予定外
朝早く、技術部門のフロアには異様な静けさが漂っていた。
許嵐枝は一定の落ち着いた足取りでセキュリティゲートを通過したが、普段なら響いているはずのタイピング音やプリンターの作動音は一切消え去っていた。社員たちは息を潜め、パーティションの陰から、フロアの奥にある小さな応接室をちらちらとうかがっていた。外部機関との打ち合わせに使う部屋だが、すりガラス越しに人影は見えない。それでも、鋭い怒声や書類を机に叩きつける鈍い音までは遮れなかった。
許嵐枝はわずかに眉をひそめ、斜め向かいの空になったデスクに目をやった。顧知微の上着とキャンバス地のバッグは几帳面に椅子の背もたれに掛けられ、デスクのマグカップは空のまま、本人の姿はどこにもない。
「許さん、絶対に行っちゃダメですよ……」業務グループ長の陳明が給水器の陰から忍び寄るように現れ、青ざめた顔で声を極限まで落として囁いた。「今朝早く、本社の内部監査委員会が第三者コンプライアンス機関の専門家を引き連れて乗り込んできたんです。昨晩のシステム基幹伝票の抜き打ち監査で重大な不備が見つかったとかで。今は……一番奥の会議室で、顧さんを問い詰めているところです」
許嵐枝の手が、体の脇で音もなく握りしめられた。
陳明の制止には目もくれず、彼女は長い脚を大股に動かし、廊下の突き当たりにある部屋へと真っ直ぐに向かった。距離が縮まるにつれ、ドアの隙間から漏れ聞こえる刺々しい声は輪郭を帯びていく。「これが徹夜で仕上げた代物だと?顧知微、お前に脳みそはあるのか?新卒採用でグループに入り込めたからって、適当に誤魔化せると思うなよ!こんな初歩的なミスが取締役にでも伝われば、お前が十人束になったって責任を取りきれんぞ!人事はどうしてこんな役立たずを採用したんだ!」
「報告書の清算ロジックはすべて最新基準に厳格に準拠しています。附録第3章にも異常対照表を別途設けてあります……」顧知微の声はわずかに掠れていたが、それでも懸命に冷静な論理を保とうとしていた。
「バシッ!」再び机を激しく叩く耳障りな音が響いた。「言い訳をするな!態度が極めて悪質だ!今日中にこの違反自主点検確認書にサインして非を認めるか、さもなくば年間評価の剥奪と全社通報処分だ!」
ドアの外に立つ許嵐枝の全身の血は、一瞬にして沸騰し、次の瞬間には氷のように凍りついた。
彼女には、連中の汚らわしい目論見が完全に透けて見えていた。
グループの最高実権者である顧知微の父親は、現在海外で数十億規模の買収案件を指揮しており、身動きが取れない。顧家の傍系親族である趙廷敬一派は、まさにこの完全な情報空白の隙を突き、子会社の正式なラインを迂回して、いわゆる「外部コンプライアンス機関」を雇い入れたのだ。プロの監査というもっともらしい看板を盾に、顧知微を袋小路へと追い詰める。連中は、報告書に本当に問題があるかどうかなど、最初から気にしていない。高圧的な態度で彼女を追い詰め、精神的に追い込み、自ら会社を去るよう仕向ける。それが本当の狙いなのだ。
人の心を折るつもりなのね。
彼女の視線が室内の数人の間を巡る。
手慣れているようね。
ずっとこうしてきたの?
