ただの雨です
窓の外では、空が割れたかのような豪雨が叩きつけていた。
轟く雷鳴。一瞬の閃光が、暮れゆく街を真っ白に切り裂く。
許嵐枝は、胸元のキャンバスリュックをがむしゃらに抱きしめていた。
冷たく湿った粗い布地の感触が、手のひらをじりじりと焼き焦がすように熱い。
山の管理人から返信が来た――あの子は山を下りていない。山小屋の近くで、上司の帰りを待つと言い張っている、と。
(嘘でしょ……知微、何考えてるの……!)
背中を冷たい汗が流れ落ちる。迷っている時間なんて一秒もない。
車のキーと懐中電灯をひっつかみ、嵐枝は狂ったように部屋を飛び出した。
甲高いスキール音を響かせ、跳ね上がる水しぶきを蹴散らしながら、車を幹線道路へと走らせる。
けれど、目の前の世界はすでに一面の泥海だった。
料金所の手前で、道路は黄色い規制テープによって無慈悲に封鎖されている。
「くそっ……!」
ハンドルを力任せに切り、路肩のスペースに車をねじ込んだ。
ドアを蹴破るように開け、足首まで浸かる濁流へと飛び降りる。ヒールを脱ぎ捨ててスニーカーに履き替えると、懐中電灯とカッパ、そして知微のリュックを肌身離さず抱え込んだ。
逃げ惑う車や人波に逆行して、嵐枝は猛烈な嵐の中へと迷わず飛び込んでいった。
路面を覆う土砂が、一歩ごとに足元を捕らえる。
突風が折れた枝を容赦なく叩きつけ、氷のような雨水が襟元から滑り込んでくる。視界にあるのは、震える懐中電灯の細い光筋だけ。
「知微――っ! 顧知微――っ!」
ぬかるみに足をもつれさせながら、喉が張り裂けるほど叫んだ。
口の中が血の味で満たされていく。返ってくるのは、山が崩れるような不気味な地鳴りと、耳を劈く雷鳴だけだった。
――もし、あの子が死んだら。
私のくだらない悪意のせいで置き去りにされて、本当に命を落としたら。
後悔の刃が、全身を八つ裂きにしていく。
母の残した罪も、異国の地で味わった孤独も、嵐枝の心を折ることはできなかった。
それなのに。
書類の陰からこっそり無邪気に笑いかけてくれたあの子が、冷たい泥水の中に沈んでいるかもしれない――ただそう想像しただけで、心臓が引きちぎられそうになる。
車ならたった三十分の道のりが、永遠に終わらない悪夢のように遠かった。
ようやく見覚えのある広場へと這い上がった頃には、両膝も肘も擦り切れ、泥と血に塗れていた。
木造の山小屋が、暴風にきしんでガタガタと悲鳴を上げている。
「知微……っ! 顧知微!」
体当たりするように扉を押し開け、震える手で光を巡らせた。
光の輪が一番奥の壁際を照らし出した瞬間――嵐枝の息が止まる。
積み上げられた薪の陰で、折れそうなほど細い人影が膝を抱えて丸まっていた。
服は水を吸って重く張りつき、全身が小刻みに激しく震えている。
気配に気づいた知微が、重そうにまつ毛を持ち上げた。
光の眩しさに細められた瞳。
泥と涙に濡れたその清らかな顔に、白くひび割れた唇が――ほんの小さく、弱々しく綻んだ。
「……許さん。戻って、きてくれたんですね」
プツン、と。
嵐枝の中で張り詰めていた糸が、完全に千切れた。
懐中電灯を床に投げ捨て、濡れた板敷きに滑り込むようにして、氷のように冷え切った体をがむしゃらに腕の中へ引き寄せる。
「馬鹿じゃないの!? 頭の中どうなってるのよ!」
声は掠れ、もはや怒鳴り声なのか泣き叫んでいるのかも分からない。
指先が白くなるほど力を込めて、あの子の体ごと自分の中に縫い止めようと抱きすくめる。
「三時までしか待たないって言ったじゃない! どうしてレンジャーの人と一緒に逃げなかったの!? なんでヒッチハイクでもして帰らなかったのよ! こんなボロ小屋で一人、死ぬのを待つつもりだったの!?」
知微は小さく息を呑んだが、抵抗することなく、冷たい頬を嵐枝の首筋へそっとすり寄せてきた。
嵐枝の纏うかすかな匂いを愛おしそうに吸い込み、歯の根も合わないほどの震えのなかで、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「逃げるおじさんにも、言われました……。でも、万が一……雨がやんだり、待っている間にあなたが戻ってきたら、私がいなかったら困るなって……」
凍えて赤くなった指先が、嵐枝の濡れた黒髪に触れる。
その瞳はどこまでも澄み切っていて、嘘みたいにまっすぐだった。
「あなたが、私を本当に捨てるはずないって……ずっと信じてましたから」
そのひと言が、嵐枝の心の奥底に凍りついていた最後の氷壁を、跡形もなく粉砕した。
視界が熱く滲み、大粒の涙が堰を切ったように溢れ出す。
雨水と混じり合いながら、知微の冷たい肌へと零れ落ちていく。
完璧な技術ディレクターなんかじゃない。復讐者でもない。
自分はただ、自分の浅ましさに怯え、目の前の純粋な真心に打ちのめされただけの――みじめな臆病者だ。
「ごめん……っ、ごめんなさい、知微……」
冷たい首筋に顔を埋め、ずっと押し殺してきた嗚咽が喉を裂いて溢れ出た。
母の罪も、歪められた出生も、今日芽生えてしまった浅ましい悪意も、すべてが激しい痛悔となって胸を焼き尽くしていく。
「私があなたを置き去りにしたのよ……! 荷物ごと、全部持って逃げたの……!」
知微の青白い頬を両手で包み込み、泣きじゃくりながら告白する。
知微はただ、呆然と嵐枝を見つめていた。
記憶の中の彼女は、いつだって凛として孤高で、完璧な人だった。こんなにも脆く、砕けてしまいそうな顔を見るのは初めてだった。
知微はそっと手を伸ばし、震える指先で嵐枝の涙をぬぐった。
「恨んでなんかいませんよ」
ふわりと、壊れた屋根から差し込む光よりも眩しい笑みを浮かべて。
「許さん、見て……。こうして嵐を突っ切って、私を迎えに来てくれたじゃないですか」
古い山小屋が激しい風に揺れ、雨漏りが激しく床を叩く。
嵐枝は震える手で自分の上着を知微に巻きつけ、重ね合わせた手から零れる涙を止められない。
復讐なんて無意味だと分かりながら、胸の奥の深い溝はどうしても越えられない。
そんな嵐枝の頬を、知微の指先が優しく撫でた。
「ただの雨ですよ。……泣かないで、許さん」




