監査
すりガラスで仕切られ、いつも固く閉ざされていたはずのマネージャールームの扉が、いつの頃からか異常な頻度で開閉を繰り返すようになっていた。
「許さん、ここのバランスを見直してみたのですが、こちらのほうが負荷が分散されませんか?」
「許さん、新しい検証環境の不足分を補填しておきました」
度重なる理不尽で苛烈な技術的難題をぶつけても、事態は許嵐枝の思い描いた「破綻と逃走」へ向かうどころか、奇妙な軌道を描いて暴走していた。
顧知微は完全に技術支援チームのコア業務に食い込み、ノートPCを抱えて個室を出入りする回数は、フロア中のどのシニアリーダーよりも多くなっていた。
それどころか、朝の光がブラインドの隙間を照らす時間帯、許嵐枝がドアを開けると、木製デスクの端にはいつも程よい温度に保たれたコーヒーが置かれており、その横には当日の予定と前日のフィードバックが端正な文字で添えられていた。
革張りのチェアに座り、眉間を押さえながら、許嵐枝は生まれて初めて自らのキャリアと復讐の青写真に対して深い疑念を抱いていた。
いったい、何だというのだ。
自分は確かに罠を張り巡らせ、口を開けば棘のある言葉をぶつけているはずなのに、顧知微は悪意のチャンネルをどうしても受信できない端末のように、どんどん屈託のない信頼を寄せてくる。部署内では、新しく来た許マネージャーは冷徹に見えて、新人の顧知微を内弟子のように鍛え上げていると囁かれる始末だった。
知微が昼休みに来なければ、むしろそちらの方が異常事態に思えるほどに。
……
午後四時五十八分。
オープンフロアには、定時退勤前の弛緩したざわめきが漂い始めていた。リュックのファスナーをそっと閉める者もいれば、スマホで夕食の店を探す者もいる。
その瞬間、顧知微のデスクの社内チャットツールが、突如として真紅の高優先度アラートを跳ね上げた。
『ピコン――』
静まりかけたフロアに、けたたましい通知音が突き刺さる。知微は指先を止め、自分宛てに届いたタスクを開いた。赤字で強調された緊急指示――全グループ事業部を横断する第3四半期の監査調書の整理。ファイルを見る限り、どう見積もっても八時間はかかるボリュームで、締め切りは無慈悲にも「明朝八時三十分」と設定されていた。
それは、一晩中一睡もせずに作業し続けなければならないことを意味していた。
だが、斜め向かいのパーテーションの奥で、知微はしばし呆然としたものの、リーダーの陳明へ直訴しに行くことも、ため息を漏らすことすらしなかった。彼女は静かにシステムの「受諾」をクリックした。
やるしかなかったのだ。
「不当な業務だ」と突き返せば、翌朝にはグループ監査委員会からの公式な懲戒通達が下り、子会社の現場のコンプライアンス評価そのものが道連れに引きずり降ろされることを、知微は痛いほど理解していた。
その様子を、ブラインドの隙間から見つめる許嵐枝がいた。
許嵐枝は眉をひそめ、冷徹な瞳に困惑を滲ませる。知微の能力は分かっていた。利発で、飲み込みも早い。自分の業務範囲でもない異常なタスクを、なぜ断らないのか。なぜ一言の抗弁すら挟まず、毒だと分かっているものをそのまま飲み込んでしまうのか。
染み付いた職業的な警戒心から自席へ戻ると、許嵐枝の指先がキーボードを叩いた。
タスクの発行元は技術部門ではなく、グループ本社の総務戦略調整室だった。
承認ルートの社員番号を遡り、起票者の欄に行き着いた瞬間――画面に並ぶ見覚えのあるアルファベットが目に飛び込んできた。趙廷敬。
許嵐枝の呼吸が詰まり、指先がキーボードの縁で固まった。
その名前は、記憶の奥深くに強く刻み込まれていた。
半年前、顧氏グループの子会社に入社を決める前、許嵐枝はあらゆる情報ルートを駆使して、顧家を取り巻く複雑な人間関係と派閥を調べ尽くしていた。
総務副ディレクターである趙廷敬は、表向きは慎重で目立たない中堅幹部に過ぎないが、その真の黒幕は顧知微の父方の遠縁――顧家本流が握る継承権を狙う傍系一派の飼い犬だった。知微が素性を隠して現場で修行していることは、社内では伏せられていても、後継者の椅子を狙う親族たちの前では格好の標的に過ぎなかった。
