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仮面を外した比留間さんは、淡々と話した。俺が死ぬ前なんて、大学で話したこともなかった。そんな人と会話している。まるでずっと前から一緒にいて、俺と比留間さんは話し慣れていたかのようだった。
コピー、と言われても、以前の俺だったら信じられなくて比留間さんに食ってかかっていただろう。でもここは違う。何もないまっさらな伽藍堂。それにすでに俺は死んだはずなのに、生きていたときと変わらず感情を持っている。自問自答もできる。それどころか、現世に透明人間として舞い降りて、人々の生活を垣間見ることすらできていた。
疑いたい気持ちも少しはあったはずだ。でも何となく信じられているという他ない。ここはなんでもあり得る場所だから。死んだ後に以前と変わらない魂のまま、生きているという実感。これらの経験がきっと疑いたい気持ちを上回った。
改めて想像してみた。今まで俺の見ていた比留間さんが、比留間さんではなかったということ。いやそりゃ確かに比留間さんだ。でも比留間さんの分身。クローンを見ていた。オリジナルはずっとこの伽藍堂にいた。
「でもそれじゃ、俺は、比留間さんと付き合えないじゃないか」
比留間さんは、なぜ? と首を傾げた。
「だって、俺とのつながりは消えちゃったわけでしょ? その図書館での出来事がなかったら、俺に興味を抱くこともなかったんじゃない? それが比留間さんの後悔だった訳だし」
そう思って口にした俺だったが、言った後で不可解な点に気づく。自殺しようとしたときに、比留間さんは俺の後を追ってきた。あろうことか、柵を飛び越えてまでついて来た。もし完全に接点がなくなっていたとしたら、そんなことがあるだろうか? 少なからず、祐という人間の存在は認識していたことがわかる。それに、あの交差点で飛び出す前の比留間さんは言っていた。『ユウ君なら、連れて行ってくれると思ったから。私の生きたいところに』と。どう考えても、図書館での本の件だけが、馴れ初めだったとは思えない。
「何かを感じ取るのにさ、上も下もないと思うんだ。この人は素晴らしい。誰もがそう思う人の評価をさ、そんな図書館で偶々二人になったみたいなきっかけが無くなっただけで変えられると思う? 私は自分のことをこのときぐらいは信じてたと思う。もし自分が記憶喪失になったとしても、もう一度、一目その人の顔を見れば絶対にわかるって。この人は、自分の隣にいるべき人だって。そんな気持ちだった」
そんな比留間さんの声は、俺が透明人間として見てきた比留間さんとは別格のような存在なような気がした。オリジナルの自分は成長した。でも、コピーの自分は神の思し召しとも言えようきっかけを失った。単純明快なきっかけを失い、接点は薄くなった。それでも、大学に通う傍ら、祐、同じ学科の俺の顔を見ることは少なからずあるはず。それを傍目でも見たときに、また、オリジナルの比留間さんが感じたことと同じ感情を抱くはずだ。そう信じて、コピーの自分に託した。
自分はもう感じられないあの幸せを、コピーの自分なら感じてくれるはずだ、と。
初めて顔を見たとき。初めて話したとき。初めて目を見合わせたとき。そのときの衝撃やら感動は、一度しか味わえない。『初めての感動が消えていく』それは俺自身も感じていたことだった。
「また一からやり直す。それでも私、比留間咲は、ユウ君を見て何らかの感情を抱くはず。そのときの感動をさ、コピーとはいえ私なんだから、もう一度というか、彼女にとっては初めてなんだし、味わってほしいのよ。なーんて言ってるけど、ただの後付け。結局自分が現世に戻れないのを言い訳に格好よく語ってるだけよ」
「比留間さんは、それでいいの? ずっとこのままで」
「じゃあ、あなたがここに残る?」
それは容赦のない感情の嵐の前触れだった――。
「私だって何度も考えたよ。もし自分が現世に戻れたら。もし自殺していなかった頃の自分に戻れるんだとしたらって、何度も考えたよ。後悔を取り除いて、ユウ君への気持ちを自分で欺いていたんだってことにやっと素直になれた。だからやり直せるんだって思った。現世に戻って、自分からユウ君に声を掛けに行って、重力ピエロの感想を言って、一緒に大学生活を明るくしようと思った。告白して、付き合って、初めての感動を何度も何度も味わい続ける。もっと幸せになって、もっと一緒にいて、もっと楽しく生活できる。そんな未来を想像して興奮したよ。興奮したんだよ。なのにさ。私の神様だけは、全然神様じゃなかった。エゴイストだったのよ」
