表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨音の行方  作者: 面映唯
23/31

【生きたいところ】

 神とはやはり厳かな存在だったようだ。人々の暮らしを垣間見て憂うことしかできないのに、馬を助けてやることができた。比田井にとって見れば恐ろしいことだったろう。見えないところからいきなり顔面を張り倒される。範疇の外の出来事は、いつだって人を惑わせる。それが物理的に不可能だと証明されていることであれば尚更だ。惑いは恐怖へと変わる。


 彼は何かに怯えるように逃げた。喉に息が詰まっているようで言葉も出てこないようだった。足をもつれさせながら立ち上がり、玄関の戸を開ける手はドアノブに定まっていなかった。俺はただずっと、そいつの姿を睨み続けた。


 比留間は彼を追いかけるだろうか。ごめん、私が悪かったから嫌いにならないでと彼を追ってアパートを出るだろうか。


 俺はそっと彼女の隣に腰を下ろす。仰向けにだらんとしているところを見るに、何が起きたのか把握できていないのだろう。涙は心に忠実だった。


「なあ、比留間はさ、あの日、なんで俺を追いかけてきたんだ?」


 返事が来るはずもない。それを承知で話しかけているのだ。


「びっくりしちゃったよ。結構な勢いで教室を飛び出して、思いっきり階段を上ったんだよ? なんで追いつけたんだ? 本当にびっくりしたさ。一番生きて欲しいと思ってた人が、何の躊躇もなく柵を飛び越えて俺を追いかけてくるんだよ? それも五階から地面までずっとさ。普通じゃ考えられないじゃん。少女漫画や青春漫画のクライマックスでもないんだからさ。でもちょっと嬉しかったんだよなあ。大嫌いな世界には、同じくらい大嫌いな人間がいる。ずっとそう思ってた。でも、そう思っていた心が揺らいだんだよ。俺が生きてる世界にも、こんなに綺麗な人がいる。幻滅しきってた世界に光が見えちまった。それは、不良が大学に合格すればもてはやされるけど、普通の人が大学に受かっても当然、みたいなのと一緒だと思う。思うんだけどさ、比留間の顔見ただけで、思えちゃったんだよ」


 馬鹿みたいだった。たかだか数回しか見たことのない女の顔が、今も鮮明に頭の中で形作ることができるのだ。


「悪くない、って思ったんだ」

「ユウ君に、ついていこうと思った……」

「どうして?」

「ユウ君なら、連れて行ってくれると思ったから。私の生きたいところに」

「ネバーランド?」仮面の男と話した記憶が浮かぶ。

「みんな、子どものまま大人になれたらいいのにね」


 比留間は体を起こした。はだけた服を整える。そして靴を履いて、ドアを開けてという一連の動作は洗練されていた。俺が立ち上がって動き出したのは、ドアがバタンと閉じた音が聞こえる、丁度その瞬間だった。


 ドアの取っ手に手を掛け開ける。走った。そう遠くにはいないはずだ。アパートを出て、一つ目の曲がり角を曲がると、彼女の後姿があった。彼女の後頭部は、赤い発光ダイオードの光に反射して白い輪っかを作っていた――。


 軽自動車のクラクションはもう消えていた。


「馬鹿かお前!」

「ほら。やっぱり連れて行ってくれたじゃない。私の生きたいところに」


 交差点の脇。何事かと目を細める無粋な人々の脇。きっと彼らに俺の姿は見えていない。交差点の真ん中に立っていた女性が、横断歩道の路肩に勝手に移動した。これは、そういう眼差しだ。


 懐かしい感覚が蘇った気がした。


 誰かが、俺の肩に触れたような気がした。


 俺の腕の中で比留間咲は笑っていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