冷酷な上司
シルバーグレーのSUVが、きれいに舗装されたつづら折りの山道を一定の速度で登っていく。
木漏れ日は流れるように車窓を撫で、車内には心地よい温風が満ちていた。
ハンドルを握る許嵐枝は、前方の道路標識を見やりながら小さく眉根を寄せる。
作業指示書に並んでいた物々しい緊急コードやへんぴな地域番号から、ナビすら圏外になるような人跡未踏の原始林を覚悟していた。
けれど現実はまるで違っていた。
道路は整った対面通行のアスファルト。カーブの先には定期運行のコミュニティバス停まであって、アルミ合金の反射板が午後の光を浴びてキラキラと輝いている。
「許さん、見てください! あそこに売店までありますよ!」
助手席の顧知微は、まるで籠から放たれた小鳥みたいに身を乗り出し、日よけテントを掲げたレンガ造りの建物を目を輝かせて指さしていた。
冷房の乾いた匂いと無機質な監視カメラ。血縁者たちの陰湿な罠に、息の詰まる尋問室――。
あの息苦しい高層ビルから連れ出された彼女は、見違えるほど生き生きとしていた。
堅苦しいスーツベストを脱ぎ捨て、着ているのはゆったりとしたアイボリーのニットセーター。山風に揺れる長い黒髪が少し乱れ、その頬は興奮からほんのりと上気している。
(……これじゃ、ピクニックと何が違うのよ)
嵐枝は何も答えず、ただハンドルを握る手にぐっと力を込めた。
知微の屈託のない笑顔を見るたび、胸の奥で絡まった結び目は解けるどころか、いっそう固く締めつけられていく。
――これは一体、何の感情なんだろう。
憎しみ?
けれど、あの卑劣な取り巻き連中が知微を踏みにじろうとするたび、嵐枝は冷徹な仮面をかなぐり捨ててでも彼女を庇おうとしてしまう。
じゃあ、愛なのか?
だとしたら、二十余年前に母があげた慟哭は?
実家の壁の隅にこびりついていたカビの臭いや、これまで一人で噛み潰して飲み込んできた数々の泥水は、この入れ替わった運命の不条理を今も耳元で糾弾し続けているのに。
目の前の知微が純粋であればあるほど。
無邪気であればあるほど。
その温もりは嵐枝の心の底に巣食う薄暗く湿った復讐心をあぶり出し、逃げ場を容赦なく奪っていくのだ。
「降りて」
中腹の広場に車を止めると、嵐枝は突き放すようにドアを開けた。
声はいつもの氷のようなトーン。わざとらしいくらい刺々しく響かせる。
「遊びに来たんじゃないんだから」
知微は一瞬きょとんとして、それから慌てて笑顔を引っ込めた。
シートベルトを外し、トランクから重いテスト端末とアンテナキットをよいしょと抱え出す。
「物流中台のエッジゲートウェイは、中腹の四か所に分散してるわ」
嵐枝は知微に一瞥もくれず、設定用ノートPCを片手に、淡々と雑務を割り振る冷徹な上司を演じきった。
「左側とメイン基地局は私が校正する。あなたは東側の山影にある小型シグナル中継器を二台担当しなさい」
手首を上げ、腕時計の文字盤をとんと指先で叩く。妥協を許さない、絶対零度の声。
「片道二時間はかかる。今は十一時四十分。三時ちょうどまでに合格基準の測定データを持ってここに戻らなければ、待たずに車を出して帰るから」
知微は氷のように冷たい嵐枝の横顔を見つめ、長いまつ毛を微かに震わせた。
急に張り巡らされた拒絶の壁に気づきながらも、理由を問うことも、不公平だと文句を言うこともしない。
自分の背丈の半分ほどもある重い機材を抱え直し、乱れた前髪を耳にかけると、まっすぐに前を向いて頷いた。
「わかりました。三時までに、必ず終わらせます」
二人は山小屋前の分岐点で背を向け合った。
木漏れ日の中、嵐枝は石段を駆け上がってメイン基地局へと急いだ。
手慣れた作業で、四十分も経たないうちにコアゲートウェイのファームウェア更新とリンクのロールバックを完了させる。けれど周囲がしんと静まり返るほど、拭い去れない苛立ちが再び胸を満たしていった。
――午後二時五十五分。
山小屋前の広場に戻る。
広場には人影一つなく、松の梢を揺らす風の音だけが響いている。
東側の斜面に視線を凝らすと、数百メートル離れた藪のそばで、冷たい岩の上に屈み込む知微の華奢な背中が見えた。
野外作業など慣れていないのだろう。重い展開型アンテナを掲げながら、光が反射する画面を不器用そうに手探りで操作している。
