【神の手】
俺は部屋の隅で眠ってしまっていたようだった。角で体育座りをしていて目覚めたときに布団の上にあったのは、畳まれた毛布だった。彼女の姿はそこにはなく、台所から聞こえるガスの音で存在をはっきりとさせた。
彼女は自分で作った朝ご飯をこの部屋に持ってきた。お椀に入った味噌汁と茶碗に入った湯気を立てるご飯。レタスとミニトマトの簡素なサラダ。どこまでも理想的な日本食の朝食だった。
比留間さんはいただきますと言った。それにつられてか、俺も「いただきます」と口にしていた。当然俺の前に朝食は置かれていない。
彼女と対面になるように机にの前に座った俺。
彼女は黙々と朝食を食べる。それを眺めている。
比留間さんがそこにいるだけで、俺は彼女には見えていないはずで、いない存在なのに、なんだか心が安らいだような感覚だった。
そのとき決めたのだ。俺は彼女と一緒に暮らそうと。そんなの俺の自己満足と言われればそれまでなのに、それでも彼女と一緒に居たかった。見えないのをいいことに俺はそんな生活を望みたくなった。そうやって一緒に歩いていられたら、なんとなくこの世を彷徨い続けるのも悪くないのかなってそう思った。ずっと俺は実体のない幽霊そのものだが、彼女と共に暮らしていく。彼女も次第に苦しむのが止んでいき、誰か他の男と結婚して俺は除け者のような存在になる。
そのときが本当の意味で比留間さんとの別れだろう。結婚することが幸せではないとは言わない。結婚相手に嫉妬しないなんて言ったら嘘になる。俺が彼女のそばを浮遊することで、だんだん好きになってしまったなんて言い訳もしない。
でも、俺が比留間さんのそばを離れるときは、きっと彼女は今より数十倍数百倍幸せなはずだ。
俺はだんだんのめり込んでいった。
彼女の大学で座る席の隣は、俺の特等席となった。九十分間ずっと隣に居て、彼女の顔を見て過ごす。怠惰など訪れなかった。それは腹が減らないというのと同じ原理で、俺に肉体がないからということなのかはわからない。でも、隣に居られるというだけで、どこか満たされるものがあった。
正直人間としてはどうかしている。ストーカー以上のストーカー。最上級の変質者。俺自身も、俺のことを噂に従って悪く言う奴らと同じことをしている。比留間さんに声が届かないのをいいことに、エゴイストにでもなってしまったかの様。でもそれじゃあちょっと印象も悪いし、罪悪感が湧いてくる。だから、そばを付いて離れない守護霊そのものとでも言っておくことにする。
縁の下の力持ち、とはいいすぎだろうが、そのくらい陰で彼女のことを見ていられるこの居場所の居心地。肉体がないからこそ見えてくる居場所。どこかのプロデューサーにでもなったような気分で、彼女の成長の役に立てればなんて、軽く思っていた。
だが、彼女の生活スタイルは変わらなかった。役に立つどころか、彼女の生活の除け者にされているような気分だった。触れられないし話せないという疎外感。
最初に彼女のアパートに入った日から、今の今まで彼女は家に帰って飯を食べて、寝る際にはいつもと同じように毛布を抱いて泣く。そんなに泣いても涙が枯渇しない人間の体は、どうもやっぱり不思議でならない。
俺が陰で見守ったところで何も変わらなかった。
無力を思い知らされた。




