第9話 大地とお化け屋敷
「……ちくしょー! 早すぎるだろ!!」
ダイチが叫んだとき、肌を刺すような夏の太陽も、眩しすぎるネイビーの水着の残像も、すべてが真っ白な光の中に溶けて消え去っていた。
……いや、ネイビーだったか? 黒だったっけ? あまりにも一瞬すぎて、もう色の記憶すら怪しい。
代わりに鼻腔をくすぐったのは、甘くて香ばしいポップコーンとキャラメルの匂い。
耳元には、楽しげなブラスバンドの演奏と、大勢の家族連れやカップルたちの弾けた歓声が飛び込んできた。
ダイチはパチパチと目を瞬かせ、自分の立ち位置を確認する。 視界いっぱいに広がったのは、おもちゃ箱をひっくり返したかのようにカラフルで、たくさんの人々で賑わう大きな、大きな遊園地だった。
「……今度は、遊園地か! めちゃくちゃ楽しそうじゃねえか!」
ダイチは一瞬でテンションを跳ね上げ、目の前を疾走する派手なジェットコースターや、巨大な観覧車を見上げて目をらんらんと輝かせた。 ふと自分の右手を見ると、お祭りの夜からずっと握りしめていたはずのパイナップルの割り箸は、さっきの砂浜での執念によって、持ち手の感触ごと、ずっしりと重く、頑丈な『木刀』へと姿を変えていた。
あの頼りない木の棒が、そのまま自分の右手の中で進化を遂げてしまったのだ。
「よし、ジェットコースター! ゴーカート! メリーゴーランド! 片っ端から乗り回してやるぜ!」
鼻息を荒くしてチケット売り場へ突撃しようとしたダイチだったが、ポケットをまさぐって、一瞬でカチコチにフリーズした。
アロハシャツと海パンから、いつの間にか普通の私服に切り替わっているポケットの中には、やっぱりクシャクシャのゴミしか入っていない。お金なんて一円もなかった。
「あ……お金、ないじゃん。俺、また一文無しじゃん……!」
目の前では楽しそうに乗り物に乗る子供たち。自分は指をくわえて見ていることしかできない。仮想世界なら願った通りにアトラクションを動かせてもいいはずなのに、一文無しの無力な少年という現実は残酷なほどにリアルだった。
「ちくしょー、お腹も減ってんのに何もできねえ! 早くあいつを見つけてさっさと次へ……って、うわ。出たよ」
一文無しの悔しさを噛み締めながら園内の奥へと進んだダイチの口から、引きつった声が漏れる。
楽しい遊園地の一角に、そこだけ夕闇の影を背負い、まるで巨大な怪物の顎のようにぽっかりと不気味な入り口を開けている建物――巨大お化け屋敷が、圧倒的な存在感で鎮座していた。見ているだけで背筋が寒くなるような、禍々しい空気がそこからは漂っている。
その禍々しい外観を見上げた、まさにその瞬間だった。 ダイチの脳裏に、心臓を直接冷たい手で掴まれたような、奇妙な映像がチラッとよぎった。
(――うわぁん! 怖い! もうヤダ、入りたくないぃ!!)
泣きじゃくりながら、この禍々しい建物の前で、小さな女の子の手を引っ張って全力で逃げ出している、幼い自分の姿。
「……え?」
ダイチは思わず自分の額を押さえた。あまりにも生々しい、だけど全く身に覚えのない記憶の断片。
(お化け屋敷を見て、怖くて逃げた記憶……? 待てよ、俺……遊園地なんて、これまでに一回でも行ったこと、あったっけか……?)
自分の過去の記憶を探ろうとするが、霧がかかったように何も思い出せない。
「何よ、そんなところで立ち止まって。まさかダイチ、お金がないからってお化け屋敷の手前でいじけてるの? それとも、怖いの?」
背後から降ってきたのは、少女のいつもの涼しげな声。
ダイチがハッと我に返って振り返ると、彼女は水着から一転して、お洒落なブラウスにチェックのプリーツスカートという、いかにも遊園地デート用といった服装に着替えていた。
相変わらずニヤニヤと意地悪な吊り目を細めてダイチを見ている。一瞬だけ見せたあの海辺での水着姿と、世界が切り替わった切なさは、もうその仮面のような表情の裏に隠されている。
「だ、誰が怖いって言ったよ! 俺はただ、このお化け屋敷が今回のステージなのかって考えてただけだ!」
「そうよ。チケットなら私が二人分買ってあるわ。あの奥に、また例の『金色の何か』があるの。ほら、男の子でしょ? さっさと中に入って、私のために道を切り開きなさいよ」
少女はそう言って、ダイチの背中をポンと押した。ダイチはチッと舌打ちをして、さっきの奇妙な違和感を無理やり頭の隅へと追いやると、自分の右手にがっしりと握られた、元・割り箸の木刀を見つめた。
「……よし。チケット代の分は働いてやる。この相棒があれば、幽霊だろうがゾンビだろうが、ボコボコにしてやるぜ!」
ダイチはガキっぽく木刀を前へ突き出し、自分に気合を入れるようにして、不気味な黒いカーテンが垂れ下がるお化け屋敷の入り口へと足を踏み入れた。少女はその後ろを、くすくすと肩を揺らしながら、静かについてくる。




