うちのギルド長が①
「ぼく大きくなったら《竜殺し》になる!」
賑わう広場の一角に、幼い声が弾んだ。
石畳の広場には露店が立ち並び、焼き菓子や果物を売る声に、荷車の車輪が転がる音が混じっていた。中央の噴水では水しぶきが陽の光を弾き、その周囲を、買い物客や旅人、装備を整えた冒険者たちが行き交っている。
「あら、じゃあ未来の大英雄さんね」
少年と手を繋いでいた母親は、優しく笑いかける。
この世界には、冒険者という仕事がある。冒険者たちが集うギルドも数多い。その中でも、圧倒的な実力を持つ者や、大きな実績を残した者には、その者だけを指す名が与えられることがある。
《竜殺し》も、そのひとつだった。
「ほらママ早くー!」
少年は母親を何度も振り返りながら駆け出した。その足が、噴水を囲む低い石段に引っかかる。
小さな身体が、石畳の上へ転がった。
周囲の視線が集まる中、母親が慌てて駆け寄った。
「うわーん、痛いよぉ」
母親に抱き起こされた少年は、両手で目を覆い、大きな口を開けて泣き出した。左膝と額には擦り傷ができている。
「あらあら、痛かったわね。どうしましょう、今は傷に当ててあげられる物もないわ」
母親が優しくあやすのを見て、周囲は少しずつ視線を外していく。露店の呼び声も、人々の話し声も、すぐにいつもの広場の喧騒へ戻っていった。
その中で、一人の少女だけが、親子のもとへ歩み寄った。
「きーみ、どうしたの?」
少年が顔を上げる。少女の背後に太陽が重なり、差し込む光が、その輪郭を淡く縁取っていた。
少年には、少女自身が光っているように見えただろう。
「ちょっと待ってね」
少女は少年の左膝に、そっと手を当てた。祈るように目を閉じても、その表情は柔らかい。
少年の泣き声が小さくなり、やがて涙も止まっていった。
次に、少女の手が少年の額へ移る。少年は、その手をじっと見つめていた。
「どうかな? もう平気そう?」
少女が笑うと、さっきまで広場中に響く声で泣いていた少年も、つられて笑った。
「うん! もう大丈夫。ありがとう、お姉ちゃん!」
「あら、血が止まってる? ありがとうございます」
「いえいえー! お役に立ててなによりです!」
少女のローブに丁寧に縫い付けられた紋章を、母親が見つける。
「冒険者さんだったんですね」
母親がそう声をかけた瞬間、少女は目を見開いた。弾かれたように立ち上がり、懐中時計を取り出す。
「やばーい! これから、最後の連盟任務なんです! そ、そ、それじゃああ!」
少女は人混みへ駆け出し、あっという間に姿を消した。遠くから、
「すみませーん!」
という声だけが、何度か聞こえてくる。
少年と母親は顔を見合わせ、思わず笑うのだった。
* * *
城下町の外れへ向かうにつれて、建物の隙間から、遠くの山や森が見えてくる。
竜が棲むという、切り立った山。貴重な原石や素材が採れる、危険な森。比較的安全だと言われる平原でさえ、出かけるには冒険者の同行が必要だ。
外へ通じる関所が見えてくる辺りに、私の所属するギルド《ヤドリギ》はある。
聞いた話では、私が生まれるよりもずっと前からある、由緒正しいギルドなんだとか。おじいちゃんに勧められて選んだけど、どうしてここだったのかは、まだ分かっていない。
丸太造りの建物には、太いツタが巻きついている。私は入口の階段を駆け上がり、転がり込むように扉を開けた。
「すみません、遅くなりました!! ぴやぁ!」
勢いよく戻ってきた扉が、おでこに直撃した。思わず変な声が出る。
一階ロビーにいた人たちの、冷たい視線が突き刺さる。
「あ、ごめんなさい」
私はそう言って、ゆっくりと扉を閉める。
「ちょっとリナ! こんな大事な日にあなたは!」
