第一章 3 英雄の食卓、 戦場の均衡
雪山の断崖絶壁に広がる、頼りない幕屋。外では猛吹雪が吹き荒れ、数国までは「敗残兵の墓場」だった場所が、今は奇妙な沈黙に包まれていた。
「……隊長、もう一口、いただいてもよろしいでしょうか?」
副官が縋るような目で見つめる。湊(inダグラス)は、その視線を受けるたびに、胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚を覚える。ダグラスの強靭な肉体と、湊の繊細な感受性が混ざり合っていた。
「……ああ……ゆっくり食べな」
湊が念じると、ダグラスの巨体は驚くほど優雅な仕草で器を差し出した。
その時、ふいに幕屋の外がざわめいた。
『……小僧、警戒しろ……獣ではない。人の気配だ。それも訓練された「軍」の足音だ』
脳内のダグラスの声が鋭く響く。湊の身体が意識するよりも早く、戦士の反射で立ち上がる。その動きは無駄がなく、恐ろしいほどの威圧感を放っていた。
幕屋の布を少しだけ開けると、そこには敵軍の鎧を着た五人、寒さと飢えでふらつきながら立っていた。彼らは自分たちの「味方」を見失い、追い詰めたはずのこれまた瀕死のダグラス軍に遭遇して、複雑な顔をしていた。
彼らは剣に手を掛けたが、振るう力はもう残ってはいない。そして、彼の背後から漂う温かな、美味しそうなにおいが、彼らの指を止めさせた。
「……なんだ、この匂いは」
偵察兵の一人が、ゴクリと喉を鳴らす。戦場で生きる者にとって、温かい食事の香りは、時にどんな武器よりも強力な誘惑だ。
『……愚かな。ここが死の地であることを理解せぬか……』
最初に対峙した時、彼らの瞳は飢えと狂気で濁り、もはや人間を「同胞」ではなく「食料」として見つめ始めていた。
しかし、漂う魔獣の骨から出た濃厚な出汁の香りは、彼らに「理性」を戻したのだった。
湊が何も言わず、差し出したスープ。そこには、ただの肉の出汁ではなく、(誰かが手間をかけ、技術を尽くして美味しくしようとした湊の意思)が込められていた。
敵味方関係なく兵士たちは、熱い脂を啜りながら、声をあげて泣いた。
凍った脛肉という、戦場で最も粗末だったはずの部位が、湊の手によって「人間であるための誇り」を繋ぎ止める一杯に変わったのだった。




