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この何もない空間。当然、どこまでも続いていく。行き先などない。だが仮面の男は歩こうといった。それはどこかへ行きたいと思って言った言葉ではなく、歩きながら話したいということだと解釈した。
俺は男の隣に入った。久々に間近で見たような気がした。この真っ白でまっさらな空間には似合わず、古こけたような丈の長い外套。レザーのブーツ。そして左半分の仮面。外套とは別に、中にもフード付きのパーカーか何かを着ているのだろう。左半分の仮面とフードの隙間からは黒い髪の毛がちらっと見えているだけで、肌は露出していなかった。首や胸元もほぼ隠れていて、手にすら黒革のグローブをはめているので、もはやこの場所の空気に触れているのは目玉と右半分の顔ぐらいのようだった。
「ここにいるとさ、時間が無限のように感じるんだ」
確かにそう感じるのも無理はないだろうなと思った。だって何もない。おそらく、今の俺と同じように腹も減らないし喉も乾かないのだろうが、こんな何もない空間に一人だ。そりゃあ無限に感じることだろう。
「子どもの頃は不死とか憧れただろ?」
「ああ、確かに。そんなおとぎ話もありましたね。ネバーランドとかいう子どもの世界ってのがあって、ずっと子どものままでいられるみたいな」
「そう。俺もな、憧れてた。子どものままでずっと大人になりたいと思ってた。でも、環境は物を言うな」
「どういうことですか?」
「大学に入ったら確かに縛りもなくなって自由になった感覚もあった。中学や高校までのお節介で他人事な先生は消えて、全部自己責任ということも増えた。でも、就職からは逃れられなかった」
「新卒採用は魅力的ですしね。一度しかない訳ですから」
「そうなんだ。その魅力も知っていた。だからかもしれない。だんだんと子どものまま大人になりたいという心は薄れて行って、そのまま大人になるような環境がそこにあった」
「まあ働かないと生きていけない訳ですからね」俺は口並みを合わせていた。正直にその考えに頷けたからだ。子どものまま大人になる。それは誰しも本当は望んでいることではないだろうか。やりたいこと、好きなことを仕事にする。小学生の頃は、将来の夢は何ですか? とよく聞かれたものだ。あのときのまま大人になれたら、きっと誰も後悔なんてしない。なんとなく大人になっていたとか惰性で生きている、つまらないなんて愚痴を零すこともないだろう。幼少期に暮らしを共にする親が働いていたから、大人とは親みたいなものだと感じて自分も大人になったら働くのだろうなと漠然と考える。親が大人じゃなかったらきっとそんなことも思わなかった。
「別に悲嘆したいわけじゃないんだ。俺は寧ろ働きたかった。働くことならできた。でも人間の感性とやらは豪く豊かなようで、そう決めていたはずなのに、決意は揺らいだ」
「何か別にやりたいことができたんですか?」
仮面の男はすぐには答えなかった。躊躇ったようにも見えたが、そのまま会話は続く。
「共有したくなったんだ。自分の置かれている環境を誰かと。今まで言い訳にしてこなかった環境を、こんな子どもから大人になる瀬戸際になって誰かに知って欲しいと思ってしまった。弱いな、と思った。でも、同じくらいこんな環境で突き進んできた自分を知って欲しいとも思った。ただ、誰にでも知って欲しいって訳じゃなかった。それこそ恋愛と同じだ。この人なら自分の黒い部分を話してもいいとか、話せる、話したいって思える人が恋人やパートナーだろ? 多分そういう対象を見つけちゃったんだろうな」
「そんなに、育った環境が劣悪だったんですか?」
躊躇わずに聞いてしまったことを後になって、躊躇った。今まさに誰にでも言いたい訳じゃないと男は言ったのに、俺は聴いてしまった。失言だったかなと思うと、「お前は本当に神様気分だな」と揚げ足を取ってきた。
「何笑ってんですか」