声の主はエレナだ。動きやすそうな革の軽装に、腰には小さなナイフといくつもの道具袋。背中には短弓を背負っている。
その近くにはトウマと、初めて見る冒険者が何人かいた。今日の任務で一緒になる人たちだ。
「あなたがリナさんですね。良かった、これで全員揃いましたねぇ」
声をかけてきたその人だけは、明らかに年上だった。私は14歳で、エレナは16歳。集まっているのも、それくらいの子が多い。
でも、この人は三十代……くらいだろうか。
「あ、すみません。遅くなりました。あれ? 今日ってミルヴスさんが引率って聞いてたんですけど……」
今日は、私たちルーキーが新人冒険者として正式に認められるための、最後の依頼を受ける日だ。
ギルド連盟に登録しただけでは、自由に活動できない。まずは連盟の指定依頼を一定数こなし、Lv.1冒険者になる必要がある。
「ミルヴスくんは、ちょっと所用が入ってしまいまして。今日は僕がみなさんの引率役になります」
その人は柔らかな口調でそう言った。
でも、なんだろう。威厳、みたいなものは、あまり感じない。
「さて、今回の依頼を確認しましょう。僕は、皆さんに危険があった場合に対処するだけです。作戦を立てるところから、実行、帰還まで。皆さんでやってみてください」
そう言うと、その人は近くの椅子に腰を下ろし、足を組んで周辺地図を手に取った。
「今回の依頼で指揮を任されたトウマだ。よろしく頼む」
トウマが一歩、中央に踏み出した。鎧と剣が触れ合い、かすかに音を立てる。
エレナと仲良くなってから、彼とも何度か一緒に任務をこなしている。
トウマは地図をテーブルに広げる。
「今回の依頼は、作物を収穫する市民の護衛と、周辺に出る下位魔物の討伐だ。想定されるのはスライムやビッグラット。近くでは牛も飼われている。家畜を狙う大型の魔物が出る可能性も、頭に入れておいてくれ」
何度も読み込んだのだろう。トウマは巻物にほとんど目を落とさず、依頼内容を説明していく。私が読んだ時にはなかった情報も混じっていた。
きっと、自分で調べたんだ。
負けてらんないな……!
「ここからは、配置の振り分けをしていく。もし、異論があれば遠慮なく言ってくれ」
私たちは配置を決め、装備と所持品を確かめて外へ出た。
「それでは出発だ!」
トウマの掛け声に、皆が頷く。引率の人は、そんな私たちを少し嬉しそうに見ていた。
関所を抜けると、城下町の喧騒は少しずつ小さくなっていく。関所前で合流した市民の人たちも、柔らかな表情で言葉を交わしていた。私たちを信用してくれているのが、少し嬉しい。
隊列の先頭を歩くのは、エレナともう一人の斥候だ。その少し後ろに、全体を見ながら指揮を取るトウマが続く。
市民の方々を挟むように、重装備の冒険者が左右へ少し広がって歩き、私と何人かの子は最後尾から後方を警戒する。
「確かに、何もしないとは言ってたけど……なんであの人、あんな遠くなの?」
引率役のはずのおじさんは、さらにその後ろだった。
散歩みたいにのんびり歩いていたかと思えば、市民の人と仲良くお喋り。次に見た時には、道端の草花をじーっと観察している。
今はなぜか、草陰から出てきた小さなスライムと睨めっこしていた。
「お嬢さんたち、ルーキーの任務の最後なんでしょう? あの方が引率で良かったわねぇ」
「そうねぇ。ミルヴスさんも素敵だけど、あなたたちにとってはよりラッキーだと思うわよぉ」
「えー、あの冴えないおじさんがですかぁ?」
そう言った瞬間に、パーティの全員が冷ややかな目で私を見た。
あ。エレナが怖い顔をしている。
いや、呆れてるんだ。今までで一番。
「え、あなたまさか、あの人のこと知らないの?」
一緒に後方を守っていた女の子が、信じられないものを見る目で聞いてくる。
……さすがの私も、ちょっと嫌な予感がしてきたぞ?
