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雨音の行方  作者: 面映唯
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2


 携帯がけたたましい効果音を繰り返していた。その音に比留間さんは目を覚ましたようだった。どうやら誰かからの着信のようだった。スマートフォンを耳に当て、「はい」と電話に出る。電話の向こう側の声は聞こえない。だから、誰が電話をかけてきているのかもわからなかった。


「今から? もう遅いから今週の日曜日にでも……」


 比留間さんの声は、だんだんと衰退していった。うん、うん、と頷くことが多くなり、最後には、「わかった。今からね。待ってる」と言い残していた。


 きっとこの家に誰かが来るのだろうと思った。誰が来るのか俺には大体わかっている。でも、少しの期待を描いていた。どうかお前ではありませんように。主観でしかないが、あいつは悪いやつではなさそうだった。だからここに来るのが、比田井ではありませんように。そう願っている自分がいた。


 どちらかといえば、髪の明るい見た目の柄が悪そうなやつが来ればいいんだと思った。それだったら俺だってすんなり受け入れられる。髪が明るいからって悪いやつが多い訳ではないのも知っている。知っているけども、黒髪の真面目でいいやつだと思っている少年に怒りの矛先を向けるのと、金髪の胸元のはだけた男に矛先を向けるのとでは全然違った。


 いや、違うな。金髪なんかじゃない。金髪どころではない。白髪も黒髪もみんなそうだ。優しいと思っていた人間を罰そうとする自分が嫌なだけなのだ。要するに俺は比田井を見損ないたくないのだ。


 期待していても仕方がないと思った。もう誰でもこい。誰が来ても、円満な未来など到底見えるはずもなかった。


 いつの間にか、掃除機の機械音が鳴っていた。比留間さんは律儀に部屋を掃除していた。掃除機をかけた後は、残っていた洗い物をしているようだった。風呂掃除、トイレ掃除、ウェットペーパーで床まで拭き出した。いくら経っても、比留間は鏡の前に立とうとはしなかった。


 やがてインターホンが鳴った。


 ああ、ああ、ああ。やっぱり。お前か。


 比田井か。


 ドアを開けるなり、比留間は尻もちをついていた。その上に誰かさんが覆いかぶさろうことなんて、こんな俺にでもわかった。別にいいじゃん。恋人同士なんだから。普通にするだろ。愛情表現。


 でも俺は瞬きも惜しむくらいその行為から目が離せなかった。それは思い描いた未来を確信していたという他ない。比田井の身体からひしひしと伝わってくるのは、確かにお前のことが好きだっていう比留間への好意かもしれない。その行為の先っぽが、きっと尖ってしまっているだけなんだ。自分の背中では背負いきれないくらい重くなった什物を、その代償を比留間に押し付けようとしている。背負わせようとしている。恋人じゃないか。半分くらい俺のも背負ってくれよ。そうやって丸みを帯びていた矛先は、だんだんと面積を狭くしていく。


 半分俺と同じようなものだった。比田井は荒ぶっているのだ。好きだから許してくれ。好きだから俺のことを許せるでしょう? 俺のことも聴いてくれるでしょう? ねえ、ねえ、ねえって無我夢中に問いかけているように見えた。


「そんな重い荷物、比留間に持てるわけがないじゃんか……」


 思わず呟いてしまった。比留間はもう自分でいっぱいいっぱいなのだ。コップの水は表面張力にまで達して零れる寸前まで来ている。そんな人間に、何を押し付けよう、他人の愚痴も悪徳も持てる訳がない。背負える訳がない。それを比田井は知らない。比留間が一度でも比田井に何かを背負わせようとしたか? それは優しさからか? それとも結婚する気のないただの遊びだからか? そんなことの真意を俺は知らない。


 俺何でこんな同衾を傍目で眺めていられるんだろうな。いや、ほぼ陰部なんて見えていないし、興奮しないし。


 そういうのじゃないんだよ。彼らは恥ずかしいと思っていないんだよ。これを誰かに見られても、恥ずかしいと思わない。きっとそういう二人の感情のぶつけ合いの一つだと思うんだ。


 本当に、ぶつけ合っている、ならいいんだけどな。


 急に見るに堪えなくなった。俺は一人部屋の中へと戻った。比留間の寝ていた布団の上に仰向けになる。彼女は毎日この天井を見ていた訳か。そう思うととても簡素なように思えた。