「バンッ!」
重いすりガラスの扉が許嵐枝の手によって勢いよく押し開かれ、ドアストッパーに激突して鈍い轟音を響かせた。
室内の喧騒がピタリと止む。狭い会議室の中、スーツを着込んだ3人の監査員が、長机の隅にいる顧知微を取り囲むように圧迫していた。顧知微の顔は紙のように青白く、唇は噛み締めすぎて青紫に変色している。冷房の効きすぎた室内で全身を微かに震わせながらも、彼女は意地でも涙をこぼすまいと歯を食いしばっていた。
中央に座る中年監査官が眼鏡を押し上げ、予期せぬ乱入に苛立ちを露わにした。「何者だ?我々は本社の機密コンプライアンス監査を執行している。部外者は出て行け!」
許嵐枝はその男に視線すら向けず、息を呑むほどの威圧感を放っていた。大股でテーブルへ歩み寄ると、散乱した書類の山から赤ペンで殴り書きされた下書きを指先で正確に引き抜いた。二、三ページほど適当にめくると、その口元に冷ややかな嘲笑が浮かんだ。
「部外者?」許嵐枝はその書類を乱暴にデスクへと叩きつけた。平坦で氷のような声のひと言ひと言が、研ぎ澄まされた刃のように突き刺さる。「技術支援グループ統括ディレクターの許嵐枝よ。あいにくね、昨晩彼女と一緒に自動検証スクリプトを回して全件ロールバックを確認したのは私自身よ。旧システムの切り捨て異常は3年前のグループミドルウェアに残された遺留コード。附録のクレンジングロジックは何の狂いもない。ここにある数字も証憑も、すべて私が検証し、責任を持って確認しているわ。彼女が間違っているですって?自分たちの目が節穴なだけじゃないの?」
中年の監査官の顔はみるみるうちに赤黒く染まり、勢いよく立ち上がった。「許ディレクター!言葉を慎みたまえ!我々は趙副ディレクターが統括するコンプライアンス専任チームを代表して……」
「趙廷敬に異議があるなら、本社の委任状を持って私のオフィスへ直接来るよう伝えなさい」許嵐枝は男に一瞥もくれず、妥協の余地など欠片も残さない口調で言い放った。「それから、外部から雇われただけのあなたたち非正規の監査員が、私のテリトリーでこれ以上従業員に下劣な人格攻撃を仕掛けるなら、フロアの監視カメラを回収して、越権行為による脅迫の件をグループ法務部に徹底調査させても構わないのよ!」
相手の反応を待つこともなく、許嵐枝は手を伸ばし、顧知微の細く冷え切った手首を掴み取った。
その肌は、まるで氷水から引き揚げたばかりの石のように冷たかった。許嵐枝の胸が激しく波打ち、思わず手元の力を強めてしまう。部屋中の驚愕の視線も顧みず、彼女は顧知微を無理やり引っ張るようにして、息の詰まる尋問部屋から連れ出した。
ひそひそ話の飛び交うオープンオフィスを横切り、廊下の突き当たりにある誰もいない非常階段へと引き入れる。
「カチャリ」と音を立てて重い防火扉が閉まり、すべての喧騒が外へと遮断された。
薄暗い階段の踊り場には、二人の荒く乱れた息遣いだけが響いていた。
電気が走ったかのように、許嵐枝は顧知微の手首を勢いよく振りほどいた。胸の奥で心臓が激しく鐘を打ち鳴らし、脳内には自己嫌悪と混乱の嵐が吹き荒れる。
許嵐枝、あなた一体何をやっているの?!
心の中で激しく自分を罵倒した。そもそも帰国した唯一の目的は、顧知微を精神的に追い詰め、プライドを粉々に打ち砕いてあの過保護な温室へと追い返すことではなかったのか?
さっきの会議室で、傍系の連中が顧知微にしていたこと。それこそ、自分が望んでいた展開だったはずだ。連中はあと一歩で顧知微の精神的防壁を踏み潰すところだった。冷ややかに傍観し、一歩引いて見てさえいれば、あのお嬢様は孤立無援の中で現実を思い知り、完全にゲームから降りて降伏していたはずなのに!
それなのに、自分は何をした?