男の表情は仮面で全部は見えないが、右半分の口角が上がっているのと、小刻みな頭の揺れで笑っているとわかった。
「俺は別に育った環境が劣悪だったなんて言ったつもりはないし、育った環境のことを言ってるつもりもなかった。それに、それを言うなら普通の人は劣悪なんて言わない。良くて悪かったんですか、って聞いてくるよ。普通」
ああそういうことかと納得した。神様気分っていうのは、自分のことを言い当てられたからということみたいだ。ということは、本当にこの男の育った環境は劣悪だったということになるのだろう。
「大学、来れたんですね」
「皮肉か?」
「いえ、そんなつもりは……」
「わかってるよ。実の親が死んだんだ。クソみたいな人間だったけど、遺書を残してたみたいなんだ」
「ああ、遺産が……」
「一応ちゃんと働いてる親だったからな。そのお金を持って十八歳以降は独り立ちした」
俺の頭には一つの単語が浮かんでいた。元親、十八歳。この単語だけだが、なんとなく想像できた。これでも二年間社会福祉を学んでいる学生だった。それを聞いた途端に、いつか教授の言っていた言葉が頭を過った。
『親が違うということがそんなに不思議か? 変わっていることなのか?』
講義を半ば中途に聞いていた当時の俺は、その言葉だけは妙に耳に入ってきていた。なぜかだ。ソシャゲに集中していたはずなのに、講義なんかそっちのけだったのに、教授の声量もそんなに大きくなかったはずなのに、その言葉には妙に反応した。
この人は。今隣を歩いている、言ってしまえば仮面に黒づくめの物騒な男は、そういう境遇を乗り越えてきた。想像はできる。虐待も、然り。多分。おそらくで確証はないが。
彼は、俺の尊敬の範疇を越えた。悲しみ悶え、親に愛着を持たれず、愛を知らないまま育ってきた。それでも誰にも愛されないまま社会に出て行こうとした人間。誰も必要とせずに生きて行こうとした人間。その仮面をはがした向こう側は、きっと雨粒でいっぱいなんだろう。その雨粒でさえ誰にも見せようとはせず、家に帰って一人布団の中で泣く。
何を勝手に想像を膨らませているのだ。仮面の男の人生を勝手に妄想している。ありえない。でも、そんな時代が、自分にもあった。無意識に重ねてしまった。
「見つけてしまったんだ。直感的だったから信用はできない。でも何となくそんな気がした。この人なら自分のことをわかってくれる。そういう人を見つけてしまったんだ」
その言葉は、今俺が仮面の男の過去を勝手に想像していたことを肯定する言葉のように思えた。直感的。何となくそんな気がした。なぜ仮面の男の過去を知らないのに、お前の妄想が真実だと断言できるのだと問われたときに、それ以上の返答は見つからなかった。理屈を超えるとはこういうことだ。説明がつかないのだ。でも、理屈があるのと同じくらい真実だと胸を張って言える。
「なあ。本当にお前の後悔は比留間を幸せな方向に導けなかったことなのか?」
仮面の男は問うてきた。「それは……」と言い淀んでしまった。
死ぬ以前のことを最初から思い出す。比留間さんは、確かに可愛いと思っていた。高山と共感しあえていたから、俺だけが可愛いと思っている訳でもなさそうだった。それに手を出そうとまでは思っていなかった。なんとなく見つめていたということはあったが。
そこで一つ思い出した。
そう、あの俺が死ぬ講義の待ち時間。一階の講義室の前のスペース。観葉植物の横で高山と話していた丁度あのとき。高山に腕の傷跡を見られまいと必死だったが、吸い込まれたかのように比留間さんの顔を俺は見つめていた。それで高山に茶化された気がする。
いや違う。確かに比留間さんを見ていた。でも比留間さんの顔を見てはいなかった気がする。どこだっけ。っていうか、顔以外に男が見るところって言ったら、胸、太腿、ケツ……。
「手?」
ドシャ降りになった。
頭に何かがバシャバシャと降ってきた。頭皮ではない。頭の中に。
「なあ、こうは考えられないか?」
我に返った俺は、いつの間にか立ち止まっていたことに気がつく。顔を上下左右に振って、見つけた仮面の男とは、向かい合わせに立っていた。
