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五限が終わった比留間さんとモデル体型の女子生徒は、二人仲良く並んでキャンパスを歩いていた。その姿は以前の俺が見ていたものと大差なく、ただ俺がこの世からいなくなっただけでこの大学どころか世界は何ら変わっていなかいということを思い知らしてくれた。
少しぐらい変わってくれてもいいじゃないか、そんなことを思うが、実際現実が俺が死ぬ前と後で変わらずに進んでしまっているのだから仕方がない。結局俺がいようがいなかろうが世界は同じように回る。存在価値の低さは身に染みた。
比留間さんは誰かに何かを問い質される様子もなく、言いがかりをつけられる訳でもなく、以前と変わらない生活を送っていた。「なんであなたも飛び降りたの?」「もしかしてあの男に言いくるめられたんじゃない?」そんな言葉を彼女の隣に肌身離れず見張っていても聞くことはなかった。代わりと言ってはあれだが、俺への誹謗中傷陰謀論は巷で絶えなかった。俺の自殺はお前らの娯楽か。
でもよく考えてみると、まずそこが不思議だった。俺の自殺ばかりに目が向けられていて、彼女が飛び降りたことについて周りの関心がない。普通に考えて、「なんで一緒に飛び降りた?」とか「心中? 駆け落ち?」なんて噂されてもおかしくないはずだった。それがなぜだろうと訝ったときに、ちょうどキャンパスの裏側でだべっていた二人の会話を耳にした。
「あの飛び降りた比留間って子、祐って死んだ人の自殺に巻き込まれたんだって」
「えー何それ。死にたいなら一人で死んでいけばいいのに」
バス停の停留所のようなベンチの上で、昼飯を食べながら女子二人が話していた。
なんだそういうことか、と納得した他ない。現実世界では俺のせいにされているらしい。確かに彼女の今後のことを考えれば賢明な判断だっただろう。俺自身も別にそんなに小さい人間ではないので、別に死んだ後の世界がどうだろうと文句の欠片もなかったし今でもないし、そもそも言える立場ではない。そもそも普通に死んでいたらこの光景を耳にすることすら危うかったというか、ないのだから。
真実は隠された。俺が比留間さんを巻き込んでキャンパス内で自殺した。これがすべて。比留間さんが自殺しようとした俺を追って来たという事実は現世にない。あの講義を受けていた人たちなら知っているだろうに。俺がいつ比留間さんの手を取って一緒に飛び降りただろうか。
ただ、少し癇に障ったのは、死んだ人間がしゃべれないのをいいことに罪人にされるということ。別にお前はもう死んだんだから罪を被ろうが世間で批判されようがどうでもいいだろ? とそんなことを言われている気分だった。まあ俺のことならいくら出汁にしてもいいよ。別にそれがこれから覆る訳でもなければ、俺の実体が戻ってまた現世で生きることになるなんてことは、夢でもありえないのだから。俺が死んだという事実に変わりはない。
でも、
家族は?
俺の家族はお前らが守ってくれるのか?
俺の自宅を囲むマスメディアの姿が不意に浮かび上がった。俺の家族がもし、もし、仮に俺の死を悲しんでくれるのだとしたら、その悲しみの上にマスメディアのプライバシーの侵害の苦痛が上乗せされる。親の職業、経歴、実態、過去もろもろが噂され始める。「息子さんのせいで関係のない女子学生が巻き込まれたんですよ」そう何日も周囲から言われれば、俺の死を悲しむ前にその対応で疲れてしまう。
家族が俺の死を悲しむなんてことはありえないだろう。それが彼女らの対価だ。
被害を受ける家族の姿を想像させるのは、俺が自殺した対価なのだろう。
そして、俺もまた、マスメディアと同じように比留間さんのプライバシーを覗こうとしている訳で。
目で追っていた比留間さんは、モデル体型の女子と離れた。
バスに乗り込む。
俺も乗り込んだ。車内は非常に混み合っていて、俺の身体は誰かの身体と一体化している。そんな中でも非常に冷静な目つきで比留間さんのことを眺めていた。耳にイヤホンをつけ、手すりにつかまって直立している。それだけ。
彼女はバスを降りた。