その子は声をひそめ、私の耳元に口を寄せた。
「ええええっ!? あの冴えないおじさんが、ヤドリギのギルド長なの?」
「あっははぁ。威厳ないってよく言われるんですよね、すみません」
いつの間にか、隣におじさ――いや、ギルド長がいた。本当に申し訳なさそうに、指で頬を掻いている。
「信じられない。私なんて、この方に憧れてヤドリギでの研修を希望したのよ? この方は巷では――」
「総員、警戒態勢!」
前方からトウマの声が飛んだ。私たちは市民の人たちを中央へ集め、周囲へ目を配る。
エレナがトウマの側から走ってきて、私たちに異変の正体を伝えた。
「大型のフリーボアが一体出現。家畜の放牧地の方を見ているけれど、現在のところ警戒域にも入っておらず、隊列は停止しつつ様子を見る」
「了解」
「命令があった時にはすぐに撤退できるように、準備もしてね。頼んだわよリナ」
「うん、エレナたちも気をつけて」
伝達を終えると、エレナはあっという間にトウマのもとへ駆け戻った。
結局、フリーボアはそのまま茂みに消えて、私たちは予定通りに進み始めた。
急に張り詰めた空気は、少し怖かった。けれど、市民の人たちは取り乱すこともなく、静かに待っていてくれた。
私たちより怖いはずなのに。
それも、ギルド長がいるからなのかな。
「フリーボア……この人数の人間を見て逃げ退くまでの判断が遅かったですねぇ」
そう何かを呟いたギルド長の瞳は、影になってよく見えなかった。
その後も何度か足を止めたけれど、私たちは予定の時刻までに目的地へたどり着いた。
草原が広がり、涼しい風が吹き抜ける。さっきまで談笑していた人々は、今は作物を刈り取り、運び、選別する仕事人の顔をして汗を流している。
「みんなが集中できるように、私も頑張らないと」
畑や田んぼの広がる耕作地帯は、市民の出入りが多い警戒地区だ。塀や柵で囲っても、スライムやビッグラットは餌を求めて入り込む。
それでも、人々はここで作物を育て、家畜を飼い、暮らしに必要なものを得ている。安心してその仕事に向き合ってもらうために、私たち冒険者がいるのだ。
「そういえば、さっき言いかけてたの何だったの?」
今日初めて会った冒険者ニアちゃんに私は問いかける。
「あの方の二つ名ね? 私がこのギルドに来た理由、あの方の二つ名は《スライム狩り》よ!」
ニアちゃんは腰に手を当てると、小さな胸を張って得意げに顎を上げた。
可愛い。……じゃなかった。
なんでニアちゃんが偉そうなんだろう?
というよりも――
「え、《スライム狩り》?」
「そう、《スライム狩り》!」
ニアちゃんは胸を張ったまま、さらに得意げに頷いた。
「え、スライムなら私も狩ったことあるよ?」
このギルドの新人訓練では、スライムの習性を学ぶ講習から、実際に倒す練習まで、合わせて5時間くらいかけた。私を含め、みんな実際に倒している。ニアちゃんだって、そのはずだ。
「何匹?」
「え?」
「ギルド長がこれまでに狩ったスライムの数は、32,011体よ?」
ニアちゃんは胸を張ったままだ。心なしか、鼻まで高くなっている。
「訂正です、ニアさん。正確には31,205体ですよ」
また、いつの間にかギルド長がいた。
三万。
途方もない数なのは分かる。でも、どうしても引っかかる。
「竜を倒した《竜殺し》とか、伝承にある、災禍から人々を救った《剣聖》とかは分かります。でも、なんでスライムで二つ名が?」
「それは――僕が聞きたいですね」
「へ?」
ギルド長は、自分でも不思議そうに首を傾げ、そのまま続けた。
隣のニアちゃんは、憧れの人を間近で見上げた途端、感極まったようにふらりと揺れた。慌てて支えると、幸せそうな顔のまま気を失っている。
任務中だぞ、おい。
「僕だって、小さい頃は初代《竜殺し》に憧れましたよ! でも、竜なんて狩れませんし、フリーボアだって怖いです。さっきも、来ないでくださいって、ずっと思ってました!」
なんなの、この人。ニアちゃんは、どこに憧れたんだろう?
竜を狩れないのはいい。でも、フリーボアにまで怯えるギルド長って、どうなの?