 大学にいる誰がこの環境を想像しただろうか。比留間は何を考えているのだ。そもそもこの環境が嫌いなのか? まさか受け入れている? そんなものは聞いてみなければならないが、少なくとも恋人と街を一緒に歩いているような幸せは感じられない。


 どたどたと音が聞こえた。俺は跳ねあがる。上半身を起こす。


「なんでそんなに俺のことを拒むんだ! あんなに仲が良かったじゃないか。俺たち付き合ってるんだろう? どうして俺を見てくれないんだ!」


 また俺は比留間の布団に倒れ落ちる。


「お前この間暇だったくせに、俺の誘い断っただろ。そんなに自分の時間が恋しいか。俺の方が大事じゃないのか」

「あれは……だから違うって。学校でやらなきゃいけないことがあってって言ったじゃない」

「そんなことしなくていいんだ。お前は馬鹿なんだから、俺が居ればそれでいいんだ。大学だって辞めちまえ。俺がずっと一緒にいてやるんだ。養ってやるんだ。安泰だぞ? 他の女が聞いたら飛びついてくるくらいなんだ。こんな俺と一緒に居られるんだぞ。なんか不満でもあるのか!」


 意識せずとも会話に耳をそばだてていた。目を閉じ、真っ暗になり、耳は騒がしい。頭も勝手に回っている。


『大学を辞めろ。俺がずっといてやる』


 その言葉は本来愛おしいくらいに綺麗な言葉のはずだ。俺だって恋しい。そんなことを誰かに言ってみたいと、少しは思ったりもする。


 でも、聞こえてきたその言葉は酷く濁っていた。けたたましい憎悪と、阿婆擦れた愛情。過去の恋や経験からあわすれた男が、本来の愛を求めて足掻く酩酊の夜道。底よりも奥深くに沈み、布を被せられ忘れ去られた原風景。相反するものを真実に導くソクラテス、弁証法。


 真っ当な世界の裏側はいつだってアノミー。誰もが自分本位に生きていて、ぶつかって、食われて、そして敗者が生まれる。馬に跨って、刀を振りかざして、どうだ俺の方がすごいだろと、私が一番的を得た発言をしていますと、掲示板でも自己顕示欲で溢れ返る。そんな混沌とした世界で、誰かの心にスッと入れることはすごく厳かなことだ。何かを許せる、自分を犠牲にできる。そんな人がいる世界は、少しだけ好きになれる。


 今頃になって気づけたんだ。俺が飛び降りた理由。人間の数だけ入り乱れた無法地帯。その隅っこに、きっとそんな優しい人間を見つけてしまったからだ。


 俺はきっと立ち上がったんだ。鬱屈は晴れ、あなたみたいな人がいるのなら、きっと来世はもっと素晴らしい魂となっているのではと思って。


 比留間が寝ていたときの温もりはまだ布団に残っていた。ずっと感じていたかっただろう。でも俺は、立ち上がった。あの飛び降りた日に教室を出たように。


 キッチンのキャビネットの横で交わる二人。硬い床の上で刀を振るう、振るわれる。柔らかい土を、これでもかと思うくらい踏みつけて固めようとする。俺と同じくらい固くなれ、と他人を自分に取り込むかのように。自分の硬さを弱い者の前で見せ占めるかのように。


 でもそんなことしたって、アスファルトになんか勝てないだろう。だってお前は他人を固められるような車でもなければ、アスファルトみたいに元からカチカチじゃないんだからさ。ナイフで刺せばぷつっと血が流れるやっこくて、紛れない人間なんだからさ。


 誰と戦ってるんだよお前。車に人間が勝てるとでも思ったのか? お門違いだ。俺も、お前も、比留間も。自分の中に出来上がったやぼったい理想の自分と、リアルの自分。人が戦うのは、いつだって自分自身とじゃないか。


 虐待が苦しいんじゃない。暴力が苦いんじゃない。罵声が痛いんじゃない。醜い自分は嫌いかもしれない。でも、誰かを嫌いになったことなんて一度もない。


 耐えられない自分が、苦しいんだ――。


「痛てええ」


 男は落馬して悶えた。


 こんな俺でも刀が振るえるようだ。上等な刀を持ち得ているのに、宝の持ち腐れなんて輩はこの世界にごまんといる。


 こんな世界なら、俺はいらないよ。





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