比留間さんの声はだんだんと萎んでいった。震えていった。心の叫びを垣間見た。受け取った。
「あなたには戻る権利があるの。自殺する前のあの時間に戻る権利が」
そう呟く比留間さんの目は、さっきまでのものとは違うような気がした。目を合わせてくれない。そっぽを向いて、でも声を張り上げるだけの器量は感じられる。
「本気で泣けるようになったんだね。もう、家で一人泣いていることを隠すような比留間さんじゃないじゃない」
俺は何を言っているのだろう。彼女は泣いてなどいない。確かに声は震え気味だったが、涙は零していない。なのに、俺は比留間さんが泣いているような気がした。
気がしたんだ。
「向こうの世界で、私のこと大切にしてあげてよね」
俺は話を合わせた。
「俺、また自殺するかもな」
「だとしても、ユウ君がまたあの連絡通路から飛び降りようとしたら、あっちの私はまた追いかけていくとはずだから」
「なんでそんなに自信持って言えるの?」
「コピーの私はまだ、感動を知らない私だから。初めての感動を知らない私だから。今の私みたいに成長して、もっともっとって欲深くないから」
「欲がないと、大人になっちゃうよ?」
そう俺が言うと、比留間さんは笑った。
「そうだよね、そうだよね。子どものまま大人にならなきゃいけなかった」
「そうだよ。ネバーランド、行きたくない?」
「もう来てるよ馬鹿。やっとネバーランドに来れたって訳」
「俺が連れて行かなくても、自分で来れちゃったってことか。夢、叶ってるじゃん」
「違うよ。ユウ君がいなかったら、来れてないから。そもそも自殺しようとも思わなかったかもしれない」
「自殺した理由は?」
「ユウ君が優しそうだったから?」
「何それ。本当にそんなんでコピーの比留間さんは俺のこと追いかけてくるの?」
「本物の私が嘘つくと思う?」
はにかんだえくぼに吸い込まれそうなくらい、俺の心は取り込まれた。あの頃の俺に無かったもの。それは将来への不安から来ていた。いつかは消えてしまう。手に入れたとしても、何かの拍子に簡単に手から零れ落ちてしまう。形あるものがいつかはなくなることは知っていたし、人間の関係性だっていつかは消えてしまうこともある。寧ろ消えるのが普通だ。恋愛なんて尚更だ。交際経験が複数なんて人間はざらだ。軽い気持ちで付き合えばいい。それで長続きすれば一生の賜物。逆に続かなければそれまでだったということ。そう割り切れていたはずだし、割り切らなくても普通なら軽く「彼女が欲しい」と嘆けるものだ。
消えるのが怖かった。裏切られるのが怖かった。仲が良かった以前とは打って変わった表情で、「死ね!」なんて言われたら俺は耐えられそうにない。そしてその状況を見たくない。だから、誰かを悲しませるくらいだったらそもそも関係性を絶てばいい。関わらなければいい。作ろうとしなければいい。築こうとしなければいい。
あの頃の俺に無かったもの。思いのほか真面目に生きていた自分。遠慮なく土足で踏み込むことができなかった傷口。代償。母親の顔が浮かぶ。姉の顔が浮かぶ。そこに笑顔はあったか。はにかんだえくぼはあったか。おおむねあった。
なかったのは、無償の慈悲。愛着。
比留間さんが初めての感情。これが俺の初めての無償の慈悲と愛着だった。
「素直に嬉しいんだ。なんか会えてよかったよ。こんな自殺した後で会うとは思ってもみなかったけどさ、それでも、普通、人が自殺したらさ、こんなにもいい思いして天には登れないと思う。まあどっちにしても、俺はもう成仏するしかない。あ、それか比留間さんがいいなら、俺はここの支配人になってもいいし……」
「違うの」比留間さんは首を横に振った。
「俺はもう一回死んだ身だしさ、本当はこんなこと許されないだろうし、これからいなくなる人間に言われても嬉しくないだろうけどさ、こんなせっかくの絶好な機会が与えられたからさ。言うね」
俺がずっと求めていたもの。あの頃の俺に無かったもの。苦痛が当たり前だと思っていた虐待期。贅沢が敵だと布団の上で誓った大学の入学式の朝。受け身のままずっと生きていたあの頃の俺に無かったもの。それは――。
「比留間さんのこと、好きです。多分、いや、確実にずっと」
愛し方だ。




