第三章 10 軍神の料理 漆黒の救世主 2
(……ねえ、ダグラス、これだけじゃ全然足りないよねえ……)
湊(inダグラス)は、目の前の光景に冷や汗をかいていた。先日仕留めた子ボアは、解体してみれば予想以上に小ぶりだ、一方で、広場に集まって来ているのは飢えた村人とダグラス軍と敵軍の戦士だ。ゆうに150人以上はいる。
湊は、巨大な大鍋を前に眩暈を覚えた。
幕屋で振る舞った「地底茸のスープ」は、兵士達には大好評だったが、今、ボアの肉は残り僅か。おまけに麦の団子だけが沢山入った味のしないスープだ。
『……どうする、小僧?これぞ真の窮地だな。……お湯に麦の団子を浮かべただけの代物を出すか?……さもなくば、今わしが、全員を叩き切り、黙らせてやろうか?』
(ダメダメ!……そんなのダメだよ!……何か、何かあるはずだ。こんな村でも、命を繋ぐための味が……)
『……ふむ。小僧、鼻を研ぎ澄ませ。……あそこの、雪に埋もれた朽ちかけた納屋から……わずかだが「腐敗」とは違う、魂を震わせるだけの熟成の波動を感じるぞ』
(ええっ?腐敗……じゃない……熟成?)
脳内のダグラスに促されて湊(inダグラス)は軍神の巨体を揺らして納屋の雪をかき分けた。
……そこには煤と埃にまみれ、幾年も放置されたような古い石壺が鎮座していた。
「そっ、それはっ!いけませぬ。そこに近寄ってはなりませぬ!」
村長が顔を真っ赤にして叫んだ。
「それは随分前に、極東からきたという怪しげな商人が置いていった『呪いの泥』であります。触れた者は必ず災いに見舞われると村の間で噂になり、以降だれも決して近づかなかった……」
(ダグラス……呪いの泥……らしいよ?)
『……ふん、関係ないわい。開けてみよ。……かつて私が戦場で相まみえた異国の剣士が、これに似た香りのする「漆黒の液体」を糧に、驚異的な生命力を維持していたと聞いたが……もしかするとだな」
(呪いの泥……ね)
湊(inダグラス)は、ダグラスの魔力で強化された指先を、そのガチガチに固まった蓋の隙間に手を掛けた。
(ぬんっ!)
鈍い音と共に蓋がこじ開けられた瞬間に、広場全体の空気が一変した。
__ふわぁぁぁぁぁ……ッ‼
立ち上がったのは、重厚で、官能的ですらある「発酵」の芳香。
雪山の冷気を一瞬で塗り替えるような、大地のうまみが凝縮されたよう香気が爆発した。
(……っ!これ……醤油?いや、大豆だけで作られた、極限熟成の『……たまり醤油』じゃないのか⁈)
壺の中には、大豆の粒が溶け残り、漆黒の液体がドロリと沈殿していた。
数年の時を経て水分が飛び、うまみ成分だけが結晶化したその雫は、まさに「漆黒の宝石」と呼ぶにふさわしい。
「村長さん、これは呪いなんかじゃない。……最高の宝物ですよ!」
湊(inダグラス)は、魔法で浄化した布でその黒い液体を丁寧に漉し、沸き立つ大鍋へと一気に注ぎ入れた。
琥珀色の雫が、ボアの僅かな脂に触れた瞬間、パッと華が開くように香ばしさが弾ける。
(ダグラス、お願い。魔法で対流を制御して!この醤油とボアの骨から出たわずかな旨味を完全に結びつけるんだ!)
『ええい!小癪な小僧……だが承知した。破壊の焔を、この一滴を輝かせるための「灯火」と成さん!』
湊(inダグラス)が鍋に手をかざすと、琥珀色のスープが猛烈に回転し始めた。
醤油が熱せられ、全粒粉の麦団子に、見る見るうちにその色がしみ込んでいく。
「……な、なんだっ、この匂いは……っ!」
「……胃が……胃が直接掴まれたような……こんな感覚生まれて初めてだッ!」
今まで殺気立っていた村人たちとダグラス兵士、敵兵士たちまでもが一瞬で「一匙の救い」を待つ静寂に包まれた。
それは「呪いの泥」が「聖なる雫」へと変わった瞬間でもあったのだ。




