「来るなら来いよ」
気を取り直し、左から入る。肩を動かした途端、左手首を掴まれた。
右へ踏み替えると、正面に回られる。強化を強めれば、その前に間合いを潰された。
「うわっ!」
剣を振る場所がない。
下がる。追われる。フェイントを入れても、始める前に塞がれる。
「何もさせてもらえてねぇぞ!」
「ミルヴスさん、エグすぎねぇか?」
「うるさい!」
「残念。――『視』えてるよ」
余裕の声が、すぐ近くからした。
頭にきた。考えるから読まれるんだ。
だったら、考えるより先に行けばいい!
「うおおおっ!」
全身に『身体強化』を乗せて突っ込んだ。体格なら、オレが上だ。
ミルヴスさんが正面から受ける。
勝てる――と思ったのに、押し返された。
一歩、二歩。踏ん張れず、尻から地面へ落ちる。
「うそだろ、体格差あるぞ!」
オレも同じことを思っていた。
「……なんで?」
「『身体強化』が雑。出力は良いけど、全部にかけすぎ」
ミルヴスさんが肩を回す。
細い身体は、今の衝突でもびくともしなかった。脚から腰、背中、腕まで、一本に繋がっていたように見えた。
同じ魔法なのに。
「……ずるくないすか。読むのも上手いし、力でも勝つし。オレの方がでかいのに」
「お前の言うLv4だからじゃない?」
少しだけ目を細められた。
周りが妙な顔をする。モアさんだけが、静かに頷いていた。
Lv3には、読み合いで負けた。Lv4には、何もさせてもらえなかった。
やっぱり、数字が上がるほど強いんだ。
なら、その上は?
「あ」
いるじゃん。もっと上が。
「ギルド長って、Lvいくつでしたっけ?」
ミルヴスさんが、ものすごく嫌そうな顔になった。
「ギルド長!」
「はい?」
呼び止めると、ギルド長が振り返った。
「オレと戦ってください!」
「嫌ですけど」
「まだ何も説明してないですよ!?」
「戦うんでしょう?」
「そうです!」
「じゃあ嫌です」
早い。取りつく島もない。
「なんで!?」
「戦う必要ないじゃないですか」
「あります!」
「そうですかぁ。でも嫌です」
後ろでミルヴスさんが吹き出した。
「お前、ギルド長に何期待してんだよ」
「だってLv7ですよ!?」
「皆さん、怪我には気をつけてくださいねー」
当人は手を振り、そのまま訓練場を出ていった。
「……逃げた」
「違うと思うぞ」
モアさんが笑った。
◇
次の日はロビーで。
「模擬戦しましょう!」
「嫌です」
その次の日は関所前。
「今日はどうですか!」
「何がです?」
「模擬戦です!」
「嫌です」
書斎で待ち伏せた日には、名前を呼ぶだけで断られた。
「まだ言ってない!」
「もう分かりますって」
廊下でも食堂でも、返事は変わらなかった。
「アイツ、折れないなー」
ミルヴスさんが、面白そうに見ている。
今日のギルド長は訓練場の端で、オレの話を聞きながら報告書を書いていた。
「今日こそ!」
「嫌です」
「そんなにオレと戦うの怖いんですか?」
筆が止まる。
「――怖い?」
しまった。周りまで静かになった気がした。
けれど、ギルド長は怒らなかった。顔を上げ、いつもの声で聞く。
「スーラくんは、どうしてそんなに僕と戦いたいんです?」
「……強くなりたいからです」
「なるほど?」
「モアさんと、ミルヴスさんと戦いました。二人とも、めちゃくちゃ強かった」
「ミルヴスくんが受けたんですか。ラッキーでしたね」
そう笑う声は、妙に優しかった。
「モアさんがLv3で、ミルヴスさんがLv4なら、Lv7ってどれだけ強いんだって思うじゃないですか」
ギルド長は黙って聞いている。
「オレ、もっと強くなりたいんすよ。でも、Lv7なんて想像つかなくて。だから、一回見せてください! そしたら、そこまで目指していいんだって思える気がするんです!」
言ってから、息をついた。
ギルド長はしばらくオレを見つめ、報告書を閉じた。
「……分かりました。一回だけですよ。期待に応えられるとは言いませんからね」
「それでもいいです!」
少し離れたところで、ミルヴスさんが顔を上げた。
「ただし」
ギルド長が人差し指を立てる。
「形だけではなく、模擬戦であることは忘れないでくださいね」