責任を肩代わりしただけでなく、自らの専門家としての名声を賭けてまで彼女を庇い、深淵の淵から強引に引き戻してしまった。
「許さん……」
背後から微かに鼻をすする音が聞こえ、階段室の死のような静寂を破った。
許嵐枝は振り返らず、努めていつもの冷酷な声色を繕った。「呼ぶな。顧知微、普段はあんなに小賢しいくせに、どうして言われるがまま侮辱されていたの?忍耐力を鍛えているつもり?それとも頭が悪いの?私が部屋に入らなかったら、あんな根拠のない処分通報に本当にサインするつもりだったの?!」
しかし、予想していた泣き言や弁解は返ってこなかった。
顧知微はそっと半歩近づき、許嵐枝のすぐ後ろの段で足を止めた。許嵐枝の強張った背中を見つめる彼女の目元は赤く潤んでいたが、その口元は少しずつ綻び、極めて淡く、澄み切った笑みを浮かべていた。
「サインなんてしません」顧知微は静かに言った。九死に一生を得たあとの微かな震えを含みながらも、その言葉には確信が宿っていた。「ずっと、あなたが来てくださるのを待っていました」
許嵐枝の全身が凍りつき、胸の奥を細い針で突き刺されたような痛みが走った。「何言ってるの?」
「帳票に間違いなんて絶対にないって分かっていました。昨晩、あなたが一つひとつ私と一緒に整理してくださったものだから」顧知微は伏し目がちに、許嵐枝によって赤く跡がついた自分の手首を見つめた。「あなたがいる限り、私が間違ったことなんて何一つしていないと信じられます。許さん……さっきは助けてくださって、ありがとうございました」
その無防備で、ほとんど敬虔とさえ言えるほどの信頼が、重い鈍器のように許嵐枝の残された冷酷な防壁を粉々に打ち砕いた。許嵐枝は喉の奥を締め付けられるような感覚に襲われ、胸中の動揺を悟られまいと無様に顔を背けた。
張り詰めた膠着状態の中、ふと二人のポケットに入った社用携帯が短く振動した。
「山岳部物流ハブ拠点の現地巡回点検タスク通知ね」画面の文面を見つめながら、許嵐枝は低く呟いた。「出向か。体力のありそうな人間を何人か見繕って……」
極めて交通の便が悪く、体力と時間を浪費する過酷な任務であり、普段なら誰も自ら進んで行きたがらない貧乏くじのような仕事だった。
しかし、顧知微の瞳には、かつてないほど眩い光が突如として宿った。
この息の詰まるオフィスビルには、傍系による陰湿な罠と冷酷な尋問の視線が渦巻いている。ここを離れ、権力闘争の及ばない本当の現場へ向かうことは、どれほど遠く過酷な道のりであろうと、彼女にとっては完全な息抜きであり、救いに他ならなかった。
「許さん!」顧知微は勢いよく顔を上げた。彼女は何の躊躇もなく、許嵐枝の目の前でシステム画面の「タスク受託」をタップした。そして一歩踏み出すと胸の前で両手を合わせ、まるで甘えるように懇願する柔らかな声で、許嵐枝をじっと見つめた。
「この任務、引き受けました!でも……山岳現場のマイクロサービスコンテナ連携は複雑すぎて、私一人じゃ絶対に対応しきれません。許さん、私と……一緒に行ってくれませんか?」
少女は見上げるように顔を向け、階段室の高い通気窓から差し込む朝の光が、まつ毛に残る乾ききらない涙の跡を透明に照らし出していた。その瞳には陰謀も打算もなく、ただ溢れんばかりの期待と依存だけが満ちていた。
許嵐枝は呆然と彼女を見つめた。
山へ行く?この息の詰まる社内抗争の渦から離れる?
頭の中で復讐心と理性の警告アラームが狂ったように鳴り響いていた。理性が告げている。顧知微はもはや、自分の心において最も危険な急所となってしまったのだと。近づけば近づくほど、抜け出せない泥沼に深く沈んでいくのだと。
だが、その縋るような顧知微の眼差しを目にしては、喉元まで出かかった拒絶の言葉が胸の中で何度も押し潰され、結局のところ、許嵐枝はそれを無理やり腹の底へと呑み込むしかなかった。
「じゃあ誰かを……」知微の唇が小さく動いた。
「……明日の朝9時、駐車場」