この男は、親族がグループ中枢に打ち込んだ楔だったのだ。
緊急の監査調書など口実に過ぎず、その実態は綿密に仕組まれた消耗戦だ。最も泥臭く、何の技術にも繋がらない底辺の雑務で彼女の気力と鋭気を削り取り、制度の枠組みを使って粗探しをする。名ばかりの第一継承者に惨めさと窒息感を味わわせ、自ら現場から逃げ出すよう仕向けた罠だった。
許嵐枝の胸が激しく波打ち、唇の端に自嘲混じりの冷たい笑みが浮かんだ。
可笑しな話だ。
この巨大な資本の怪物の腹の中で、知微を追い詰め、その特権と体面を剥ぎ取ろうと目論んでいるのは、自分一人ではなかったのだ。
趙廷敬の企みは、許嵐枝がこの会社に入った最初の動機と、寸分の狂いもなく一致していた。むしろ、自分が情に絆されて踏み切れずにいた刃を、向こうが代わりに振り下ろしてくれているとすら言える。
他人が差し出した毒を、ただ傍観していればいいではないか。
時計の針は五時三十分を指していた。
ビルの明かりが次々と落ちていく。誰もいなくなった闇の中で、斜め向かいの狭いデスクにだけ小さなスタンドライトが灯っていた。
光の輪の中にぽつんと浮かぶ知微の細い背中。ページをめくる横顔は、痛々しいほど蒼白で張り詰めていた。
許嵐枝はコートを羽織りバッグを掴むと、無表情のままドアを開けた。
空っぽの通路に、鋭いヒールの足音が冷たく響き渡る。彼女は一度も振り返らず、前だけを見据えて、唯一明かりの灯るデスクの横を通り過ぎた。
心の中で、自分に言い聞かせる。――見なさい。あれこそがあの女の受けるべき報いだ。本来なら自分のものだったすべてを奪っておきながら、今度は身内と信じる者たちに喰い荒らされているのだから、因果応報に他ならない。
だが、セキュリティ扉が音を立てて閉まり、エレベーターが急速に下降を始めた瞬間、心臓を鷲掴みにされたような強烈な圧迫感が許嵐枝を襲った。
ビルの回転扉を抜けると、晩秋の凍てつく夜風が冷たい雨粒を巻き込んで吹きつけ、薄手のコートをあっという間に冷え切らせた。
広場の中央で、許嵐枝の足取りは鉛のように重くなり、濡れた石畳の上に縫い止められてしまった。
違う。
胸の奥に広がるはずだった復讐の快感など、どこにもなかった。押し寄せてきたのは、胸を抉られるような激痛と、喉を締め上げる酸っぱい苦みだけだった。
あの澄んだ瞳、あふれる敬意、そして冷たいオフィスで悪意にたった一人で立ち向かっている、あのあまりにも華奢な後ろ姿。それらの残像が、頭の中で狂ったように明滅する。
何がお嬢様だというのか。
本当にすべてを欲しいままにし、傲慢に生きる略奪者であるなら、会長室に一本電話を入れ、趙廷敬など一瞬で追い出してしまえばいいのだ。それなのに知微はそうしなかった。
冷たい風が頬を切り裂く。
許嵐枝はバッグの持ち手を白くなるほど強く握りしめた。ビルから遠ざかるほどに、胸を裂くような締め付けと痛みが津波のように膨れ上がり、冷たい闇の中で息すらできなくなっていく。
自分は顧知微を壊したかったはずだ。けれど、彼女が暗闇の深淵へ突き落とされ、顔も見えない餓狼たちに蹂躙されようとしているのを目の当たりにした瞬間、自身の全身の血がそれを激しく拒絶して悲鳴を上げていた。
「……狂ってる。どうかしてるわ」
許嵐枝は我を失ったように呟いた。目の前には自分のマンションが見えているというのに。
彼女は踵を返した。冷たい風を切り裂いて翻るコートの裾。乱れたリズムのヒール音を響かせながら、人の波に逆らい、彼女はあの冷たく暗い高層ビルへと向かって、なりふり構わず駆け戻っていた。
知微に思い知らせたかったのは、持てるものすべてが自分のものではないという現実とそこからの撤退であり、汚らわしい親族の踏み台にされて食い殺される姿などでは断じてない。
そうだ。
絶対に、そんな結末は許さない。




