32.罠
『〈防衛線〉が発動します』
いんいんと尾を引く獣の咆哮。
その声が聞こえた木立のあたりに、これまで見たこともないほど太い紅色の線が出現した。
ぶわり、と全身に鳥肌が立つ。
〈女王相〉のウォーアントと対峙した時でさえ、あんな〈防衛線〉は出なかった。
「走れっ!」
兄が絶叫するより早く、ノラが転がるように駆け出した。
ノドがすかさず後を追う。
「悪い! こん先に扉岩があっから!」
「えっ!?」
びゅん! と音がしそうな勢いで二人は私の横を走り抜け、木立の間を見え隠れしながらあっという間に見えなくなった。
「待って!」
――いや、ここへ来て置き去りかい!
内心悪態をつきながら、私も必死に後を追う。
少し行くと木立が途切れ、丸く開けた場所に出た。
途端、視界がホワイトアウトする。
「……っ!」
たまらずゴーグルをずり上げれば、空はすでに夜明けの色に染まっていた。
空き地の奥に切り立った山肌が見え、そこだけ色の違う丸い大岩が露出している。
ノドの言う「扉岩」とは、あれのことではないだろうか。
驚いたことに、そこにも一頭のベビーロックボアがいた。
ブヒブヒとさかんに鼻を鳴らしながら、同じ場所をぐるぐる回っている。
見れば、六本脚のうち一本がトラバサミに似た罠に挟まれ、そのせいでそこから離れられずにいるのだった。
さっきノドが言っていた「罠」という言葉を思い出す。
(つまり、この空き地には他にも罠があるかもしれない?)
用心深く空き地を見渡す私の前に、柔らかな泥を蹴散らした二組の足跡が、一直線に続いていた。
そして、その先に――。
地面に座り込んで泣きじゃくるノラと、その足許でさかんに手を動かしているノドがいた。
「ノド! ノラ!」
足跡を踏んで駆け寄った私に、ノドは蒼白な顔を向けた。
「こんなとごさ罠ぁ仕掛けやがって」
ノラの細い足は、さっき見たのと同じトラバサミ様の罠にがっちりと挟まれていた。
バネ式の単純なトラバサミと違い、可動部分に何やら複雑な紋様が刻まれている。
「盗人除けの二重罠だっぺ。無理くりこじ開けたり壊したりすっと、爆発しちまうかんな」
言う間もノドは手を止めない。その額には汗が玉を作り、周囲の地面には工具が点々と散らばっていた。
ブキ――ッ!
突然、空き地の子イノシシが苦痛に満ちた悲鳴を上げた。
見れば、山影から顔を出した太陽が、空き地に稜線の影を落とし、その境目がくっきりと子イノシシの身体を横切っている。
そして、日に照らされたその下半身は。
見る間に石に変わっていった。
◆◆◆
「兄ちゃん……」
ノラが掠れた声を上げ、縋るように兄を見る。
「大丈夫だ、ノラ。兄ちゃんが絶対助けでやっがら」
言いながら、ノドは着ていたチュニックを素早く脱ぐと、妹の頭からそっと被せた。
「ほれ。日除け代わりに被っとけ」
けれど、再び罠に向き直ったノドの表情は暗い。
稜線の影は、今や完全に石化した子イノシシを通り過ぎ、ここまでの距離はあと十メートルといったところか。
だがその距離も、目で見てそれとわかるほどじりじりと縮まってきつつあった。
(要は、直接日に当たらなきゃいいんだよね)
少し前から空は明るかったにも関わらず、子イノシシは直射日光に当たるまで石化しなかった。
――なら、日陰を作ればいい。
彼らの前に立って影を作る?
駄目だ。私の影じゃ細すぎる。
空き地の向こうの木立から枝を取ってくる?
駄目だ。二人を覆えるほど大きな日除けなんて、短時間じゃ作れない。
考えている間にも、稜線の影は近づいてくる。
あと五メートル。
ノドの手許で、ぱきんと何かが折れる音がした。
「っ! こんだーげ」
ノドが舌打ちして小声で毒づく。
あと四メートル。
「兄ちゃぁん…………」
チュニックの下で、ノラが啜り上げる声がした。
あと三メートル。
迫りくる稜線の境目と彼らの間に立って、私は必死に考える。
何かないか。何か。
二メートル。
――スキルは?
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〈境界線〉Lv.7 任意の場所に越えられない線を引く
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ウォーアント戦で築いた〈境界線〉の防壁。
あれをもっと高い密度で引いたとしたら?
残り、一メートル。
不意にノドが工具を放り出し、ノラに覆いかぶさるように抱きしめた。
「兄ちゃん!?」
「心配すんな。こんまま夜までじっとしてりゃ、誰かが見っけてくれっぺよ」
「嫌だっ! やめてよ! そんなの駄目だよ、兄ちゃん! 兄ちゃーん!」
ノラの悲痛な声とともに、光と影の稜線が私の足許まで迫ってきた。
「ごめんな、ノラ」
――〇メートル。
次回、第一章カーマイン迷宮 最終回!




