憎しみ
オフィス全体の空調は、夜八時を過ぎると自動的に省エネモードへ切り替わる。人影のない執務エリアには、淀んだ空気が重く沈んでいた。
顧知微は、手の甲で重く痛む目元をこすり、目の前にうず高く積まれた監査調書へと視線を戻した。
各支社から集められた証憑類は、どれも分厚く、雑然と綴じられている。紙の端が指先に擦れるたび、ひりひりとした痛みが走った。
小さく息を吸い込み、次の資産明細の照合作業に取りかかろうとした、そのときだった。
静まり返った廊下の奥から、こちらへ近づいてくるハイヒールの音が響いた。
いつもの彼女らしい、冷徹で規則正しい足音ではない。どこかに、隠しきれない焦りが滲んでいた。
知微は手を止め、信じられない思いで顔を上げた。
そこに立っていたのは、晩秋の雨に濡れた名残を肩にまとった許嵐枝だった。トレンチコートの裾はわずかに湿り、片手にはコンビニの紙袋、もう片方の手には湯気の立つおでんの容器が二つ提げられている。
「許……許さん?」
知微の声はかすれていた。疲労のあまり、幻覚でも見ているのかと思った。
「どうして、戻ってきたんですか?」
許嵐枝はすぐには答えなかった。
乱れた呼吸を整えながら、知微の青白い顔を二秒ほど見つめる。やがて、何でもないことのように視線を逸らすと、散らかったデスクの端におでんの容器をそっと置いた。
出汁の香りに、大根や白滝のほのかな甘みが混じり、冷え切ったブースに広がっていく。
「下の店の前を通りかかったから。ついでに買ってきただけよ」
許嵐枝はコートを脱いで椅子の背に掛けると、隣のキャスター付きチェアを引き寄せ、腰を下ろした。
書類の山の一番上から一冊を無造作に抜き取り、分厚い背表紙を指先で軽く弾く。声には、いつもと変わらない淡々とした響きがあった。
「さっき、システムでチケットを確認したわ。この山のような書類も、要するに泥臭い照合作業が大量にあるだけ。処理のロジックそのものが複雑なわけじゃないんでしょう?」
知微はぽかんとしたまま、瞬きをした。
何食わぬ顔で一ページ目をめくる許嵐枝の横顔を見つめていると、張り詰めて今にも切れそうだった心の糸を、そっと下から支えてもらったような気がした。
知微は乾いた唇をきゅっと結んだ。急に気恥ずかしさが込み上げてくる。
胸元に抱えていた分厚い調書をじりじりと持ち上げ、顔の下半分を隠した。紙の端から覗く澄んだ瞳だけをわずかに細め、瞬きさえ惜しむように、隣に座る女性を盗み見た。
オフィスの無機質な蛍光灯が、伏し目がちになった許嵐枝の横顔を照らしている。長い睫毛が白い頬に淡い影を落としていた。
雨の冷たさをまとっているはずなのに、書類に目を落とすその姿は、不思議なほど人を安心させる。
二、三ページめくったところで、何かに気づいたように許嵐枝が顔を横に向けた。
――目が合った。
悪戯を見つかった子どものように、知微の睫毛がぴくりと跳ねた。それでも、どうしても視線を逸らせない。
紙の陰に隠れているはずの熱が、耳の付け根から頬へと広がっていく。見る見るうちに、その顔は鮮やかな赤に染まった。
許嵐枝の心臓が、不意に大きく跳ねた。
――な、何で赤くなってるのよ。別に、赤くなるような場面じゃないでしょう……!
動揺を悟られまいと、許嵐枝は慌てて視線を逸らした。小さく咳払いをすると、おでんの竹串を二本、知微の手に押しつける。
「……温かいうちに食べなさい。今夜中に終わらなければ、二人とも帰れないんだから」
知微はようやく調書を下ろし、口元をほころばせた。
「はい」
二人は狭いブースに肩を並べ、温かなおでんを食べ始めた。立ち上る湯気が鼻先をかすめ、出汁の香りがふわりと漂う。
「昔から、ずっとそうなの?」
柔らかく煮えた大根を一口かじりながら、許嵐枝は何気なさを装って尋ねた。
「こういう、誰かが嫌がらせで押しつけてきたとしか思えない仕事でも、一人で抱え込んで、黙って耐えるのが当たり前だったわけ?」
知微は口の中の練り物を飲み込んだ。温かい容器を両手で包み込み、困ったように微笑みながら俯く。
「耐えている、というのとは少し違うかもしれません。ただ、小さい頃から、それが普通だったんです。家には……人がたくさんいましたから」
少し間を置いてから、知微は続けた。
「子どもの頃、理不尽なことをされて泣きながら父のところへ行っても、『我慢が足りない。みっともない。そんなことで、将来この家の看板を背負えるのか』って突き放されるだけでした」
容器の中に目を落とす知微の瞳には、その若さには似つかわしくない、乾いた孤独が滲んでいた。
許嵐枝の手が止まった。竹串を持つ指先が、ぴたりと動かなくなる。
顧家で過ごした二十数年間。許嵐枝は、知微が周囲からちやほやされ、この世の苦しみなど何ひとつ知らずに育ったのだと思い込んでいた。
けれど、他人が羨む黄金の鳥籠の中で、知微が向き合ってきたのもまた、温もりのない荒野だったのだ。
「お母さんは?」
許嵐枝の声が、低く沈んだ。
その問いを口にした途端、心臓が激しく鼓動を打ち始めた。
「お母さんも、何もしてくれなかったの?」
知微の手が止まった。表情にかすかな陰りが差し、やがてぽつりと答えた。
「私、お母さんがいないんです。私が生まれたその日に、大出血で亡くなったって聞かされました。物心ついた頃から、家の中には写真もほとんど飾られていなくて……父も母の話をしたがらないから、私、一度もお母さんの顔を見たことがないんです」
――頭の中が、真っ白になった。
許嵐枝は手にした紙容器を強く握りしめた。縁がぐしゃりと歪み、熱い出汁がこぼれる。もう少しで手の甲にかかるところだった。
顧知微の母は、彼女を産んだその日に亡くなっていた……?
