39.因果
「ちょ、何してくれてんのよ。離しなさいよ!」
ロージーがヒステリックな声を上げ、掴まれていない方の足でザックの手首をめちゃくちゃに踏みつける。
ぼきっ、と嫌な音がして、男の手が不自然な方向に折れ曲がった。
途端に、ザックががばっと起き上がる。
――痛みだ。
折れた手首の激痛で、時間と共に薄れつつあった〈威圧〉の効果が一気に解けたに違いない。
立ち上がりざま、ザックは強烈な膝蹴りをロージーの鳩尾に叩きこんだ。
「……っ! がはっ!」
ロージーが身体をくの字に曲げて悶絶する。
「ロージーちゃんさあ……。自分だけ助かろうなんて、そんな身勝手許されると思う?」
言いながら、ザックは片手でロージーの襟首を掴み上げ、ロックボアの赤黒い血が伝う自分の頬を、女の頬に擦りつけた。
「うわっ」
「ひえっ」
閉じかけた扉岩の陰から様子を見ていた岩小人たちが一斉に息を呑む。
「クズだな」
「カスだっぺ」
ザックは、まるでゴミでも捨てるように、女の身体を背後に――ゆっくりと迫り来るロックボアの進路に放り出した。
刹那。
壊れた人形のように投げ出されたその姿が、かつてポーターの手でシャドウパンサーの前に投げられた私自身と重なる。
――〈境界……っ!
けれどその時、牙と重たい蹄を持つ巨大な影が女の上にのしかかり、断末魔の悲鳴と骨の砕ける嫌な音に、生まれかけた紅い線は跡形もなく霧散した。
◆◆◆
「でさぁ。まぁいろいろあったわけだけど、とりあえず中に入れてくんない?」
赤黒い血がこびりついた顔もそのままに、へらへらと笑いながらザックが言った。
閉じかけた扉岩の隙間は十センチもない。
すぐ外に立つザックの背後では、おぞましい咀嚼音が続いていた。
「なあ。頼むからさぁ。その物騒な物どけてくれよ」
内側に立つ小人たちの先頭で、ノドは矢をつがえた小型の弩をザックの胸元にぴたりと向けていた。
「まず、そん汚らしい手さ引っ込めぇ」
誰かが言った。
紫色に変色したザックの手が、扉岩の隙間から中に入ってきている。
ふと見れば、泥まみれの黒いブーツの靴先も、ちゃっかり中に押し込まれていた。
――なあ、いいじゃん。入れてくれよ。
ふいに前世で聞いた忌まわしい声がよみがえり、私はぞくっと身震いした。
「入れないで、ノド」
囁くような私の声に、ノドは「おう」と背中で答える。
「心配すんな。絶対入れねぇ」
だが、その言葉に被せるようにニルドの声がした。
「わがった。――ただし条件がある」
全員が――ザックも含め――信じられないという顔でニルドを見た。
「はぁ!?」
「何ばが言ってんだ、父ちゃん!」
「ニルドよう、気は確かけ?」
ただ一人、ザックだけが喜色満面で頷いた。
「さっすがお父さん、話がわかる~! いいよぉ。この際だ、何でも言うこときいちゃうよ~?」
「そんベルトさ外してこっち寄越せ」
ニルドはザックが斜め掛けしたベルトを指さした。そこには短剣や用途不明のポーチがずらりと並んでいる。
ザックは一瞬、嫌な顔をしたが、やがて観念したように肩を竦めた。
「しょうがないなぁ。ま、命には換えられないもんね~」
相変わらず靴先をドアの隙間に突っ込んだまま、ベルトを外すとこちらに押し込む。
ニルドが進み出てそれを受け取り、素早くザックの手の届かない場所に放り投げた。
「お父さ~ん、それもうちょっと丁寧に扱ってくんない? 貴重品も入ってるんだからさ~」
ザックの文句には耳を貸さず、ニルドはさらに手を出した。
「あの毒の短剣もだ」
一瞬、ザックが真顔になった。
「聞こえなかったのか? あの毒の短剣も出せと言ったんだ」
「えーと。どの短剣のことかなぁ?」
「お前がノドを刺そうとした短剣だ。毒蛙の粘液が塗ってある」
「い……いやいや。そんなこと言って、俺が取りに戻ってる隙にここ閉めようって魂胆でしょ?」
「取りに戻る?」
ニルドの声が低くなった。
「妙なこど言うでねぇが。あん短剣なら、とうに地面さ無ぇど」
「……は?」
「そん右のブーツん中だっぺ。さっき、お前が這いずりながら引っこ抜くとご、俺ぁ確かに見たっぺな」
沈黙。
へらへらと笑っていたザックの顔から、すっと表情が抜け落ちた。
――すごい。
こんな時なのに、私はちょっと感動してしまった。
あの混乱の中で、よくそこまで見ていたものだ。
「いよっ、さすが族長!」
「目のつけどころが違うっぺ!」
小人たちが囃し立てる。
「…………チッ」
ザックの舌打ちと。
背後の咀嚼音が、ふつりと止んだのは同時だった。
◆◆◆
しん、とした闇の中に、ブシュー……という荒い鼻息が響く。
〈防衛線〉は、発動しない。
あの巨体の敵意が、余すところなく目の前の男に向いている証拠だ。
「わ、わかった。出す! 出すから!」
ザックが泥まみれのブーツから慌てて短剣を引き抜いた。
「ほら! な? だから早く――」
ズン、と地面が揺れた。
ズン。ズズン。
「~~~っ! クソがああああっ!」
ザックが身を翻した。
折れた手首を抱え、暗い空き地を転がるように逃げていく。
ズウン! ズウン!
加速する地響き。
その時だった。
ガチンッ!
金属の噛み合う音と、ザックの悲鳴が夜気を引き裂いた。
「あ……ぎ……っ。ロージーの奴、こんなとこにまで仕掛けて……っ!」
――モンスターじゃあるまいし、あんな見え見えの罠に引っ掛かるほうが間抜けっていうかぁ。
ケタケタ笑う女の声が、耳の奥によみがえる。
「く、来るな……っ! うわっ、がっ――」
ゴロリ。
重たげな音を立てて扉岩が閉じ、外の悲鳴が遠くなった。
「ま、因果応報っちゅうこった」
ニルドが言い、ザックのベルトを拾い上げる。
「こん事ぁ、明日にでも領主様に報告すっぺ」
「領主様?」
聞き返した私に、ニルドは「ああ」と頷いた。
「ティール辺境伯、コンラート様だ」




