第16話 大地と醒めない夢の終着駅
夕日のオレンジ色に染まる、古ぼけた平屋の建物。
錆びついたブランコが二つ並ぶ小さな庭と、色褪せたコンクリートの塀――二人が育った『施設』の景色の中で、少女は塀の上に腰掛け、夕日を背に受けて少年を見下ろしていた。
真っ白なサマードレスが逆光に透けている。
その首元には、江戸時代村で手に入れた二つの玉を加えた、複数の金色の数珠玉が、冷たい光を放ちながら不気味に繋がっていた。
「楽しかったね、今までのデート。私、あんたといろんなところに行けて、本当に幸せだった」
少女は、いつもの意地悪な吊り目を少しだけ緩め、純粋な笑みを浮かべた。
ダイチを巻き込まないために自ら「吊り目の仮面」をかぶった少女。
彼女は今、自分の死の切符を完成させるための最後の問いを、ダイチに投げかける。
「ねえ、ダイチ。最後の世界に行く前に、私に教えて。あんたは、私のこと、どう思ってる?」
その声は、かすかに震えていた。
本当は、現実の世界で叶わなかったささやかな未練ばかりだった。
(お祭りでは、くじ引きでお小遣いを使い果たした腹ペコな大地に焼きそばを買ってあげたかった)
(海では、可愛いと言われたくて一生懸命選んだ水着を、恥ずかしがらずに見せたかった)
(遊園地では、怖がらずに一緒にお化け屋敷に入ってみたかった)
(江戸の街では、お姫様の衣装を着て一緒に見て回りたかった)
だからこそ彼女は、自分の作ったこの夢の中で、生意気な仮面を被って理想のデートを繰り返していたのだ。
共に育ってきた少年からの、真っ直ぐな言葉。それさえ引き出せば、最後の数珠玉が完成し、彼女は完全に「あの世」へと連れ去られる。
それは、少年を無事に現世へ帰すための、確定した死の切符だった。
「どう、って……」
少年はまごついた。
13歳のガキンチョにとって、「好き」とか「愛」なんて言葉は意味すらまだよく分からない未知の領域だ。
そんな気恥ずかしい言葉は口が裂けても言えない。
さらに、少年の魂の奥底にある『絶対の記憶』が、彼の脳内で激しい拒絶を起こす。
「……わりぃ。俺、お前のこと、いいなとは思うんだけどさ」
少年は頭をガリガリと掻きむしりながら、ぶっきらぼうに視線を逸らした。
「俺には……何て言うか、別に、どうしても探さなきゃいけない、大切な奴がいるんだ。そいつの顔も名前も思い出せないんだけど、俺が命を懸けてでも、絶対に守らなきゃいけない『あいつ』が、現実にいる気がするんだよ」
それは、記憶を失った少年なりの、昏睡状態にある「本物の少女」への、狂おしいほど一途な忠誠だった。
だが少女にとってそれはあまりにも残酷な、夢の終わりを告げる一撃だった。
「――え」
少女の息が止まる。
自分のために命を懸けて追ってきてくれた大地の深い想い。
それに満たされていたはずの箱庭が、一瞬で凍りついた。
(あんたは、私を追ってきたんじゃなかったの……? 記憶を失くしたあんたが大事に思っているのは……私じゃない、別の誰かなの?)
ピキ、と、少女の顔に張り付いていた『吊り目の表情』に決定的な亀裂が入る。
剥がれ落ちた笑顔の下から覗いたのは、絶望に歪み、今にも消えてしまいそうな、13歳の少女の、あまりにも無防備な素顔だった。
「……そっ、か。そうだよね。お呼びじゃないよね、私は」
少女の身体が、スーーッと後ろへと遠ざかっていく。
「おい……!?」
少年の心臓が跳ね上がった。
仮面の下の、その泣き顔を見た瞬間、胸の奥が引き裂かれるような凄まじい衝動が突き上げてきた。
「待てっ! 違うんだ、俺は――!」
「来ないで!! もういい! 全部めちゃくちゃになっちゃえばいいんだわ!!」
少女の絶望に呼応するように、世界が凄まじい音を立てて崩壊を始めた。
施設の建物がめくれ上がり、空が割れ、その裂け目から、今までクリアしてきた世界がドロドロに溶け合って押し寄せてくる。
夏祭りの巨大な鳥居、砂浜の落とし穴、お化け屋敷のゾンビの群れ、江戸の火の海、それらすべてが巨大な津波となって、少年の行く手を阻む『障害物』として世界を埋め尽くしていく。
遠ざかる少女の背中が、夢の嵐の向こう側に消えようとしていた。
その時、少年の口から、自分でも信じられない名前が飛び出した。
「待てよ、――『美空』――ッ!!」
魂が直感した、彼女の本当の名前。
記憶はまだ戻っていない。けれど、魂の叫びがすべてのリミッターを粉砕する。少年の足に、あの時速300キロを超える脚力が、今度は明確な意志とともに宿った。
――ズババババババッ!!!