「怪我をするのも、死ぬのも怖いです。だから、皆さんが自分たちで安全に任務をこなしてくれているのが、すごく嬉しいんですよ」
そう言って、ギルド長はまた農作をする人々の中へと戻っていった。
周りでは、時折スライムを追い払う声や、ビッグラットと交戦する音が聞こえる。
それでも畑の中では、鎌が茎を切る音がして、籠いっぱいの作物を抱えた人が笑いながら仲間を呼んでいる。少し離れたところでは、休憩に入った人たちが水を回し飲みしながら、今年の出来について楽しそうに話していた。
魔物がいることも、ここが警戒地区であることも変わらない。
なのに、人々は怯えていなかった。
今日採れた作物の話をして、家に持ち帰る量を相談して、仕事が終われば城下町へ帰る。そんな当たり前のことを、当たり前みたいに続けている。
……それって、本当は、すごいことなんじゃないだろうか。
帰りの道のりを考えると、日が傾く前には出発しないといけない。そろそろ、作業を切り上げてもらう時間だ。
すると、エレナが少し慌ててやって来た。
「ニアはこのままここで護衛を。それと、市民の作業を止めて休憩所付近に集まっていて。リナは至急、北東の警戒に合流」
「エレナ、どうしたの?」
「いつもなら帰巣するはずの時間帯なのに、北東だけスライムの数が増えてきているの。対処自体は可能な数なんだけど、一応警戒はしておかないとってトウマの指示よ」
「うん、分かった! エレナは先に行ってて、すぐに向かう」
「リナ、気をつけるのよ?」
「うん、ニアちゃんもみんなのことよろしくね!」
私は北東へ駆け出した。元々、あちらの警戒はトウマたち数人が担当していたはずだ。ほかの方角では魔物が帰巣し始めているらしく、今は手の空いた仲間も集まっていた。
少し離れたところには、ギルド長もいる。こちらを向き、静かに様子を見ていた。
ギルド長の唇が、かすかに動いた。けれど、その声までは聞こえなかった。
「トウマ、エレナ」
「来たな。ここはオレとエレナで十分だ。向こうが少し数が多い。手伝ってやってくれ」
トウマはそう言いながら、目の前のスライムへ剣を振り下ろした。刃が柔らかな体を断ち、その勢いのまま地面へ鈍く突き刺さる。粘ついた液体が弾け、土の上へ散った。
「ふぅ……『身体強化』!」
身体に魔力を巡らせる。足取りが軽くなり、剣を握る腕にも力が乗った。
エレナみたいに速く動けないし、トウマみたいに力強くもなれない。でも、私でもできることはある。
小ぶりな剣を構え、群れから離れた一匹へ踏み込む。
一閃。
少しだけ加速した刃が、逃げる間もなくその体を両断した。そのままの勢いで私は指示された場所へ合流し、残りのスライムを討伐していく。
周囲には、まだスライムがいる。私はそちらへ向き直り、剣を振り上げた。
その時、仲間が倒されたのを見たはずのスライムが、逃げるどころか私へ近づいていることに、私は気づいていなかった。
「うおおおお!」
スライムは臆病だ。仲間が倒されると、そこから離れようとする。訓練で教わったとおり。
だから、逃げる先に見当をつけておけば――
「私でも簡単に倒せる!」
狙った先へ踏み込み、刃を振るう。
周りの仲間も、それぞれ位置を確かめながら動いている。怖くないわけじゃない。それでも、訓練で教わったことを、ちゃんと使えていた。
スライムの数は順調に減っていった。
視界に残っていた一匹が倒れる。
私は身体強化を解き、ようやく息をついた。
「リナ、まだよ! もう一匹いる!!」
「――えっ?」
背後からエレナの叫び声が響く。
振り返ると、スライムが一匹、こちらへ迫っていた。
ほかの個体が倒れても、逃げようともせずに。
もう、すぐそこまで迫っている。
「え、やだ――」
弱くても、スライムは魔物だ。身体を作る液体には弱い酸の性質がある。鼻や口を塞がれれば、息だってできない。
スライムに殺された人もいる。
訓練で聞いた言葉が、頭の中を駆け抜けた。
剣を構え直そうとする。けれど、腕が重い。脚にも力が入らない。
もう一度、身体強化を。
巡らせようとしても、もう魔力が残っていない。
間に合わない。
エレナがこちらへ向かってくる。でも、まだ遠い。
「誰か、助けて」
逃げなきゃ。剣を動かさなきゃ。
そう思っているのに、身体は言うことを聞かなかった。祈るように、目を閉じてしまう。
その瞬間、かすかに空気が押し返されるような感覚があった。
「大丈夫ですか、リナさん?」
目を開けると、目の前にギルド長が立っていた。
その向こうで、スライムが透明な幕にぶつかっている。
「リナ! 大丈夫?」
「――う、うん」
情けない。
私はその場から動くこともできず、泣いていた。駆けつけたエレナが、私の肩を強く抱き締めてくれている。
「ギルド長! 申し訳ありません、オレの判断が――」
「トウマくんの判断にも、指示にも、ひとつもミスはありませんでしたよ」
エレナの肩越しに、二人のやり取りが見える。私はただ、エレナに身体を預けたまま、震えていた。