必死に時間を縮めようともがいているのに、経験の浅さゆえに壁にぶつかっているのが遠目にも痛いほど分かった。
――ピピッ。
午後三時を告げる電子音が、無慈悲に鳴り響いた。
嵐枝は車のドアの横に立ったまま、金縛りにあったように動けなくなった。
胸の奥を、鋭い痛みと酸っぱい感情がぎゅうぎゅうと締め上げる。
(行きなさいよ)
頭の中で、冷たい声が囁く。
自分はあの子を甘やかす救世主じゃない。復讐のためにここにいるのだ。
時間は与えた。間に合わなかったのは顧知微の落ち度だ。山の中に一人取り残される恐怖を思い知らせてやればいい。豪門の庇護も、陰でフォローしてくれる自分もいなければ、現実がどれほど残酷なものか――。
(情けなんて捨てるのよ。冷酷な上司になりきればいい)
(……バスだってあるんだから、自力で帰ればいいじゃない)
奥歯をきつく噛み締め、赤くなった目を伏せてドアを引き開けた。
東側の斜面は二度と見なかった。
手に持っていたPCと後部座席の機材を乱暴に押し込み、激しい音を立ててドアを叩き閉める。
静かな谷間にエンジンの爆音が轟いた。
タイヤがアスファルトを軋ませ、逃走にも似た狼狽と決絶をはらんで、つづら折りの山道を一気に駆け下りていく。
バックミラーの中、あの細い影はみるみるうちに小さな黒点へと縮み、やがて鬱蒼とした緑の天蓋に呑み込まれて完全に消え去った。
ハンドルを握る両手は、嘘みたいに震えていた。
あの子を置き去りにすれば、理性の主導権を取り戻せると思っていたのに。あの泥沼から抜け出せると思っていたのに。
空が、急速に灰色へと染まっていく。
――気のせいよ。私の心が弱いから、そう見えるだけ。
けれど、山道を抜け、都市の高架を渡り、見慣れた自宅マンションの敷地内に車を滑り込ませても、予期していた安堵感はどこにもなかった。
冷え切った部屋のドアを開け、糸が切れたように玄関へ崩れ落ちる。
明かりをつける気力すら起きず、薄暗い部屋には鉛色の空から差し込む弱々しい光だけが漂っていた。
――ピローン!
沈黙を破り、靴箱の上に放り出したスマートフォンが甲高い警告音を上げた。
地元の気象台から連発された、真っ赤な緊急速報のポップアップ。
『【極端気象レッド警報】当市東部山岳地帯では今後2時間以内に猛烈な豪雨に見舞われる見込みです。1時間雨量は100ミリ超の恐れ!土砂崩れ、大規模な土石流の危険が極めて高まっています。山岳コミュニティバスは全線運休となります。直ちに避難行動をとってください!』
ゴロゴロ、ドカン――!!
警報と同時に、窓の外で重い雷鳴が空を引き裂いた。
さっきまで明るかった空は墨汁を流し込んだような黒雲に覆われ、狂ったような豪雨が滝となってガラス窓を叩きつけ始める。
「百年に一度の豪雨……? バスが、全線運休……!?」
あの道路も、鉄砲水の前にはひとたまりもない。
もし下山バスに乗れていなかったら、あの子は今、山の中腹でたった一人取り残されていることになる。
「林務署に……そうよ、すぐに連絡して山小屋へ避難させないと……!」
嵐枝は取り乱した手つきでトランクから引き揚げてきた袋のファスナーを開け、現地の緊急連絡先が載った当番日誌を探そうと手を突っ込んだ。
――けれど。
指先が触れたのは、見覚えのある粗いキャンバス地の感触だった。
全身を雷が貫いたように、その場で凍りつく。
引きずり出したのは、使い込まれて少し色褪せた、アイボリーのキャンバスリュック。
あの混乱と焦燥の中、嵐枝は後部座席をろくに確認もせず、知微が無造作に置いていた私物のリュックまで自分の荷物と一緒に抱えて持ち帰ってしまっていたのだ。
狂ったような雨音だけが轟く、薄暗い部屋。
震える指でその冷たいファスナーを開けた瞬間、嵐枝の全身からすうっと血の気が引いていった。
底知れない絶望と恐怖が、容赦なく押し寄せてくる。
――顧知微のスマートフォンも。身分証も。
すべて、このバッグの中に残されたままだった。
「……お母さん」
嵐枝の瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
後悔の波が、心も体も容赦なく呑み込んでいく。
「私には……誰かを陥れることなんて、最初から向いていなかったのよ……」




