【生きたいところ】
神とはやはり厳かな存在だったようだ。人々の暮らしを垣間見て憂うことしかできないのに、馬を助けてやることができた。比田井にとって見れば恐ろしいことだったろう。見えないところからいきなり顔面を張り倒される。範疇の外の出来事は、いつだって人を惑わせる。それが物理的に不可能だと証明されていることであれば尚更だ。惑いは恐怖へと変わる。
彼は何かに怯えるように逃げた。喉に息が詰まっているようで言葉も出てこないようだった。足をもつれさせながら立ち上がり、玄関の戸を開ける手はドアノブに定まっていなかった。俺はただずっと、そいつの姿を睨み続けた。
比留間は彼を追いかけるだろうか。ごめん、私が悪かったから嫌いにならないでと彼を追ってアパートを出るだろうか。
俺はそっと彼女の隣に腰を下ろす。仰向けにだらんとしているところを見るに、何が起きたのか把握できていないのだろう。涙は心に忠実だった。
「なあ、比留間はさ、あの日、なんで俺を追いかけてきたんだ?」
返事が来るはずもない。それを承知で話しかけているのだ。
「びっくりしちゃったよ。結構な勢いで教室を飛び出して、思いっきり階段を上ったんだよ? なんで追いつけたんだ? 本当にびっくりしたさ。一番生きて欲しいと思ってた人が、何の躊躇もなく柵を飛び越えて俺を追いかけてくるんだよ? それも五階から地面までずっとさ。普通じゃ考えられないじゃん。少女漫画や青春漫画のクライマックスでもないんだからさ。でもちょっと嬉しかったんだよなあ。大嫌いな世界には、同じくらい大嫌いな人間がいる。ずっとそう思ってた。でも、そう思っていた心が揺らいだんだよ。俺が生きてる世界にも、こんなに綺麗な人がいる。幻滅しきってた世界に光が見えちまった。それは、不良が大学に合格すればもてはやされるけど、普通の人が大学に受かっても当然、みたいなのと一緒だと思う。思うんだけどさ、比留間の顔見ただけで、思えちゃったんだよ」
馬鹿みたいだった。たかだか数回しか見たことのない女の顔が、今も鮮明に頭の中で形作ることができるのだ。
「悪くない、って思ったんだ」
「ユウ君に、ついていこうと思った……」
「どうして?」
「ユウ君なら、連れて行ってくれると思ったから。私の生きたいところに」
「ネバーランド?」仮面の男と話した記憶が浮かぶ。
「みんな、子どものまま大人になれたらいいのにね」
比留間は体を起こした。はだけた服を整える。そして靴を履いて、ドアを開けてという一連の動作は洗練されていた。俺が立ち上がって動き出したのは、ドアがバタンと閉じた音が聞こえる、丁度その瞬間だった。
ドアの取っ手に手を掛け開ける。走った。そう遠くにはいないはずだ。アパートを出て、一つ目の曲がり角を曲がると、彼女の後姿があった。彼女の後頭部は、赤い発光ダイオードの光に反射して白い輪っかを作っていた――。
軽自動車のクラクションはもう消えていた。
「馬鹿かお前!」
「ほら。やっぱり連れて行ってくれたじゃない。私の生きたいところに」
交差点の脇。何事かと目を細める無粋な人々の脇。きっと彼らに俺の姿は見えていない。交差点の真ん中に立っていた女性が、横断歩道の路肩に勝手に移動した。これは、そういう眼差しだ。
懐かしい感覚が蘇った気がした。
誰かが、俺の肩に触れたような気がした。
俺の腕の中で比留間咲は笑っていた。