スライムは、小さな結界の中に閉じ込められていた。ギルド長はその動きを、じっと観察している。
何度も、何度も。
スライムは結界に身体をぶつけていた。
「攻撃性……いや。これは、執着?」
結界に阻まれても、私へ近づこうとするのをやめない。
そう見えた。
「トウマくん。帰還の準備をしましょう。今からなら予定通りの時間に戻れるでしょうし」
そこでギルド長は、少しだけ笑った。
「帰りが遅れると、引率した僕がミルヴスくんに注意されるんです。今日はテオドシウスへ出向していますから、いつもより機嫌が悪いかもしれませんし。時間どおりに帰れそうで、助かりました」
トウマの張り詰めていた表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「さて」
やがて、スライムの動きが止まった。
ギルド長は結界を保ったまま、スライムをゆっくり地面へ下ろした。
それでも、動かない。
しばらく観察したあと、ギルド長が結界を解除する。
ようやく手足の先に力が戻ってきた。私はエレナの肩を借りながら立ち上がる。
「ギルド長、ありがとうございました」
「無事でよかったです。僕の引率の仕事なので、感謝は要らないですけどね」
その言葉に少し安心して、私はスライムへ一歩近づいた。
その瞬間だった。
ピクリとも動かなかったスライムの身体が跳ねる。鋭く尖った触手が、真っすぐ私へ伸びてきた。
「リナ、下がって!」
エレナが私の肩を強く引き、自分の身体を私の前へ滑り込ませる。
――けれど。
触手が、途中で力を失った。
スライムの身体ごと、霧のように崩れていく。
一拍遅れて、キン、と高い音が響いた。
「リナさん。油断はダメです」
ギルド長は、いつもと変わらない声で言った。
「スライムだって、生きるために必死なんですから」
その手には、すでに刃を収めた折りたたみナイフが握られていた。
「……見えなかった」
エレナが、霧散していくスライムを見つめる。それから、信じられないものを見るようにギルド長へ視線を向けた。
「私が前に出るより、先に……?」
「さ、リナさん、エレナさん。皆さんも無事にギルドへ帰るまでが、任務ですよ?」
そう言って笑うと、ギルド長はまるで散歩帰りのような足取りで、先に集まっている隊列の方へ歩いていった。
「……てき」
「え?」
エレナが何か言った。小さすぎて、聞き取れなかった。
エレナはゆっくりと隊列の方へ向き直る。
というか。あれは、絶対にギルド長を見ている。
「《スライム狩り》様、すてき」
その目は、さっきまでとは確かに違っていた。
私も――ほんの少しだけ。
帰り道には、何事も起こらなかった。さっきの騒動が嘘みたいに、私たちは無事、城下町へ戻ってきた。
すっかり仲良くなったおばちゃんたちは、別れ際、商店には出せないという食材をたくさん持たせてくれた。
それもすごく助かるし、嬉しかったんだけど。
「あなたたちのおかげで、安心して収穫できたわ。またお願いね」
その言葉が、少し泣きそうになるくらい、温かかった。
きっと、この言葉を私は忘れないと思う。
ギルドハウスへ戻ると、ギルド長が私たちの前に立った。
「皆さん、お疲れ様でした。護衛対象に怪我はなし。作物にも損害はなし。――皆さんにも、大きな怪我がなくて、本当によかったです」
誰よりも安堵したような声だった。
「反省するところがあった人もいるでしょう。成長に手応えを持った人もいるでしょう。戦うことが怖くなった人もいるでしょう」
ギルド長は、私たち一人ひとりを見るように続ける。
「でも、皆さんは生きて戻ることができました。誇ってください」
ギルド長と目が合ったのは、きっと私だけじゃなかった。
トウマはまだ、少し硬い表情をしている。ビッグラットとの戦闘で噛みつかれた子は、腕に包帯を巻いていた。
みんな、それぞれ今日の依頼で何かを持ち帰っている。
「皆さんは冒険者ギルドへ登録し、ルーキーとして数々の依頼をこなしてきました。そして今日、最後の連盟選定依頼を完遂しました」
少しだけ間を置いて、ギルド長が笑う。
「報告書を期日までにギルド連盟へ提出すれば、晴れて皆さんもLv.1冒険者の仲間入りです。これからも無事で。健闘を祈っています」
こうして、私たちのルーキーとしての最後の依頼は幕を閉じた。
疲れ切った仲間同士で労い合う人。今日の失敗を振り返る人。
トウマの周りには何人かが集まり、さっそく反省会が始まっていた。
帰り支度をしていたニアちゃんに、私は声をかけた。
どうしても、一つだけ聞いておきたかった。
「ニアちゃん、お疲れ様」
「リナ! 怖いことあったんでしょ? 大丈夫?」
「うん。平気だよ、ありがとう」
そう答えながら、最後にスライムへ襲われた光景を思い出す。身体が少しだけ震えた。
「ねぇ、ニアちゃん」
「なに?」
「ギルド長って、本当は強い人なんだよね?」
「え?」
ニアちゃんが、きょとんとした。
いや、なんでニアちゃんが困惑してるんだ?