少年は人間の形をした新幹線と化し、崩壊する世界を猛然と疾走し始めた。
ゾンビの群れを肉体一つで蹴散らし、砂浜の落とし穴をハイスピードのステップで跳び越える。
『来ないでって言ってるでしょ! あんたには他に大事な人がいるんじゃないの!?』
スピーカーから流れるアナウンスのように、狂った世界全体から美空の泣き叫ぶ声が響いてくる。
「うるせええええ!! お前以外にいるわけねえだろ!!」
少年は目の前に立ち塞がった、あの夏祭りの山頂にある巨大な鳥居から麓に向かって大地を蹴り、夜空へと大ジャンプを決める。
「って、うお、高っけえええええ!? 」
空中であられもない姿で絶叫しながらも、少年は落下スピードを利用して重力を置き去りにし、空中を浮遊する夜店の屋根の上へとすんなり着地して胸を撫でおろす。
そのまま屋根を爆走して、美空を追いかける。
『嘘つき! さっき大事な奴が別にいるって言ったじゃない!』
「だから! 俺の、俺の一番大事な人は、今目の前で泣いてる『美空』お前なんだよォォォォッ!!」
『信じない! そんな口先だけの言葉、絶対に信じないんだから……!』
美空の拒絶の意志が最大に達し、世界が完全に少年を止めようと四方から迫ってくる。
迫り来る濁流のような夢の世界を前に、屋根の端で、少年はピタリと足を止めた。
その目は、もうトホホなガキンチョのそれではない。泥臭くも、絶対に離さないと決めた男の目だった。
「……そうかよ。信じねえなら、もう遠慮しねえ」
少年は深く息を吸い込み、屋根を踏み締めた。
「美空を傷つけたくない」という想いが無意識に自らに課していた暗示。
それを、今度は「美空を夢から力ずくで連れ戻す」という、さらに巨大な意志で上書きする。
「――俺の世界へ、来いッ!!」
ドン、と地鳴りが響いた。
少年の背中から、美空のバグった世界を押し返すようにして、もう一つの精神世界が猛烈な勢いで膨れ上がってきた。
それは、少年の大好きなもので埋め尽くされた世界だった。
クシャクシャのラムネの包み紙の雨が降り注ぎ、錆びたブリキのロボットや、謎の金属の破片、出所のわからないプラスチックのフィギュア、丸い石ころ――大人が見れば眉をひそめるような、少年が大切に集めてきた無数の『ガラクタ』たちが、巨大な盾となり壁となって、美空の夢を力強くパチンパチンと弾き飛ばしていく。
少年の純粋で、圧倒的に強固な精神力が、空間そのものを塗り替えていく。
美空の『拒絶の世界』と、少年の『ガラクタの世界』が、激しい光を放ちながらガチンコで衝突し、混ざり合い、二人の色で空間が包まれていく。
その瞬間、少年の脳内で、パリンと、すべての封印が弾け飛んだ。
濁流のように脳内に流れ込んでくる、本物の記憶。
親がいない施設での日々。4歳の時にやってきた、泣き虫な女の子、美空。
「俺が守るから」と誓ったあの日。学校でいじめられ、絶望して、大量の薬を飲んでしまった美空の姿。
そして、美空の後を追って、この醒めない夢へと自らダイブした、自分自身の本当の理由――。
光の渦の中で、大地はすべてを思い出し、ハッと目を見開いた。
「……そうか。そうだったのか、美空」
大地のポケットの中で、ただのゴミだったクシャクシャのラムネの包み紙が、あの施設で泣いていた美空に「ほらよ」と差し出した、最初の思い出の品としての輝きを取り戻していく。
本日は2話連続です。クライマックスまでお読み下さい。




