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雨音の行方  作者: 面映唯
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【アウトサイダー】

 コマ続きで取っていた比留間さんの講義を、俺はずっと隣で立って見ていた。席は空いていなかった。だから、専属教師にでもなったかのように、比留間さんの席の脇に立ってずっと彼女の隣に居た。


 最後の講義が終わると、彼女はこれで家に戻るようだった。学校を出て、電車に乗り、アパートに着く。俺は壁をすり抜けて部屋に入るという外道なことはせずに、真っ当な手段で入ることとなった。彼女が開けた扉からちゃんと室内に入ったのだ。


「ただいま」


 彼女はひとりでに呟く。


「おかえり」


 俺はそう呟くが、彼女に届くことはない。


 比留間さんはアパートに帰るなり、服を脱ぎ始めた。さすがにそこまでプライバシーは、と俺は目を背ける。


 部屋着になった比留間さんは、ぐたっと布団の上に倒れ掛かった。その姿を見て、この間の泣いている光景が脳裏に蘇る。スッスと音を立てて鼻を啜る音。毛布を抱き枕のようにして抱える姿。あれを見て俺は何をした。あろうことか、次の日の朝、彼女に手を伸ばしていた。触れたくて、人間の体が欲しくて、でも何となく自然に手が伸びていたと言った方が正しい。


 そのときに、仮面の男のオプションとやらが使えてしまったのだった。一瞬だけ指先に実体が戻り、俺の指は透けることなく彼女の頭に触れることができてしまった。それに驚いた比留間さんの顔。忘れられない。怯えているのが強固にひしひしと伝わってきた。俺はなんてことをしてしまったのだろうと思った。彼女を憂うどころか、自分のせいで彼女を傷つけようとしているのではないか。


 もうこんな生活はやめようと思ったはずだ。なのに、いまこうして彼女のアパートにまで戻ってきてしまってる。どんだけ軟弱な決意なんだよ。あれか。仮面の男に促されたからか。そんなことを言い訳にしている時点で、自分の心が軟弱なのはわかる。


 なんか、今の俺ってあの比田井って奴みたいだなと思った。


 彼は、咲のことが好きだ。だから付き合っているし、あの教室での会話もそう言っていた。少女漫画染みたアプローチ。あれの具体的な行動はわからないが、比留間さんはその行動が嫌なようだった。でも、比田井自身はそれを嫌だとは言われても変えたいとは思わない。若しくは、変えることができない。一種のプライドみたいな。


 そのプライドというか。俺にとっての目的は、これからの比留間さんの生活が明るくなるようにということ。それがあの何もないまっさらな伽藍堂に来た理由で、俺の後悔を消すことにもなる。はず。


 あのオプションを使った瞬間、俺が比留間さんに触れた瞬間だ。あのとき彼女はどうだったか。俺は守りたいと思って触れようとした。でも、触れられた比留間さんは怯えていた。それが現実だった。


 このままけーるか。ひとりでに俺は笑いだす。投げやりになる。どこか安らかなところへ行ってしまおうか、そう思うが、帰る家など俺にはない。それに、もし帰る場所があったとしても、帰ったところで俺の現状は変わらない。仮面の男によってあの部屋に戻るか後悔を取り除く以外にこの現世を透明人間として彷徨う現状を解決する方法はなく、この透明人間のまま、これから一生ずっとこの現代を彷徨い続けなくてはならないのだ。「消滅する」という方法もあるが、あれもあの部屋に戻って仮面の男に何か施されなければならない訳だろう。なら、今この状況で解放される方法は、「後悔を取り除く」という方法しか残されていない。


 ああ、どーすっかなあと思った。比留間さんは布団の上でぐったりと寝たままだし、このままずっと部屋にいることになるのか。


 急に不安になった。こうやってずっと比留間さんに引っ付いて彼女の生活を知ったところで何ができる。何もできないことは、今までの自分が証明していて、一番知っていた。でも、後悔を消せと仮面の男は言う。