エレナですら何が起きたのか分からないほどの速さで、あのスライムを倒した。弱い人だとは、とても思えない。
「きっと上位魔物とかも倒してたり――」
「しないわよ?」
即答だった。
「じゃ、じゃあ中位の魔物をたくさん倒したり――」
「しないわね」
「え。でも、あんなに強いのに」
「さっきギルド長自身が言ってたじゃない。31,205体」
ニアちゃんが指を一本立てる。
「あ、今日一匹狩ったから、31,206体かしら」
ニアちゃんが嘘をついているようには見えない。
ということは。
本当に、それだけ?
「ギルド長の討伐記録は、31,206体のスライム。以上よ」
そう言い残して、ニアちゃんは荷物を抱え、ギルドハウスから出ていった。
私はしばらく、その背中を見送っていた。
反省会の方へ目を向ける。話はどんどん白熱しているようで、いつの間にか先輩冒険者まで混ざって討論を始めていた。
私は少し笑って、自分の荷物を抱えた。
拝啓、おじいちゃん。
今日、Lv.1冒険者になるための、最後の依頼を終えました。
怖いこともあります。できないことの方が、まだまだ多いです。
でも、いろんな人の笑顔を守れる冒険者という仕事が、私はやっぱりとても好きみたいです。
これからも頑張ります。
P.S.
うちのギルド長、スライムしか狩らないんです。
リナ
* * *
一仕事を終えた男が、ギルドハウスの書斎へ戻ってきた。
抱えた書類には、新人たちの最後の連盟任務を記した報告書もある。
「――ミルヴスくん。また、そんなところで何してるんですか?」
灯りをつけると、ミルヴスがソファに身体を投げ出していた。深く沈んだ身体には、起き上がる気力も残っていないようだった。
「あー、ギルド長。おかえりー」
「はい、ただいま。ミルヴスくんも、お帰りなさい」
ギルド長は抱えていた書類を執務用のデスクへ置いた。それから二人分のお茶を入れ、一つをソファの前のテーブルへ。もう一つを自分のデスクへ運び、そのまま椅子に腰を下ろす。
「ミルヴスくんは、テオドシウスに出向するといつもそうなりますねぇ」
「いや、だから何回も言ってるけど、テオドシウスにはオレの兄貴たちが――」
ギルド長はミルヴスの言葉を最後まで聞かず、今日まとめていた書類へ視線を落とした。
「また、なんかあったんですか?」
「気になることが、ちょっとね」
「ふーん。オレが『視』ましょうか?」
ギルド長の手が、わずかに止まった。
「……そうだね」
ギルド長は今日の新人引率任務の報告書を開いた。備考欄に、いくつかの内容を書き加えていく。
少しして、ミルヴスが口を開く。
「……異常は、なさそうですけどね」
「ありがとう」
短く答え、ギルド長は書き終えた報告書を見下ろした。
「そうであってほしいよね」
ペンを置き、ようやくお茶へ手を伸ばす。
静かな書斎に、湯気だけがゆっくりと立ち上っていた。