そこからしばらく歩くと、彼女のアパートらしき建物に着いた。鍵を開けて、俺もその部屋の中へと入った。
何の変哲もない部屋だった。ベッドはなくてマットレスの上に布団が敷かれている。テレビと窓際に置かれた簡易な物干しが特徴的なシンプルな六畳の部屋。
彼女は、淡々と一つひとつをこなしていった。
鞄を降ろした比留間さんは、ユニットバスの中間にある洗面台の蛇口で手を洗った。台所に行って元栓を開けて火をつける。鍋の中に水を入れ、その中にそばの乾麺をあけた。
沸騰すると火を弱め、数分して火を止めた。流しに置かれたざるの上にそれをあけ、冷水を掛けながら、かき混ぜる。大きな器にそばをあけ、その中にストレートタイプの天つゆを入れる。
居間にそれと箸を持って行って、小さく「いただきます」と言ってそれを口にする。
食べ終わると流しで器と箸を洗う。洗い終えると、物干しにかけられていたバスタオルを取って浴室に入った。
十数分間シャワーを浴び、バスタオルで身体を拭いたら下着を取りに行こうと裸体のまま部屋を行き来する。寝間着に着替え、ドライヤーで髪を乾かす。顔に化粧水やら乳液やらを塗って、彼女は部屋の電気を消した。常夜灯が灯る中、布団に入った。
正直俺は驚いた。すべての作業が淡々としすぎている。もはや飯食って寝て大学に行くだけの循環的な作業。生活の中に楽しみなんてないように思えたが、彼女の表情や佇まいからそれは窺えない。
家に帰ってからここまで一時間弱。九時前にも関わらず彼女は寝床に入った。若者らしくない。特にプライバシーらしいものは見られなくてよかった、裸は見かけてしまったが、ちゃんと目を逸らした気がする。なんて想像して鼻を伸ばしかけた頃、彼女の変化は徐にやってきた。
綺麗に彼女の上にかかっていた毛布。天井を見るように綺麗に寝ていた比留間さん。その身体が寝返りを打つ。それだけだったら俺も驚いたりはしない。寝返りを打つことなんて普通だ。だが、彼女は毛布をくしゃくしゃにして、抱き枕のように脚で挟み、それを腕で抱えるように横になっていた。
泣いていたのだ。スッスと鼻を啜る音が聞こえ出し、額を毛布にくっつける。
次第に感情は表に出て行った。
それを俺は、暗闇に目が慣れた状態で見ている。彼女の表情が見え、声が聞こえ、何かに縋るように自身の身体を抱きしめている。もはや寝ているんだなんて思えない。暗闇の中で誰にも気づかれないように泣き、自分の想いを毛布という対象が側にいることで発散させている。きっと彼女は泣きながらいつの間にか眠りにつき、朝、目が覚めたら何事もなかったかのように朝食を作り、食べ、大学へと行く。
俺は彼女の額に手を伸ばした。その頬を、頭を、無性に撫でてやりたくなった。彼女が何に対して泣いているのかは知らない。ただ、もう泣かなくていいよ、とそれだけ言ってあげたかった。何に苦しんでいるのかもわからない。俺が死んだからお前は生きて欲しいとかそういうことではない。ただ、こんなにも表と裏がはっきりしていて、そんな裏の比留間さんを見てしまった俺は、なんだか彼女と入れ替わってやりたい気分にさせられた。ただその苦しみを和らげてあげたい。そう思っていた。
彼女の頬に触れた途端、俺の指は透けていった。
不覚にも自分に実体がないということを忘れていたようだ。
こんなに近くにいて、こんなに感情をむき出しにして苦しんでいる姿を目の当たりにしているというのに、俺は彼女に何もしてやれない。何もしてやれないのか。そのことが酷く情けなかった。
俺は愚行を繰り返した。何度も彼女の体に俺の手を透き通らせた。触れない。触れない。終いには、「ねえ苦しまないでよ」「ねえなんで」なんて逆ギレがましく声に出しながら涙に沈む彼女の苦しみが、自分にまで映っていた。
触れることどころか、声すら届かない。
今知った。
身体があって、声があって。言葉が言えるのに伝えなかった以前の俺。必要になってからやっと気づく。そんな後悔は仕方がないことだとわかっているのに、それでもなんだか気持ちが晴れなかった。
どうしたものか。俺は死んだ後になって生きる意味を見つけてしまった様だった。




