【空蝉の本性】
目を擦った手の甲。コンタクトが取れてしまうのではないかなんて余念はなかった。彩られた空間。何もないから遠くに行ける。何もなくても遠くに行けない。彩られているからここにいる。
数分前まであのまっさらなどこまでも続いていきそうな部屋にいたのに、今は、アパートの一室に立ち尽くしている。床がフローリングだ。机がある。物干しがある。雑貨がある。狭い空間でもこの雑貨たちが自分の心を温めてくれているなんて、馬鹿げていると思った。
きっと、あの仮面の男は言うだろう。どんなに狭い空間でもいい。だからこの伽藍堂から出してくれ。別の場所へ連れて行ってくれ、と。
蛍光灯の白い光が、部屋の色を作っていた。その色は、比留間さんもそうだ。布団をかけることを忘れてぐったりと寝ている。そんな比留間さんが一人いることで、この部屋は彩られる。
戻ってきてしまったというべきか、戻ってきたというべきか。彼女の隣にいることが、彼女を知ることが、これほどにまで怖いと思ったことはない。以前このアパートに来たときとの比ではない。あのときは誤魔化せていた。泣いた瞬間を見たときは、当然胸を刺された。
でも今は違うのだ。確立してしまっている。彼女の身にこれから何かが起こる。それを目の当たりにする。並大抵の態度では吹っ飛ばされてしまう。ちゃんと動機を持って臨まなければならなかった。
『今のユウならこの先の彼女を見ても大丈夫だ』
仮面の男は俺の頭の中に住み着いているようだ。何度もそんな言葉を投げかけてくる。きっとこれからもそうなのだろう。ずっと俺の頭の中に染みついたまま消えない。ずっと問いかけてくる。俺が道に迷おうとしたら、『ふざけんな』とまたあの鏡で頭を殴ってくる。そんな気がした。
俺が死んだ世界で、比留間さんは生きていた。依然、俺が自殺する際に、彼女が後ろから追いかけてきた理由はわからないでいた。でも、そんな理由は正直どうでもいいと言った方がいいのかもしれない。元々他人になど興味がなかったのだ。そう、それでいい。自分がされたことの理由だったり因果関係なんて今の俺には興味がない。今の俺に興味があるのは、これから起こるであろう未来に、自分が耐えきれるかどうかということ。耐えきれたのなら、きっとその先もずっとこの神の化身とも呼べる状態で現世を彷徨い続ける。
耐えきれるならそもそも比留間さんに興味など惹かれていないのだ。耐えきれないから、耐えきれないような気がしたから、きっと俺は自殺を選んだ。たったそれだけの理由で、講義を抜けて一目散に五階の連絡通路へと駆けだした。
この今俺の前で寝ている彼女は、何を抱えているのだろう。見たままに、クマの人形か? その閉じた瞳の向こうには、何が映っている。瞼の裏か? それとも何か夢でも見ているのか?
俺もよく夢は見た。いい夢もあれば、悪夢のような幻影に襲われたことも多々ある。それでも夢を見ている間はなんだか心地よいのだ。それが吉夢でも悪夢でも、夢は面白かった。現実ではありえないようなことを体験させてくれる。冒険しているような感覚だ。
きっと比留間さんも、今どこかをひた走っているのだろう。吉夢なら太平洋の夏の夜のビーチを、悪夢なら田舎の野山でも誰か怖い人に追われながら走っていることだろう。でも、そのうち目を覚ましてしまうのは明白だった。何年も眠りについたままの人間なんて、漫画の世界だけだ。どこかの運動会のピストルの音が聞こえて、どこかの山から猟銃の轟音が聞こえて目を覚ます。それは、ゴールなんかではない。討ち取られた合図なんかではない。きっと紛れもなくスタートだ。これからお前を討ち取ってやる。用意はいいか、心の準備はいいかと猟師は照準を覗き、体育教師は静寂に身構える。
これから起こる二つの未来に期待を乗せて、引き金を引くのだ。
よーいどん、と。