「お前の後悔は、彼女の孤独に気づいてあげられなかったこと」
彼女が、孤独……。
「きっかけは偶然だったかもしれない。でも知ったはずだ。なぜ声を掛けなかった」
「それは、いきなり声を掛けたら迷惑かと思って」
「お前の見た彼女の印象は、いきなり他人から声を掛けられたら迷惑だと思うような女だったのか?」
そんなことは……ない。
「それともあれか。比留間と慰め合いながら生きていく未来に生き恥でも感じたか?」
馬鹿か。ありえない。
「こんな惨めな俺だから、俺と対等そうな女に見えたけど、彼女を自分の不遇に巻き込んじゃいけない。そんな余計なことを考えていたのか?」
違う……はずだ。
「なあ、よく考えてみろ」仮面の男は近づいていた。もう目は見られてもいいとでも言うように、そんな至近距離で両肩に手を置かれる。
「お前は知っていたはずだ。なのにお前は知らないことにした。違うか?」
いやにその言葉が頭の中で何度も何度も反芻された。おまけにそれを問いかけてくるのは比留間さんの虚像だ。ねえなんで、どうして? って、あの初めて頭に触れた日のような、そんな顔で訴えてくる。
「どうしてそんなことができる? 自分の感情にも気づいていて、相手の感情も知っていて、なのにお前は、情けない自分を言い訳にして手を差し伸べてやろうとしなかった」
ああ、そうかもしれない。
「一緒にいたいと思ったんだろう? ならなぜ触れてやろうとしないんだ。どうしてそんなちんけな自分の境遇に意地を張る。そんなものはもう捨てたんだろう? 独り立ちしたんだろう? 今の環境が、これ以上ない最高の舞台だっていうのにどうしてその一歩を踏み出せない。どうして甘える。消滅したいだなんて言う。お前を孤独にしたのは、退屈にしたのは、社会でも、友人でも、比留間でもない。お前自身だってことにどうして気づけない。いや、お前のことだから気づいていたはずだ。その感情を吐き出しても尚、お前は今ここで消滅したいと思うか?」
仮面の男は、俺が慄くくらい威圧的だった。
なんなんだこいつは。なんなんだこいつはと思った。俺の心の中に入り込んできて、読心術なんか使ってるのか知らないが、俺のことを知ったような口で。お前に俺の何がわかる。俺がどれだけ苦しんできたのかわかるか? そんなのが自分の苦しみの範疇でしかないことなんてとっくの昔から知ってるよ。だから俺は生きたんだ。孤独でも苦しくないって思った。寧ろ幸せなことなんだ。死ぬこと以外は幸せなことなんだって、いつも自分に問いかけて、その言葉をお守りみたいに持ち歩いて生きてきたんだ。なんなんだこいつは。仮面被って、街灯に身をくるんで、顔も見せられないような人間なのに、何なんだこいつは。まるで俺はこいつに道を正されているみたいじゃないか。しかも悪い気がしない。表情が見えないっていうのに、ちゃんと俺のことを聴いてくれているってのが伝わってくる。
俺は床に膝をついてしまった。胸が痛い。なんで胸が痛くなってんだ。きっとあれだ。姉に殴られた傷が癒えてねえんだ。きっと痣になってんだ。
「違うって」
視界が黒く染まった。多分、仮面の男の懐に入ったんだ。ああ、でもあったけえな。こいつ素肌晒してないのに、なんでこんなにあったけえんだ? あ、そうか。こいつ神様みたいなもんだからな。さっき自分で言ったんだった。神様はこの上ないほどに優しい人なんだって。そんな人が、布一枚、外套一枚ぐらい隔ててたって素肌と変わらないよな――。
「ごめんなあ……」
そんな言葉が零れた。真っ黒になった視界に、恋蛍が一つスッと光る。不知火のようにいくつもいくつも揺らめいている訳ではないのだ。たった一つ。小さな小さな光。それが、不知火よりも明るく揺らめいていて、胸を打たれる。
「今のユウならこの先の彼女を見ても大丈夫だ」
視界は明るくなっていた。暗さの代わりに仮面の男が見える。
仮面の向こうの目と、目が合った。
両頬を両手で包まれる。
「私をこれ以上後悔させないでくれ」




