38.ジャイアントロックボア
『〈防…衛…………が……』
『……線〉…………動しま……』
ブシュ――……
ブシュ――……
木立を割って飛び出してきたそれが、扉岩の前で一塊になった私たちを鼻息も荒く睨めつけた。
闇の中で黄色く光るその視線が私を通過するたびに、中空に紅い線が一瞬現れてはすぐ消える。
(なるほど。今はまだ、敵意が拡散してるのね)
納得する私の耳に、ひそひそと囁き交わすザックたちの声が聞こえてきた。
「おい、何だありゃ? ロックボアにしちゃデカ過ぎだろ」
「え~、やっば! こんなとこにジャイアントロックボアが出てくるとか、聞いてないんですけど~」
「変異体かよ。ランクは?」
「知らないけど~。見た感じ、Bくらい余裕でいくんじゃな~い?」
「マジか」
――変異体。Bランク。
ずっと昔、乳母に教えてもらった数え歌を思い出す。
Fは優しい、ヒヨッコ一人で事足りる
Eは易しい、兵士一人で大丈夫
Dは命取り、二人でお行き
Cは高くつく、パーティの出番
血塗れBには手を出すな
ちなみにこの歌、続きは
Aは阿鼻叫喚、街が消え
Sで残るは伝聞ばかり
という救いようのない歌詞なんだけど……。
――それはともかく。
Bランクモンスターといえば、その土地の領主が冒険者ギルドにお金を出して一斉討伐を命じるレベルだ。
ザックとロージーがどれだけ腕の立つ冒険者か知らないけれど、たった二人でどうこうできる相手じゃないし、岩小人たちに至っては、「何か変な物があるって聞いたんで、サンダルつっかけて出てきました」みたいな格好の人ばかりで、とても今から変異体と戦うような装備じゃない。
「なるほどね。こいつぁ逃げの一手だな。てなわけで……」
ノドを羽交い絞めにしたザックが、短剣をノドの首筋に当てたまま器用に持ち替え、空いた手でベルトポーチから小さな瓶を取り出した。
「悪いが、兄さんには奴の敵意を取ってもらおう」
言いながら、小瓶のコルク栓を歯で抜き取る。
途端に、何ともいえず生臭い臭いが漂った。
ぞわり、と腕に鳥肌が立つ。
あれはまずい、と〈虫の知らせ〉が私に告げている。
悪い予感を裏付けるかのように、小人たちが騒ぎ出した。
「ありゃロックボアの血じゃねえか!」
「まずいぞ、あったら物ぶっかけられたら……」
「兄ちゃんっ!」
ノラが叫んで身をもがき、私の腕から抜け出した。
「ノラ、駄目っ!」
慌てて引き戻そうとした私の腕が宙を掻く。
ノラが不意に屈みこみ、地面から何かを拾い上げたからだ。
次の瞬間――。
ビシッ。
ノラが投げた小石が、瓶を持つザックの手に見事に命中した。
不意をつかれて腕が緩んだのだろう。ノドがすかさず体当たりして、男の拘束を振りほどく。
弾みで落ちた短剣が、地面にぐさりと突き立った。
ザックの手から飛び出した小瓶は、どろりとした液体を振りまきながら空中に跳ね上がり――……。
慌てふためいたザックの頭にコンとぶつかって地面に落ちた。
赤黒い液体がザックの額から顎へと流れ落ちる。
その刹那。
ブゴゴオオオオオオ――!
ビリビリと空気を震わせて、ジャイアントロックボアが咆哮した。
「ひっ!」
「きゃあっ!」
ザックとロージーが揃って地べたにへたりこむ。
私も、全身が凍りついたように動けなくなった。
――〈威圧〉!
まさか、モンスターがそんなスキルを持っているなんて。
(でも〈防衛線〉は出ていない……)
さっきまで、視線が通るたびにうるさく明滅していたあの線が。
――てことは、敵意は私に向いてない? ボアの血を浴びたザックに集中してるってこと?
とはいえ〈威圧〉で一ミリも動けない今、何かしらの巻き添えを食う危険は十分あるわけで。
実際、視界の端では巨大な影が、へたり込んだザックに向かってゆっくりと間合いを詰めつつあった。
妙に慎重なその足取りは、もしや――罠を警戒している?
「ジルっ!」
走り寄ってきたノドが、「悪い!」と言いざま、私の頬を思い切り引っぱたいた。
途端に〈威圧〉による硬直が解ける。
「こっち!」
「今のうちに中さ入れ!」
口々に叫ぶノラとニルドの声に振り向けば、小人たちはいつの間にか扉岩の中に入っており、まだ外にいるのはノドと私、そしてザックとロージーだけだった。
「な、何であんたたちは平気なの!?」
〈威圧〉が乗った咆哮は、この場の全員が聞いたはずなのに。
私の手を引いて駆け出しながら、ノドは得意げに鼻をうごめかした。
「慣れだっぺ! 俺ら、ガキん頃からボアの〈威圧〉さ、さんざん浴びで育ってっかんな!」
「ええ……?」
それって「慣れ」で片づくものなの?
背後では、地面を踏みしめる重たい音が、じりじりと近さを増している。
私の疑問を余所に、ノドは私を扉岩の中に押し込むと、自分も中に飛び込んだ。
「そら、閉めっど」
「ま……待って!」
悲鳴のような声に外を見れば、唇から血を流したロージーが、よろよろと近づいてくるところだった。
「お願い! あたしも中に入れて……!」
――あの血。
もしかして、自分で噛み切ったのか。〈威圧〉を解くために。
その時だった。
地面に這いつくばっていたザックの手が、ロージーの足首をがっちりと掴んだ。
「ど、土壇場で相棒を、み、見殺しにするとか……つ、冷たくね……?」




