第8話:黒狗、動く
夜が明けきらない空の底で、雨だけが動いていた。
ルーチェ邸の廊下には、血の匂いがまだ薄く漂っている。
湊は静かに部屋の窓を開け、外の音を確かめた。
雨は落ち続けていた。
――音が、昨日より近い。
玄関に倒れていた第三牙の男。
あの胸に描かれた歪んだ光輪が、まぶたの裏に焼き付いている。
まるで「模造品」だった。
けれど、あれを描いた“手”が自分の知らない何かであることだけは、肌で分かっていた。
扉が静かに開く。
マッテオ・グレコ――テオが立っていた。
濡れたコートの襟を整えながら、淡々と言う。
「行くぞ。」
湊は顔を上げる。「……どこへ。」
「昨夜の死体。通信の最終送信は“旧造船所跡地”だった。
表向きは放棄施設だが、端末の一つが生きてる。
《Seconda》に“静掃”の命令が出た。」
湊の瞳がわずかに揺れる。
「……掃除、か。」
「違う。“確認”だ。」テオは短く言った。
「誰が、あの紋を描いたかを確かめる。」
沈黙。
湊はブレード・ユニットを取り、腕に装着する。
鋼牙の祈りが刻まれた刃が、部屋の光を切り裂く。
「オペレーターは?」
「紅鼠。」
「……潜入屋が?」
「“制限中”だ。幻装を使いすぎた。心理情報を盗む癖がある。だが耳は確かだ。」
「……好きでやってるんだろう。」
「“現場の息の音が好きなんだとさ”。本人の弁だ。」
◇
車が港を抜け、夜明け前の灰色の海を映す。
波が風を裂き、雨が窓を叩く。
その音に混じって、フィオの声が届いた。
『紅鼠より黒狗へ。……聞こえる?』
「報告を。」テオが短く言う。
『はいはい、おっさんは今日もつれないねぇ。
えっとね、造船所のセンサー、三日前に誰かが触ってる。
アクセスコードは第三牙のもの。……でも発信源が二つある。』
「二つ?」湊が問う。
『うん。一つは正式ルート。もう一つは“速すぎる”。
一瞬で移動してる。まるで、湊くんみたいに。』
湊が黙る。テオが代わりに口を開いた。
「“速さの痕跡”か。」
『そ。速さの亡霊。
ねぇ湊くん、自分の影、踏まれたことある?』
「……どうだろうな。」
『ふーん、いい返し。……でも、気をつけてね。
速い人って、置いてくるのも速いから。』
テオが通信を切る。「現場で話そう。」
◇
旧造船所。
錆びた門を押し開けると、海風と油の匂いが押し寄せた。
鉄骨の列、崩れかけたドック。
雨が、途切れず降っている。
湊は足元に視線を落とした。
地面の水たまりが、不自然に揺れている。
風の向きと逆。
「……風が、逆流してる。」
テオが銃に手をかける。「感知範囲を広げろ。」
湊は頷き、呼吸を整える。
音が遠のき、世界が遅れる。
雨粒が宙で止まる。
時間が、ほどけた。
その瞬間――
目の前に、“自分”がいた。
同じ姿、同じ装備。
違うのは、目の奥の“静けさ”だけ。
その瞳は、まるで“止まった世界の住人”のようだった。
湊の体が動く前に、空気が軋む。
風が反転し、雨が上に流れた。
空間が裂け、音が吸い込まれる。
「――ッ!」
湊は咄嗟に後退する。
影が動いた。
速さではなく、“遅さの反転”で世界をずらす。
テオの声が遠くで響く。「湊、下がれ!」
銃声が重なり、時間が再び“始まる”。
雨が落ちた。
影の姿は、もうなかった。
ただ、地面には――
雨に濡れていない跡が、ひとつ残っていた。
人の形でも、影の形でもない。
速さの形だけが、そこに焼き付いていた。
息を切らして膝をつく湊。
その肩に、テオが手を置いた。
「見たな。」
「……あれは、“速さ”だった。俺の、速さだ。」
テオは視線を落とし、跡を見つめる。
「これは造られた“速さ”だ。誰かが形を与えた。」
湊の喉が鳴る。
「誰が……?」
「まだ分からない。だが、ここに“技術”がある。――記録剤を使った形跡だ。」
風が吹き抜ける。
雨がその跡を打つ。
けれど、消えない。
まるで、そこにまだ“誰か”が立っているかのように。
無線がノイズを走らせた。
『ねぇおっさん。――そっち、誰かいる?』
「見えてる。」テオが答える。
『……ねぇおっさん。――そいつ、笑ってるように見えない?』
湊が顔を上げた。
鉄骨の上、遠くの梁の影に、誰かがいた。
輪郭だけ。
雨の向こう、確かに“笑って”いた。
次の瞬間、風が跳ね上がり、影は霧に溶けるように消えた。
その残滓だけが、ゆっくりと落ちてきた。
――濡れていない羽根のような、白い粒。
湊はそれを掴もうとして、手を止めた。
触れたら、何かが終わる気がした。
テオは雨を仰ぎ、低く呟く。
「“静掃”は、ここからだ。」
雷鳴が、遠くで鳴った。
雨が、裂けた。
世界が、わずかに軋んだ。




