表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨を裂くは、黒の牙  作者: よもぎ餅
第1章《雨と影の序曲》

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/16

第8話:黒狗、動く

 夜が明けきらない空の底で、雨だけが動いていた。

 ルーチェ邸の廊下には、血の匂いがまだ薄く漂っている。

 湊は静かに部屋の窓を開け、外の音を確かめた。


 雨は落ち続けていた。

 ――音が、昨日より近い。


 玄関に倒れていた第三牙の男。

 あの胸に描かれた歪んだ光輪が、まぶたの裏に焼き付いている。

 まるで「模造品」だった。

 けれど、あれを描いた“手”が自分の知らない何かであることだけは、肌で分かっていた。


 扉が静かに開く。

 マッテオ・グレコ――テオが立っていた。

 濡れたコートの襟を整えながら、淡々と言う。


 「行くぞ。」


 湊は顔を上げる。「……どこへ。」


 「昨夜の死体。通信の最終送信は“旧造船所跡地”だった。

  表向きは放棄施設だが、端末の一つが生きてる。

  《Seconda》に“静掃”の命令が出た。」


 湊の瞳がわずかに揺れる。

 「……掃除、か。」


 「違う。“確認”だ。」テオは短く言った。

 「誰が、あの紋を描いたかを確かめる。」


 沈黙。

 湊はブレード・ユニットを取り、腕に装着する。

 鋼牙の祈りが刻まれた刃が、部屋の光を切り裂く。


 「オペレーターは?」

 「紅鼠ロッソ・トポ。」

 「……潜入屋が?」

 「“制限中”だ。幻装を使いすぎた。心理情報を盗む癖がある。だが耳は確かだ。」

 「……好きでやってるんだろう。」

 「“現場の息の音が好きなんだとさ”。本人の弁だ。」


    ◇


 車が港を抜け、夜明け前の灰色の海を映す。

 波が風を裂き、雨が窓を叩く。

 その音に混じって、フィオの声が届いた。


 『紅鼠より黒狗へ。……聞こえる?』


 「報告を。」テオが短く言う。

 『はいはい、おっさんは今日もつれないねぇ。

  えっとね、造船所のセンサー、三日前に誰かが触ってる。

  アクセスコードは第三牙のもの。……でも発信源が二つある。』


 「二つ?」湊が問う。

 『うん。一つは正式ルート。もう一つは“速すぎる”。

  一瞬で移動してる。まるで、湊くんみたいに。』


 湊が黙る。テオが代わりに口を開いた。

 「“速さの痕跡”か。」

 『そ。速さの亡霊。

  ねぇ湊くん、自分の影、踏まれたことある?』


 「……どうだろうな。」


 『ふーん、いい返し。……でも、気をつけてね。

  速い人って、置いてくるのも速いから。』


 テオが通信を切る。「現場で話そう。」


    ◇


 旧造船所。

 錆びた門を押し開けると、海風と油の匂いが押し寄せた。

 鉄骨の列、崩れかけたドック。

 雨が、途切れず降っている。


 湊は足元に視線を落とした。

 地面の水たまりが、不自然に揺れている。

 風の向きと逆。


 「……風が、逆流してる。」

 テオが銃に手をかける。「感知範囲を広げろ。」


 湊は頷き、呼吸を整える。

 音が遠のき、世界が遅れる。

 雨粒が宙で止まる。

 時間が、ほどけた。


 その瞬間――

 目の前に、“自分”がいた。


 同じ姿、同じ装備。

 違うのは、目の奥の“静けさ”だけ。

 その瞳は、まるで“止まった世界の住人”のようだった。


 湊の体が動く前に、空気が軋む。

 風が反転し、雨が上に流れた。

 空間が裂け、音が吸い込まれる。


 「――ッ!」


 湊は咄嗟に後退する。

 影が動いた。

 速さではなく、“遅さの反転”で世界をずらす。


 テオの声が遠くで響く。「湊、下がれ!」

 銃声が重なり、時間が再び“始まる”。


 雨が落ちた。

 影の姿は、もうなかった。


 ただ、地面には――

 雨に濡れていない跡が、ひとつ残っていた。

 人の形でも、影の形でもない。

 速さの形だけが、そこに焼き付いていた。




 息を切らして膝をつく湊。

 その肩に、テオが手を置いた。

 「見たな。」

 「……あれは、“速さ”だった。俺の、速さだ。」


 テオは視線を落とし、跡を見つめる。

 「これは造られた“速さ”だ。誰かが形を与えた。」


 湊の喉が鳴る。

 「誰が……?」

 「まだ分からない。だが、ここに“技術”がある。――記録剤を使った形跡だ。」


 風が吹き抜ける。

 雨がその跡を打つ。

 けれど、消えない。

 まるで、そこにまだ“誰か”が立っているかのように。


 無線がノイズを走らせた。

 『ねぇおっさん。――そっち、誰かいる?』

 「見えてる。」テオが答える。


 『……ねぇおっさん。――そいつ、笑ってるように見えない?』


 湊が顔を上げた。

 鉄骨の上、遠くの梁の影に、誰かがいた。

 輪郭だけ。

 雨の向こう、確かに“笑って”いた。


 次の瞬間、風が跳ね上がり、影は霧に溶けるように消えた。

 その残滓だけが、ゆっくりと落ちてきた。

 ――濡れていない羽根のような、白い粒。


 湊はそれを掴もうとして、手を止めた。

 触れたら、何かが終わる気がした。


 テオは雨を仰ぎ、低く呟く。

 「“静掃”は、ここからだ。」


 雷鳴が、遠くで鳴った。

 雨が、裂けた。

 世界が、わずかに軋んだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