46.〈石の根っこ亭〉
血の匂いに引き寄せられて、ジャイアントロックボアが襲ってくる。
その知らせは、瞬く間に領都中に広まった。
屋台広場も例外ではなく、人々は一様に不安そうな顔を見合わせている。
「マジかよ。ジャイアントロックボアっていや、一斉討伐級のモンスターだぞ」
「〈突進〉のスキルで、城門も城壁も木っ端微塵に消し飛ぶらしい」
石造りの城壁が木っ端微塵、はいくら何でも大袈裟だと思う。
――思うけど。
木立の木々を弾き飛ばして現れた、あの巨体を思い出せば、あながちないとも言い切れない。
「皆、落ち着け! ノドの話じゃ、岩小人の山からここまで、奴の足でも二時間はかかる。それまでに城門の守りを固めるんだ。日の出まで持ちこたえれば、こっちの勝ちだ!」
屋台広場の端に設けられた檀上で、ヴィンスが声を張り上げた。
「お館様にはすでに報告済みだ。領主館では、今、お館様とハーキの族長、それに昼の代官やギルドの職員も合わせて話し合いが行われている!」
広場のあちこちから「おう」「いっちょうやるか」などと声が上がり、人々がざわざわと動き出した。
そんな中、小さな手が、私の手をきゅっと握ってくる。
見下ろせば、これまで見たこともないほど真面目なノラの顔があった。
「行こう、ジル」
「行くって、どこへ?」
「〈闇の宮廷〉だっぺ」
とノドが言う。
「こっから先は、俺ら大人ん仕事だかんな。ジルはノラと一緒に安全な場所で待っててけろ」
〈闇の宮廷〉。
そういえば、私達は元々そこへ向かう途中だったことを思い出す。
だけど……。
――こっから先は、俺ら大人ん仕事だかんな。
「ジル」の中にいる「私」だって大人だ。
(私のスキルで、何か手伝えることがあるかもしれない)
「ねえ、ノド。私、もしか……」
けれど、その時にはノドは踵を返して駆け去っており、ノラは私の手を引いて反対方向に走り出していた。
――大丈夫、だよね。
ノド達ロックノームはボア狩りに慣れているし、吸血鬼達はワンパンでロックボアを倒してしまう猛者揃いだ。
私一人が残ったところで、足手まといになるのが関の山。
そう自分に言い聞かせながらも、私の胸は〈虫の知らせ〉に騒めき続けていた。
◆◆◆
〈闇の宮廷〉。
それは、領都の地下に無秩序に広がる建物群だった。
広大な空洞は岩壁に張りついた月光苔の光で青緑色に照らされている。
高い天井からは螺旋階段や縄梯子、中には消防署にあるすべり棒のような細い柱がいくつも下の建物と繋がっており、〈夜の子ら〉がてんでに上り下りしていた。
「おばちゃーん。いい晩ねー」
〈石の根っこ亭〉。
看板にそう書かれた宿に、勝手知ったる様子でノラが入っていく。
「あんれ、ノラちゃんでねぇが。ちっと見ないうちに、まぁ大っきぐなっでぇ。兄ちゃんはどしたの、一緒じゃねぇの? それに、そっちの人ん子は?」
顔中が皺に埋もれたようなロックノームのお婆さんが、帳場からひょこひょことやってきた。
「兄ちゃんは上でヴィンス達を手伝ってる。あのね、上で〈襲来〉があるから、あたし達は下で待ってなさいって。そんで、こっちは新しくうちの子になったジルだよ!」
新しくうちの子になったジル。
そのフレーズに、思わずほわほわと頬が緩んでしまう。
そんな私を上から下まで見回すと、お婆さんは歯のない口で「ほほっ」と笑った。
「はぁ、そらまた。あの偏屈なニルドが、人ん子さ迎え入れたって? 明日は石兎が空を飛ぶね」
ノラが振り向いて「こっち」と私の手を引っ張る。
「おばちゃん、屋根裏使っていい?」
「はぁ。ええけど、他にもっといい部屋があんのに」
「いいの。あっこが一番地上に近いもん」
◆◆◆
狭い階段をとたとたと上がって辿りついた屋根裏は、三階建ての宿のさらに上にあり、傾斜した低い屋根に開いた天窓のすぐ上が地下空洞の天井だった。
「この上が、ちょうど屋台広場になってるんだよ」
なるほど、天窓を押し開ければ、頭上からはばたばたと人の行き来する足音と振動が伝わってくる。
「ベッドはここ」
と指さす方には、おそらく正規の客室ではないのだろう、藁を積み上げてシーツを掛けただけの簡素な寝床に、色とりどりのキルトが掛かっている。
ノラはぽすんとそこに飛び乗ると、魔法袋からごそごそと紙袋を引っ張り出した。
「はいこれ。ピアラの砂糖漬け。さっき買っておいたんだー」
「ええ? いつの間に」
私たちは並んでベッドに座り、ピアラの砂糖漬けを食べながら、しばらく地上の物音に耳を傾けた。
石畳の上を、何か重い物を引きずっていくような音は、おそらく城門の内側にバリケードを作っているのだろう。
くぐもった人声が何を言っているかまでは聞き取れないけれど、声音に恐怖や焦りはない。
間近に感じる人の気配に宥められ、いつしか私たちは寄り添って眠りについていた。
ズズン!
突然の振動と共に天井が割れ、裂け目から眩い朝日が射し込んでくるまで。




