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雨を裂くは、黒の牙  作者: よもぎ餅
第1章《雨と影の序曲》

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第10話:影の設計者

 雨は止んだ。

 だが、音は残った。

 水滴が屋根から落ちるたびに、昨日の雨がまだ息をしているように思えた。


 黒狗の拠点、地下五階。

 無機質な照明が、コンクリートの壁に光の格子を描いている。

 その中心で、湊は一枚の透明なプレートを見つめていた。


 ――“造られた速さ”。

 あの夜、影が残した三つの白い粒。

 今、その一粒がプレートの中で静かに光っている。


 「……呼吸してるみたいだな」

 テオの声が背中から届く。


 「生きてるみたいだ、の間違いじゃない?」

 フィオがモニター越しに顔を覗かせた。

 相変わらずの軽口。でも、瞳だけは笑っていない。


 「《白蓮》の分析結果が出たよ。構造は脳波データに近い。

  “考える速さ”を再現してる。……それも、湊くんの。」


 湊の喉がひとつ鳴った。

 「俺の……速さ?」


 「正確には、“記録された速さ”だね。

  脳と筋肉の反射を同期させて作られた動きの模倣。

  ――つまり、君の身体が一度通った“時間”を、誰かがデータ化したってこと。」


 テオが顎に手を当て、低く言う。

 「情報が漏れたのは確定だ。だが、どうやって?」


 フィオが画面の向こうで指を弾く。

 「それがね、面白いんだよ。

  内部記録の中に、“設計者”の署名があったの。」


 「署名?」

 「うん。デジタルコードの中に埋め込まれてた。

  イタリア語で――『Ben fatto, piccolo fantasma』」


 テオの眉が動く。

 「……“よくできたな、小さな亡霊”。」


 フィオが頷いた。

 「ねぇ、おっさん。これってただの皮肉じゃないよ。

  これ、メッセージ。湊くん宛てだ。」


 湊が顔を上げた。

 「俺に?」


 「そう。あんたの速さを“造った”やつが、君に挨拶してる。」

 フィオの声が、少しだけ低くなった。

 「――“おかえり”ってね。」


     ◇


 ファミリー本部の応接室。

 厚い絨毯の上、ヴィンチェンツォ・ロッシがゆったりとソファに腰掛けていた。

 金縁の眼鏡の奥で、蛇のような目が細められる。


 「黒狗の諸君。ご苦労だったな。

  静掃の件は聞いている。……旧造船所の件も。」


 その声は穏やかだった。

 だが、穏やかすぎるものほど、底が見えない。


 テオは何も言わず、報告書を机に置いた。

 「第五の設備から、速度記録の抜き取りが行われた痕跡がある。

  あなたの帳簿サーバーにも、同時刻のアクセス履歴が残っていた。」


 「ふむ」

 ヴィンチェンツォは指先で顎を撫でた。

 「それで、私を疑うと?」


 「疑う、ではなく、確認です。」

 テオの声は冷たい。氷のように。

 「内部に“設計者”がいる。あんたがそれを知っていたなら――話は早い。」


 ヴィンチェンツォは小さく笑った。

 「おやおや。君たちはいつも急ぐな。

  だが、“速さ”に取り憑かれると、見落としが多くなるものだ。」


 その瞬間、背後の壁に映る光がわずかに揺れた。

 湊の感覚が、瞬時に警鐘を鳴らす。

 “動く”。


 刃が光るよりも早く、テオが腕を伸ばして湊を制した。

 壁の陰から、黒い影が滑るように出てくる。

 顔は見えない。だが、動きが速すぎる。


 ――まるで、湊自身のように。


 湊の背筋を冷たいものが走る。

 影が、ヴィンチェンツォの肩越しに一瞬だけ振り返った。

 唇が動く。音はない。だが、確かに言った。


 「Ben fatto, piccolo fantasma」


 次の瞬間、影は煙のように消えた。


     ◇


 応接室を出てからも、湊の手は震えていた。

 フィオの通信が入る。

 『今の……記録にない。カメラも全部ブラインドされてた。』


 「誰かが、“消してる”んだ。」

 テオが低く言う。

 「映る前から、映像そのものを。――光が当たる前に影を作ってる。」


 『おっさん、それって……』

 「《十一牙・黒影》。ジュリオの技術だ。」


 フィオの声が止まった。

 「……内部、だね」


 「牙が動いてる。」

 テオは歩を止めた。

 「だが、まだ誰が主犯かはわからない。

  《黄金牙》も、《黒影》も、同じ“光”を見ている。

  ――だが、その光は誰の手にある?」


 湊は拳を握る。

 「影が笑っていた。まるで俺を知っているように。」

 「知ってるさ。」

 テオが言う。

 「“設計者”は、お前の過去を知っている。」


 湊が息を呑む。

 「……俺の過去?」


 「家族を失った事故。あれが、偶然だとまだ思ってるのか?」


 世界が、静止した。

 雨は止んだのに、耳の奥でしとしとと音がする。


 フィオが低く呟いた。

 『おっさん、それ……』


 「まだ言うな。」テオが制した。

 「全部を繋ぐ前に、まず“影”を掴む。――速さよりも、確かに。」


 湊はゆっくりと頷いた。

 目の奥に、再びあの光が宿る。

 速さではなく、意思の火。


     ◇


 夜。

 ルーチェ・ファミリー本館の屋上。

 街の光が濡れた屋根を照らし、風が旗を揺らしている。


 ヴィンチェンツォ・ロッシが、誰もいない屋上でスマートグラスを外した。

 通話画面には、モザイクのように歪んだ影。


 「進行は?」

 「順調です。」

 声は機械的だった。だが、どこかで聞いたことのあるような声でもある。


 「黒狗は気づいたか?」

 「彼らは速い。だが、止まれない。」


 ヴィンチェンツォはゆっくりと笑った。

 「いい。ならば――“速さの意味”を思い出させてやれ。」


 影の輪郭が、ノイズと共に揺らぐ。

 その中に、一瞬だけ見えた。

 白い仮面。

 そして、瞳の奥に宿る、湊と同じ“火”。


 ――影の設計者は、もう動き始めていた。

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