 無理難題過ぎるよ。そこら辺のゲームなんかより難しい。そもそも伝える方法がない。言語も使えない、身体にも触れられない、じゃあどうやって彼女の現状を変えてやればいいのだ。まったくをもって変な後悔をしてしまったものだ。もういっそ、仮面の男に消滅してもらおうか。


 ふと頭を過る。


 仮面の男は、いわばあのまっさらな空間の支配者だ。いわば神の化身と言ってもいい。きっと俺のこの状況も把握しているはずだ。というか、あの手に握られていた鏡。あれで現世を見ているのではないか。ならば、今の俺のこともどこかで見えているはず。


 叫べば、あの部屋に戻れるのではないか。「消滅したいから、あの部屋に戻してくれ」そう叫べばきっと彼も気付くはずだと思った。


 俺は、おーいおーい、とどこかの心霊学者がUFOを呼ぶ儀式をしているかのように仮面の男を呼んだ。


「あの部屋に戻してくれ。俺はもう消滅してもいい。あんたは、あの伽藍堂でここで消滅すると言っていた。今の状態で俺のことを消滅させることなんてできないんだろう? だからあの部屋に戻してくれー」


 公衆の面前では絶対に出さないような大声で叫んだ。音沙汰はない。比留間さんも寝たままだ。声が小さかったのかもしれない。


「おーいおーいおーーい。聞いてますかー仮面の男さーん。戻してくださいー」

「私、仮面の男なんて名前じゃないから! ちゃんと名前を呼びんさい!」


 頭に衝撃が走る。どうせまたあの鏡で殴られたんだろう。


 鏡?!


「お、えー! 戻ってる! やっぱ聞こえてたんじゃないすか。なんで一回で反応してくれないんですかー。予想以上に大声出しちゃったじゃないですか」


「ばか!」仮面の男はそう言って、床に足を崩して座っていた俺の頭を叩く。しかも、一回じゃ気がおさまらなかったのか、何度も続けざまに叩いてくる。


「痛いんですけど」頭を手に抱えながら俺は訴える。


「愚か者への制裁だわ!」仮面の男はしばらく俺の頭を叩き続けた。勢いがおさまった気がして頭をあげると、「とんだ見当違いだわ」と呟いて、荒息を立てて腕組みをしていた。


「何がですか?」

「お前はちゃんと後悔を無くすように頑張る奴だと思ってたんだよ。それが、ここまで来て消滅させてくださいだ? 俺はお前の力量を見誤ったのかもしれない。俺が後悔しそうじゃねーか」


 その迫力に気圧されてしまった。もっとおちゃらけた人間だと思っていた印象は一瞬で変わってしまう。この人は、俺に期待していてくれた。もしかしたら、あの比留間さんに触れた瞬間も、ここぞという場面を狙ってやってくれたのかもしれない。


「えっと、じゃあ、消滅っていうのは……」

「別にお前が消滅したいのなら、構わない。俺はいくらでもお前を消滅させてやってもいい。やるか?」


 そう問いかけられるとそれはそれで急に怖くなった。一回死んだんだろうお前は。なにを今更命乞いをしようとしているのだ。そう自分に言い聞かせるが、一度死んだからなのか、恐怖は消えてくれなかった。まるで豪雨の中、傘もささずに交差点の真ん中に立っている気分だった。


 仮面の男は近づいてきた。へたりこんで座っている俺の前に、いつかと同じようにしゃがんでいた。


「もう一度よく考えろ。お前の後悔はなんだ?」

「比留間さん」

「のなんだ?」

「比留間さんが、気になっていたのに」

「のに?」

「付き合おうとしなかったというか。最初はそれが後悔だと思ってたんですけど、現世に戻るようになって比留間さんの悲しみに触れたというか、もっと幸せに生きて欲しいというか。そう考えると、俺の後悔は、比留間さんを幸せな方向に導けなかった、みたいな」


 俯きながらぽつぽつと呟いていた俺は、仮面の男を窺うように恐る恐る顔を上げた。男はうなだれるように一度下を向き、立ち上がった。


「お前は神にでもなったのか」


 そう呟いて男はふらふらと歩き出した。俺も立ち上がってその後を追う。仮面の男の隣に追いついても、彼の足取りは止まらなかった。


「どういうことですか? 神になんてなった気分じゃないですよ。俺はただ、比留間さんが可哀想に見えたから助けてあげたいと思って」

「そういうのをエゴイズムって言うんだ」


 仮面の男の背中はそう語っていた。神への侮辱だ、冒涜だとでも言わんばかりに怒りを訴えているような気もした。だがおそらくは逆だろう。見損なった、お前はそういう奴だったのかという諦め。態度がそう言っていた。俺はこの光景を知っている。何度も見た。自分のことばかりを考え、些細な出来事ではあったが、母親や姉、友人を裏切った過去。そういうものから人の関係性は潰れていく。それを知っても尚、俺は「可哀想」なんて、そんな自分勝手な言葉を使う。


「神様はさ、本当に可哀想だと思って人を助けてくれるのだと思う?」


 言われて想像するのだ。神様とはどんな状況に立っているのか。実体はない。でも人民から讃えられている。なぜか。そう言い伝えられてきたからだ。昔から讃えるべきものとされていたからだ。この世界を創造した君主。崇められるのも無理はない。


 でも実際はどうなのだ。確かに存在したのかもしれない。この世界を作り上げたのかもしれない。でも今は存在しない亡き人。神話とか伝説に当てはまる。


 俺はこれまで、実体がない、ということをこれほどまでに感じてきていた。届かない。伝えられない。誰かに気づいてもらえない。人間の心を持ち得ながら、誰かに触れることも許されない。なのに、人々はそんな実体のない神を崇め讃える。


 神様も同じではないかと思った。


 きっと自分の無力さを知っている。俺のことなんてお前らは何も知らないだろうけど、俺のことを人智を超越した存在だと認識している。勝手に全知全能だと。


「神は、可哀想とか思わないかもしれません。もっと人の隣に寄り添いたいだとか、自分と同じ地位を歩いているような、もっと身近な存在みたいな」


 あの三階の吹き抜けから下を覗いたとき。人々の生活の一部を垣間見ることができた。机に向かい合わせに話す人や、ソファアで寝そべる人。その隣のソファアでは髪色の明るい女性二人が話している姿。そこだけではなく、世界のあちこちを覗くことができる。


 でも、それだけじゃない。透明人間として世界を見られるということだけではない。俺はもう感じていた。


「きっと神様は本当に優しいんでしょうね。自分じゃ届かないとわかっているのに、それでも人々の幸福を願い続けてる。世界のそこかしこで起きている不幸に、心から寄り添おうとしている。心配りができる。普通、届かないと知っていてそんな赤の他人のような人のことを気遣ったり、彼らの幸せなんて願えるわけないですよ。それも、この人だけとかじゃなくて、万人、誰のためにも願えるんですから」


 自分で言ったことなのに、まるで現実味がなかった。俺は神を知らないのに神を知ったような物言い。


 でも、確かにそんな気がしたのだ。仮面の男に問いかけられ、俺はそんな気がしたのだ。


「ユウはここを部屋とか伽藍堂って呼ぶけどさ、ここってもっと広いところだと思わない?」


 言われてみればと思った。いつの間にか部屋とか伽藍堂と呼んでいたが、ここは部屋と呼べる壁や仕切りがない。言うなれば真っ白い太平洋のど真ん中に立たされているのと変わりない。


「きっとそれが正しいんだ。ここはどこまでも続いていきそうな広い空間。宇宙みたいなもの。でも、狭いんだ。壁もなくて物もなくてまっさらなのに、狭いんだ。狭く感じてしまうんだ」

「それは……」と俺は口にした。「それは、あなたも現世に戻りたいってことなんですか?」


 仮面の男は歩みを止めた。身に纏った外套のようなマントをたなびかせ、身体を翻す。


「やっぱりお前は神にでもなったつもりなんだな」

「え?」

「ユウなら、俺の夢も叶えてくれる気がするよ」




 少し、雨が降ったような気がした。自分の頭に雨粒が落ちる。降ってくるはずがない場所なのに。


「もうちょっと歩こうよ」


 仮面の男はそう言った。


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