「分かってますよぉ!」
たぶん。
◇
その日の訓練場は、ギルドの半分どころではない人だかりになった。他のギルドの冒険者まで混じっている気がする。
「ギルド長が模擬戦するってマジ?」
「オレ、初めて見る」
「私、《スライム狩り》より古参だけど、スライム以外と戦うところは初めてだわぁ」
なんで誰も知らないんだ。Lv7だぞ。もっと戦ってろよ。
中央へ進み、剣を握る。右手首はもう平気だ。念のため、ぎゅっと握って確かめた。よし。
強化も、ただ全部にかければいいわけじゃない。教わったことは、ちゃんと使う。二度も尻もちついたんだ。無駄にしてたまるか。
正面のギルド長は、妙に端に立っていた。すぐ後ろが訓練場の出口だ。
「そこから始めるんですか?」
「はい」
武器も持たず、構えもしない。
「準備、いいですか?」
「僕はいつでも」
息を吐き、『身体強化』をかけた。
踏み込んで振る。外れた。
二撃目も、三撃目も、刃が空を切る。
「……あれ?」
右から追って、左へ回ったはずなのに。
ギルド長の後ろには、まだ出口があった。
「ずっとスーラの顔が見えてないか?」
観客の声がする。
打ち合えば、位置も身体の向きも変わるはずだ。なのにオレは、ずっと観客側を向いていた。
「……退路だ」
「相変わらず、やばい『早さ』だな」
ミルヴスさんが言った。
「速さ?」
「動く速さじゃない。見る、決める、動く、位置を取る。そこまでが早い。動きならオレの方が速いけど、あそこまで位置を制するのは、まだ無理だな」
足元を見る。中央深くへ追い込まれているのは、オレだった。
「簡単に位置を制せる相手なら、そもそもスーラはLv2にはなってないさ」
モアさんの声が届く。
オレが読んで、動いて、誘う。その先でギルド長が待っている。剣を避けるたびに、オレごと、出口を失わない位置へ動かしている。
「……なんだよ、それ」
踏み込んでも届かない。追えば追うほど脚が重くなり、ギルド長だけが出口のそばに残る。
「ふざけるな、臆病者! 戦えよ、前に来いよ!」
「――なんでです?」
本気で分からない顔だった。
「命をかけて戦ってるからだろう!」
ギルド長の足が止まった。
「どうして命をかけているのに、わざわざ危ない致死圏に入らなくちゃいけないんです?」
「でも、戦いって、そういう……」
「戦いは、死にに行くための言い訳ではないんですよ」
訓練場が静まった。
モアさんもミルヴスさんも、誰も笑わない。オレだけが、言葉を飲み込めずにいた。
「ずっと、退路を確保していたのか」
観客の呟きに、ギルド長が顔を向ける。
「気づいていましたか! 素晴らしい」
なんでそこで嬉しそうなんだよ。
息が乱れ、脚が重い。魔力も減っている。
この人は逃げ道を失わないように動いていただけだ。それなのに、一発も当たらない。
「強い……」
認めた途端、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
「でも、これが強さなら、オレは何を目指せばいいんだよ!」
ギルド長は少し考えた。
「ここにはモアさんも、ミルヴスくんもいます。世界には《竜殺し》がいますし、バルムンクでは、あなたと同年代の冒険者がLv3の登録審査を受けているそうです」
「もうLv3になるやつがいるのか……」
先輩には届かず、同い年には先を越される。
急に、自分だけが小さく見えた。
「なんだよ、オレなんて……」
「僕は、あなたみたいな人は初めて見ました」
「……はい?」
「モアさんみたいな人も、ミルヴスくんみたいな人も、初めて見ました。ちなみに僕は《竜殺し》に憧れていましたが、今ではこんな感じです」
困ったように笑われた。
「どこを目指すかは、スーラくんが決めればいいんじゃないですか?」
何も返せなかった。
「で、さっきの話に戻るんですけど――」
ギルド長が一歩、近づく。
何の話だ。そう思ったときには、胸に指先が触れていた。
左。心臓の上。
いつの間に。
「なんで人同士が争う必要あるんでしょうね?」
動けなかった。
これが剣なら。実戦なら、もう終わっている。
形だけの勝ち負けじゃない。模擬戦なんだと、ようやく分かった。