この事実は、顧家によって固く伏せられていた。許嵐枝は、顧夫人が出産時に亡くなったことさえ知らず、病気か何かで亡くなったのだろうと思い込んでいた。
血の気が引き、背筋を冷たいものが駆け抜ける。
母・許晴言が息を引き取る間際に流した涙と、途切れ途切れの懺悔が、脳裏によみがえった。
未婚の母となり、貧しさと病に苦しみながら早産で病院に運び込まれた許晴言。出産時の大出血と病院内の混乱に乗じて、彼女は保育器の中の赤ん坊をすり替えたのだ。
許嵐枝はずっと、顧夫人が何不自由ない暮らしの中で、知微を甘やかして育ててきたのだと思っていた。
だが、現実は違った。
知微を産んだ実の母は、その日のうちに命を落としていた。知微は生まれた瞬間から母の愛を失い、母の顔さえ知らないまま成長したのだ。
一方、許嵐枝には、許晴言がいた。
貧しく、生活が苦しい日々の中でも、罪悪感に苛まれながらも、自分が息を引き取るそのときまで娘に注ぎ続けた、無償の愛があった。
どれほど苦しい暮らしであっても、母は自分を愛してくれた。
その愛が、今になって胸に重くのしかかった。
「許さん?」
知微は、上司の顔から血の気が引き、呆然と固まっているのを見て心配になったのだろう。そっと手を伸ばし、冷え切った許嵐枝の手に指先で触れた。
「どうしたんですか? 手がすごく冷たいです……」
その指先から伝わる確かな温もりに、許嵐枝ははっと我に返った。
目の前にいる知微は、どこまでも純粋な眼差しで自分を心配している。
その姿を見ていると、胸の奥が痛み、息が詰まりそうになった。
顧知微は、自分のすべてを奪った悪人などではなかった。
そして、許嵐枝自身、母を愛していた。
だからこそ、彼女の憎しみは、最初からぶつけるべき相手を持たなかったのだ。
――私は、いったい何をしにここへ来たのだろう。
「……何でもないわ。少し冷えて、頭痛がしただけ」
許嵐枝は、胸の奥に込み上げる痛みを押し殺し、何でもないふりをして手を引っ込めた。そして再び、目の前の書類の山へと視線を落とす。
「早く食べなさい。食べ終わったら……自動照合用のスクリプトの組み方を教えてあげる」
知微の瞳がぱっと輝いた。先ほどまでの憂鬱は、たちまち喜びに塗り替えられる。
「本当ですか!? もう、全部手作業で照合しなくてもいいんですか?」
「当たり前でしょ」
許嵐枝はデスクの上のペンを取り、胸の内の動揺を覆い隠すように、白い指先でそれを握りしめた。
夜の静寂に落ちた声は、驚くほど低く、しかし確かな決意を帯びていた。
「私がここにいるのに、あなたを徹夜させるわけないでしょう」
実際、彼女の手元には、既存の画像認識フレームワークがあった。OCRで証憑の文字情報を抽出し、既存の照合用ファイルと連携させてスクリプトを組めばいい。すべてを手作業で確認する必要はなかった。
窓の外では、晩秋の雨がしとしとと降り続き、街のネオンを滲ませていた。
その狭いオフィスの片隅で、温もりが少しずつ失われていくおでんの容器を挟み、二人は肩を寄せ合っていた。
許嵐枝はキーボードに指を走らせ、次々とコードを打ち込んでいく。知微は頬杖をつき、その横顔を静かに見つめていた。口元には、ほのかな微笑みが浮かんでいる。
許嵐枝は顔を上げなかった。
ただ、自分が築き上げてきた心の壁に、いつの間にか小さな亀裂が入っていることには、もう気づき始めていた。




