第7話:紅鼠、笑う
会議室を出ると、廊下の空気が少しだけ重くなった。
熱ではなく、思考の残り香。
言葉を交わしただけで、空間が疲弊していく――それが十二牙会議という場所だ。
アリアは無言で扉を閉じた。
指先の微かな震えを見せぬよう、白手袋を直す。
頭の奥で、さっきの父の声が響いていた。
――第二に“静掃”を命じろ。波紋を立てるな。
“静掃”。
それはこの組織において、最も静かで、最も血なまぐさい命令。
階段の手前で足を止めると、壁にもたれた影が一つ。
黒のコート。濡れた瞳。
マッテオ・グレコ――テオ。
「命令だ」
アリアが言った。
「《Seconda》に“静掃”。四日。波紋を立てないで――『記録の外』の足跡だけを拾って」
テオは短く頷く。「湊は?」
「連れていって。目を離さないこと。……目で見るより、呼吸で見て」
「了解」
その一言で会話は終わった。
テオは踵を返し、昇りの階段へと向かう。
靴音は無駄がなく、硬い石を軽く叩くだけだった。
その音が遠ざかるたびに、雨の粒が近づいてくる気がした。
踊り場の手すりに、いつの間にか腰かけている影があった。
髪は淡い桃色、瞳は紅茶のような琥珀色。
足をぶらつかせ、笑っている。
フィオリーナ・ヴァレンティーナ。通称――フィオ。
紅鼠《Ottava Zanna》。
「ねぇマッテオ隊長、“静掃”って言い換えセンスは満点だけどさ」
軽い声。だが、その目は笑っていない。
背へ向けて投げられた軽口は、空気の針のように鋭かった。
テオは振り向かずに言う。「なんだ、紅鼠」
「要するに“大掃除”でしょ? 箒いる?
ほら、あたし、心だけは掃けないけど、それ以外はピッカピカにできるよ?」
「心は触るな。壊れやすい。」
「ふーん」
フィオは肩をすくめ、くるりと背中を向けた。
「湊くんの、ね?」
テオは答えない。
ただ上に向けて、四本の指を立てた。――四日。
フィオはそれを見て、にやりと笑い、
二本指をこめかみに当てて敬礼もどきをした。
その仕草の裏には、冷たい計算の気配があった。
軽口の下に、確かな“準備”の音が響く。
それでいい。それだけでいい。
アリアは最後に、地下の空気を一息だけ胸に収めた。
この階の匂いは、雨の匂いを忘れさせる。
だが、忘れてはいけない。
忘れれば、光はすぐに腐る。
上へ。扉を押す。湿った世界が戻る。
地上からは見えない場所で、十二の牙はそれぞれの向きで生え揃っている。
列は整っている。だが、その根は――同じ雨に濡れていた。
アリアは傘を差さない。
髪とコートが雨を受け、冷えが背を這い上がる。
それでも歩く。
光を掲げる者は、まず濡れなければならない。
廊下の角を曲がる手前、ふと気配に振り返る。
視界の端、磨かれたガラスに、黒い傘の“影”が映った気がした。
――笑った?
空白。影はどこにもいない。
雨だけが笑っている。
アリアは目を閉じ、静かに息を吐いた。
会議は終わった。
だが、会議で決まることはいつも一つしかない。
「走れ」
それだけだ。
階上で扉が開く音がする。
その向こうに、二人の足音が揃って響き始めた。
黒狗《Seconda Zanna》。
光の下で、最も静かに牙を磨く者たち。
雨は、まだ止まない。止む気配もない。
――だからこそ、光は掲げられる。
そして影は、飼い慣らされる。
四日。
世界が、その短い単位で形を変えることを、彼らは知っている。
雨が裂かれる瞬間が、どこかで息を潜めていることも、また。