「……参りました」
「はい。模擬戦は僕の勝ちですね」
指先が離れる。
ギルド長は最初から確保していた出口へ、そのまま歩いていった。
◇
「モアさん、ギルド長どこ行ったか知ってます?」
翌朝、訓練を終えたモアさんに尋ねた。
「さあな。スライムでも狩ってるんじゃないか?」
「またですか?」
「僕だって、好き好んで狩ってるんじゃないんですよ」
背後から声がした。
振り向くと、ギルド長が布包みを手に立っている。
「おっと、お前さん、帰ってきてたのか」
「失礼ですねぇ、モアさん。――で、スーラくん、何か用ですか?」
特に用はなかった。見つけたから、つい呼んだ。
でも、呼んでから聞きたいことを思いついた。昨日から、頭の隅に引っかかっていたのだ。
「なんでスライムばっかりなんですか? もっと強いやつなら、報酬もいいでしょう?」
「スーラくんは勇敢なんですね」
「バカにしてます?」
「いいえ。本心です。僕は怖いから、強い魔物とは戦わない。それだけですよ」
「でも、弱くないじゃないですか」
「昨日の模擬戦が、本当の戦いだったら?」
胸が、ちくりとした。指先を置かれた場所だ。
「……殺されてました」
「スーラくんは勇敢ですし、弱くもない。でも、条件が違えば命を落とすこともある」
ギルド長は少し目を細めた。
「命を落とさずに、次のチャンスへ繋げることも、勇敢さの形の一つだと僕は思うんですよ」
柔らかな声なのに、その目だけが遠くを見ていた。
オレの知らない、重い何かを。
ギルド長が布包みを開く。乾きかけた、半透明の欠片が入っていた。
「スライム?」
「……の残留物です。気になることがあったので、分析に回します」
欠片を眺める顔から、笑みが薄れる。
「やっぱり狩ってるんじゃないですか」
「今日は狩ってませんって。拾っただけです」
「同じようなもんでしょう」
「全然違いますよ」
思わず笑った。
昨日までなら、ただの変な人で終わっていた。
でも今は、その手の欠片が気になる。誰も見向きもしないものから、この人は何を見つけようとしているんだろう。
もっと知りたいと思った。
分かったのは、ただ者じゃないってこと。それから――
うちのギルド長は、高レベル冒険者なのにスライムしか狩らない。
……らしいってことだ。
ある朝の訓練場。
「いつだったか、Lv3になったどっかのお坊っちゃまも、オレに模擬戦を挑んできたなぁ」
モアの言葉に、ミルヴスがキッと目を向けた。
「あん時はオレも若かったですし……お坊っちゃまはやめてくださいよ」
「なんで、そんなに嫌がるかねぇ」
「嫌がってはいませんよ。誇りもありますしね。でも、それ以上に――」
ミルヴスは視線を逸らした。
「あの人にもらった“ミルヴス”って名前を、気に入ってるだけです」
訓練の掛け声が、遠くに響く。
スーラの騒動は、多くの冒険者がギルド長の言葉を受け取るきっかけになった。
モアは傍らの大盾に手をかけ、無数の傷を指でなぞった。
「お前さんと同期の、あいつ。パン屋が繁盛してるそうじゃないか」
「バチェッタですか。よく覚えてますね」
「あの事故は忘れられんよ。ギルド長がいなかったら、今ごろパンを焼くどころか、この世にいなかったかもしれん」
指が、盾の傷の一つで止まった。
冒険者に危険はつきものだ。スライムを狩るだけでも、探索に出るだけでも、事故や怪我は起こる。命を落とすこともある。
「退路を、どんな時にも確保する」
モアは静かに言った。
「ヤドリギの方針が、バチェッタたちを死なせなかった」
「そうですね」
二人はしばらく、訓練場を眺めていた。
「いつか聞いてみたいですね。なんであの人が、ヤドリギをこんなギルドにしたのか」
ミルヴスの言葉に、モアが小さく笑う。
「そうだな」
「あー! モアさん、ミルヴスさん、ちーっす!」
背後から大声が響いた。ミルヴスが露骨に顔をしかめる。
「まぁた、うるせぇのが来たよ」
「パワハラっすよ?」
「どこがだよ」
「そんなことより、モアさん!」
「なんだ?」
スーラは目を輝かせた。
「今日も模擬戦お願いします!」
モアは一瞬その顔を見て、それから笑った。
「ふっ。言うと思った」




