容赦なく
時計の針が深夜一時を回り、街の喧騒は冷たい静寂の底へと沈んでいた。
許嵐枝は、古びた賃貸アパートの錆びついた鉄扉を押し開けた。室内には、長年染みついた湿気と、微かな漢方薬の匂いが滞留している。天井の蛍光灯はつけず、玄関脇の薄暗いフットライトだけを灯した。コートを脱いで椅子の背に掛けると、数時間前のオフィスで、顧知微の手が偶然自分の手の甲に触れたときの柔らかな体温が、まだ指先に残っているような気がした。
あの少女の澄んだ眼差し。そして、「私、生まれたその日に母が出血多量で亡くなったんです」という、残酷なまでに平然とした告白。それは氷の毒針のように許嵐枝の胸の奥深くに突き刺さり、抜くこともできず、触れるたびに鈍い痛みを走らせていた。
許嵐枝は重い足取りで古びた机の前へと歩み寄り、最下段の引き出しを開けた。
木箱の中に、母・許晴言が遺した品々が静かに眠っている。震える指先を伸ばし、一枚の出生証明書を取り出した。本来なら顧家にとって馴染み深い病院の名と、見慣れた日付が記されている。けれどそこに書かれているのは、彼らにとって見知らぬ産婦の名だった。
その紙片が、容赦なく彼女の意識を記憶の深淵へと引きずり戻す。
それは許晴言の命が尽きるまでの、最後の二ヶ月のことだった。末期癌の激痛は、小柄だった母を骨と皮ばかりの姿へと変わり果てさせていた。大学を卒業したばかりの許嵐枝に負担をかけまいと、母は鎮痛ポンプの点滴チューブを自分でこっそり引き抜くことさえあった。
己の最期を悟った母は、枯れ木のような手で許嵐枝の袖を激しく掴み、窪んだ頬に濁った涙を流しながら、ベッドから這うようにして冷たい床に崩れ落ちた。そして正座して頭を擦りつけ、枕の下から一冊の預金通帳を取り出したのだ。
「嵐枝……すまない、本当にすまない……! 私が罪を犯したんだ……その報いが当たったんだ、地獄に落ちるのは私だ……!」
それは、二十余年もの間隠され続けてきた、驚愕の秘密だった。
「嵐枝……お前こそが、あの大富豪の本当のお嬢様なんだよ……!今、顧氏グループの令嬢となっているあの子こそが、本当の私の子だ。」許晴言は病室の床に額を擦りつけ、胸を拳で激しく叩きながら泣き叫んだ。「私が、お前の人生をめちゃくちゃにした……名乗り出るのが怖かった。刑務所に入るのが恐ろしくて、お前を手元で育てるしかなかったんだ……」
その夜、許嵐枝の世界は音を立てて崩壊した。
二人きりで寄り添い合って生きてきたはずの二十数年間の清貧と誇りが、一瞬にして救いようのない犯罪の産物へと反転した。目の前で泣き崩れるこの女――二十年以上「母」と呼び続けてきた存在は、我が子の人生をすり替えた誘拐犯だったのだ。
「次の日には後悔したんだ。信じておくれ、次の日病室へ行ったら、あの一家はもう別の病院へ転院してしまっていて……嵐枝、嵐枝……!」
許嵐枝はそれから三日三晩、一言も口を利かなかった。
もし他の人間であれば、狂ったように問い詰め、母の病床を捨てて立ち去ったかもしれない。けれど許嵐枝はそうしなかった。
それからの日々も、彼女は母の痩せ細った身体を定時に拭き清め、癌の痛みに母が悶える夜には、一晩中その老いた手を握りしめ続けた。自虐的とも言える冷静さと温もりを保ったまま最後の孝行を尽くし、悔恨に濡れた母の瞳を自らの手で閉じさせ、その遺骨を冷たい公営墓地へと納めたのだ。
母が遺した最大の願いは、出生証明書と通帳を持って顧家へ行き、実の娘として名乗り出て、本来あるべきすべてを取り戻すことだった。
だが葬儀を終え、誰もいない墓地に立ち尽くした許嵐枝を襲ったのは、かつてない窒息感と激しい吐き気だった。
帰る? どうやって?
あの城のようにそびえ立つ豪邸の前に立ち、「二十数年前に私の母があなた方の娘を盗みました。母が死んだので、本来の令嬢の座を返しに来ました」とでも告げろというのか。
鎮痛剤が切れた夜、母は一度も会ったことのない実の娘に会いたいと泣き叫び、ある時は激しく後悔して涙を流し、またある時は目の前の「娘」に許しを請うていた。
精神を引き裂くような絶望と苦痛の中で、許嵐枝が選んだのは逃亡だった。
売れるものはすべて売り払い、大学時代に身を粉にしてコードを書き溜めたわずかな貯金を握りしめ、海外のトップ理工系大学の給費奨学金を勝ち取って、彼女は国外へと逃げ出した。
異国の地で過ごした三年間、許嵐枝は疲れを知らない機械のように働き、学び続けた。極限まで研ぎ澄まされたプログラミングと研究成果で、自らの神経を麻痺させようとしていたのだ。
だが夜が更けるたび、母の臨終間際の歪んだ悔恨の顔が、悪夢となって彼女を叩き起こした。
なぜだ。
自分は孤独と苦難を一人で噛み砕いてきたというのに、なぜ自分の二十余年の人生を享受したあの簒奪者は、何の後ろめたさもなく順風満帆な道を歩んでいるのか。
心の底で数年間燻り続けた不条理への憤りと歪んだ衝動は、許嵐枝を帰国へと駆り立てた。顧家を徹底的に洗い出し、子会社の現場で働く顧知微の真上へと空降したのだ。
感情を殺した冷酷なメスとなって、顧知微からその光輪を一枚ずつ剥ぎ取ってやるつもりだった。
――バタン。
引き出しが重い音を立てて閉じられた。
薄暗い明かりの下、許嵐枝は顔を上げ、古びた鏡に映る自分を見つめた。かつて冷徹で孤高を保っていたその顔には今、底知れぬ疲弊と葛藤が刻まれている。
顧夫人は、知微を産んだその日に亡くなっていた。
知微もまた、一日として母の愛を知らずに育ったのだ。
それどころか今夜のオフィスで、知微は書類で顔を隠し、自分が買ってきた温かいおでん一つで耳の付け根まで赤く染め、あんなにも無防備で澄み切った笑顔を向けてきた。
「許嵐枝、あんた……いったい何をしてるのよ……」
彼女は下唇をきつく噛み締めた。
あの娘はあまりにも無垢で、澄んだ鏡のように、許嵐枝の胸にある暗闇と復讐心を浅ましく浮き彫りにしてしまう。
窓の外では、晩秋の冷たい夜風が隙間を抜けて吹き荒れ、すすり泣くような低い音を立てていた。
許嵐枝はゆっくりと瞳を閉じ、冷え切った頬を伝う熱い涙をそのまま零れ落ちるに任せた。彼女はその狭く暗い部屋の中に、いつまでも、立ち尽くしていた。
けれどその夜、顧知微は幸せそうな笑みを浮かべ、ぐっすりと眠った。
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【比喩表現って翻訳するとたまにおかしくなることに気づいたから、今後はなるべく使わないようにしようと思う】




