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俺はどんどんと比留間さんの環境を知ることとなった。
比留間さんには彼氏がいた。それを知ったときに、俺の余念はどんどんと行方をくらまし始めていた。彼氏がいた? だったらなぜ彼女はあんなに毎日毎日布団の中で泣いているのだ。ましてや自殺未遂まじきな行動にまで出ている。じゃあ俺を追って渡り廊下まで走ってきたあの彼女は何だったのだ。まさか善意じゃなかろう。
「お前比留間と付き合ってるんだろ? どこまで行ったんだよ」
「ん? ああ、俺の家には呼んだな」
段々畑の一番後ろの机の上で寝ていた俺は、前の方で会話をしている声に耳を澄ませていた。黒板の付近。そこで昼食らしきものを食べる二人の男性の声が、この二人しかいない講義室に響いていた。
俺はただ、長机の上に仰向けになり、天井を見つめていた。否応に、彼らの言葉から想像力を働かせられるのだ。
「それって、もうヤったってこと?」
「まあそうだな」
比留間さんが行為に及んでいる情景。
「どうだった?」
「まあ、好きな人だからね。そりゃ嬉しくもなるよ」
「比田井って優しいもんな。この間のサークルの飲み会で寒そうだった女の子にジャケットかぶせてやってたもんな。ほんとドラマに出てきそうな男だわ。まあ結構周りから嫌われてるみたいだけど」
「別に周りのことはどうでもいいんだよ。きもいって言われようが、俺のそばに咲がいてくれれば」
四つん這いの比留間さんの後ろに立っていたのは、抽象的すぎる顔のぼけた男。そいつは自分の下っ腹と彼女の尻を密着させて弾かせる。音はしなかった。動きだけが鮮明に浮かび上がる。
そのときの比留間さんの顔は? 男の顔は? 恍惚とエゴの間で成り立つ何かが、俺の胸のざわざわとした締め付けを沸々と込み上げさせた。萎んでしまいそうなくらい心臓が鎖で何重にも巻かれていて締め上げられるような、そんな景観だった。
また二人の声が聞こえる。
「比留間はどう思ってんの? お前が嫌われてることとか」
「どうなんだろうな。俺も聞いたことないからわかんないな。高橋は俺が嫌われてる理由知ってるか?」
「きもいからじゃないの?」
「じゃあなんできもいのかは?」
「……」
「アプローチの仕方が少女漫画染みてるんだと。ドラマとか漫画ではそれが許されるが、俺がするとそれはきもいになっちゃうみたいで」
「俺はそうは思わないけどな」
「高橋は優しいな……。男と女の認識は違うんだよ。俺はどうしたらいいんだろうな。アプローチしたらしたらできもいって言われるし、しなきゃしないで咲とは一緒になれない気がするし」
「もっと周りがやってるようなアプローチの仕方にすればいいんじゃないか?」
「……俺はさ、なんかそういうのは俺じゃない気がするんだよ。変なこだわりかもしれないけどさ、理想と現実どっちを追っても駄目な気がする。もっと素のままで、そうじゃないと誰かに操られてる感覚がするんだよね」
そんな会話が俺の耳に流れてくるが、天井を見ているだけでは彼らの話している姿、動きや顔を想像することはできなかった。窓からの光で影を帯びた真っ白い天井に、彼らの顔を映しだそうと思ってもそれはできなかった。
「まあセックスしてるときは気持ちよさそうなんだろ? それで十分じゃんか」
「まあ、咲がどう思っていようと俺の気持ちは変わらないから、俺も考えすぎるのはよくないかもな」
彼らの話は、俺にもっと比留間さんのことを想像しろと言っているようだった。また情景が浮かび上がった。四つん這いから今度は男が仰向けになる光景。その上に彼女が跨って飛び跳ねる。胸の揺れ、彼女の表情は?
今度は彼女が仰向けになって。頭の下の枕を掴みながら、男は速度を速めていった。そのとき彼女は何と言った?
「――」
俺の心臓は何重にもまかれた鎖で握りつぶされて、端々から血液が飛び散ったように感じられた。血の気を感じて机を飛び降りる。黒板の方へ走って下る。近づく。彼らの後姿がだんだんと近づく。
俺は後頭部めがけて拳を振りかぶったのだと思う。次の瞬間には、空中に静止された自分の右拳が視界の端で見えていた。
怒りさえも許してもらえない。殴ることさえもできない。
俺は比留間咲のことが好きだなんて思ったことはなかった。可愛いと思ったのは確かだ。言ってしまえばそんなのは顔の整った芸能人の写真を見て思うのと同じで、いわばアイドルの推しと同じようなものだった。
だが、俺は今何を思った? この俺の目の前に並んで座っている男のどちらか。顔を見せない後ろ姿。顔は正直どうでもいい。整っていようがなかろうがそこは主旨でも要点でもない。比留間さんとこのどちらかの男が行為をしている情景。それが浮かんだときに俺は何を思ったんだ? それはアダルトビデオと同じ類か? 芸能人のスキャンダルと同じか?
不覚にも全然違った。抽象的な薄ら笑いをあげる男の口から「咲、咲……」と名前を呼ぶ声が聞こえてきて、それに比留間さんは声をあげているのだ。
許せなかった。こんな気持ちの悪い自分も、この男も。こんな誰かに話してしまえば気持ち悪いと言われてしまうようなことを思ってしまう自分も気持ち悪ければ、この男自体も気持ちが悪い。
なんでなんだよ……。
比田井という男。今俺の見ている後姿のどちらか。彼は、俺の概念から言ってしまえば、いい男だった。嫌われようと、きもいと言われようと、自分を貫いている。俺にはできなかったことだ。
途方もなさそうな劣等感が込み上げ、悲壮感は目をくらましていた。悔しい、というのとは少し違う。なぜ比田井が咲を選んだのかというのも違う。
とにかく許せなかったのだ。明らかにいい男が、俺が好きでもないと思っていた女と行為に及んでいることが。耐えられなかったのだ。
どうしたものか。
俺は一人キャンパスへと歩きだした。




