第一章 2 魂の交換(スワップポイント)
「……っ⁈……ごほっ、ごほっ……!」
湊が息を吹き返した先は、コンクリートの屋上ではなかった。
視界を覆うのは、地獄のような猛吹雪と血の錆びた臭い。
湊は自分の手を見下ろし、そのあまりの巨大さと、無数の傷跡に悲鳴を上げた。
「なに、これ……!嘘だ、ここはどこ……⁈」
『……うるさい。小僧、耳障りだ』
脳内で響く、低く冷徹な地響きのような声。
湊は恐怖に震え、立ち上がろうとして、足元の岩を粉々に踏み砕いた。
自分の体の中に、じぶんではない「別の巨大な意思」が同居している。
『我が名はダグラス。貴様、どこの国の回し者だ?私の身体に何を__』
ダグラスの声が、ふっと途切れた。
彼の視界の端に、幕屋の中で、兵士たちが骨と皮だけになった体を寄せ合い、静かに死を待っていた」
「……隊長。もう……動けません」
副官の掠れた声が、凍り付いた空気に消える。ダグラスの肉体に宿る湊は、その光景を前に立ち尽くしていた。
胃袋の底が冷え切るような恐怖と、それ以上に込み上げてくる強烈な「調理への衝動」が、湊の脳内を支配する。
『……どうした、小僧』
脳内でダグラスが低く唸る。
『彼らはもう、食い物を消化できる状態ではない。無理に何かを食わせれば、弱った胃が耐えきれずに死を早めるだけだ……もう、諦めろ。英雄である私ですら、この雪原で彼らを救う術は持ち合わせてはいないのだ』
湊は何も答えず、鎧の裏地をはぎ取った。
そこには、氷のようにカチカチに凍り付いた魔狼の脛の肉が隠されていた。ダグラスが最後まで自分たちの為に隠し持っていた、最後の希望。
(……まだだ。まだ、終わらせない)
湊は、ダグラスのその巨大な指を使って、震えるほど正確に肉の繊維を見極めていた。
普段は、敵の首を跳ねるために使われる魔力。だが今は、湊はそのエネルギーを「温める」ためではなく、肉の細胞を壊さずに氷を解き、旨味を抽出するための「精密な圧力」として使った。
『……貴様、私の闘気を、ただの肉の解凍に使おうというのかっ⁈』
(……静かにしてよ。今は一滴の脂も、一欠片の栄養も、無駄には出来ないんだから)
湊は、近くに転がっていた大鍋を拾い上げ、雪解け水を注ぐ。
ダグラスの魔力が、大鍋の底から一定の温度を伝え始める。沸騰させず、かといって冷まさず。肉の細胞がゆっくりと開き濃厚なスープが生まれていく。
幕屋の中に、信じられないほど芳醇なにおいが立ち込めた。
兵士たちが、枯れ木のような指をわずかに動かした。
飢えで死にかけていた瞳が、においのする方向へゆっくりと向けられる。
「……隊長……?」
副官が夢見心地に呟く。港は、大鍋の中のスープを丁寧に濾し、木製の椀に注いだ。その所作は、戦場の猛将ではなく、ただ家族の帰りを待つ食卓を用意する、一人の「料理番」のものだった。
(……食べて。お願いだから、食べて)
湊は、副官の唇にゆっくりと椀を運ぶ。一口。とろりとしたスープが、喉を通り抜ける。
その瞬間、副官の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
死の淵にいた男の顔に、血の家が戻る。
それを見た周囲の兵士たちが、這いずりながら鍋を囲むように集まってきた。
『……正気か。彼らは、貴様のその「温かい食べ物」に、命を縛り付けられたぞ』
脳内のダグラスの言葉に、湊は小さく頷いた。
(それでいい。……食べなきゃ、生きられないんだからな)
雪山に、荒くれ者たちのすすり泣く声と、温かいスープを啜る音が響き渡る。ガドム帝国のならず者軍団は、今、剣ではなく「一杯のスープ」によって、湊という「主婦系男子」を頂点に抱く、奇妙な結束体へと変貌を遂げたのである。




