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第38話 僕が殺しました

「僕が殺しました」


 口から出た言葉は、自分でも驚くほど静かだった。


 エステルさんは、何も言わなかった。


 目を見開いたまま、俺を見ている。


 隣に立つベルも動かない。


 応接室から音が消えたようだった。


「……ベルさんは、死にました」


 もう一度、口を開く。


「境界の森で、俺を庇って」


 エステルさんの指先が、わずかに震えた。


 それでも、何も言わない。


 俺は膝の上で拳を握った。


「ベルさんは……反対してたんです」


「反対……?」


「エルダートレントを討伐しに行くことに……」


 あの日のことを思い出す。


 ベルさんは言っていた。


 一度退くべきだと。

 態勢を立て直してから挑むべきだと。


 あの化け物を相手に、今のまま進むのは危険すぎる。


 ベルさんの判断は、正しかった。


「俺たちが戻って準備してる間にも、助けを待ってる人たちが死ぬかもしれないって」


 エステルさんは黙ったまま聞いている。


「危なくなったら逃げればいい。何かあったら、その時に考えればいい。そんなことを言って……ベルさんが止めても、俺は聞かなかった」


 今なら分かる。


 どれだけ無責任な言葉だったのか。


 逃げればいい。


 そんな簡単な相手じゃなかった。


「最後には……俺一人で行くって言いました」


 喉の奥がひりついた。


「それで、ベルさんは頼りない俺について来てくれたんです」


 ベルさんが俺に従う義理なんてなかった。


 行かないという選択だってできた。


 それでも。


「俺が、連れていったんです」


 エステルさんの唇が、僅かに動いた。


 けれど、言葉にはならなかった。


「それで……戦って」


 足が疼く。


 さっきよりも、はっきりと。


「俺は何もできなかった」


 スゥたちが戦っていた。


 ベルさんが戦っていた。


 俺は指示を出すことしかできなかった。


 そして。


「エルダートレントに脚を貫かれて、逃げることもできず……戦う気力すら失いました」


 あの痛みが蘇る。


 地面に倒れた俺。


 迫る枝。


 そして――俺の前へ飛び込んだベルさん。


「ベルさんが……俺の盾になったんです」


 声が震えた。


「俺を庇って、致命傷を負いました」


 エステルさんが俯いた。


 膝の上に置かれた手が、強く握られている。


「俺が行くって言わなければ、ベルさんはあそこにいなかった」


「……」


「ベルさんの言う通り、一度戻っていれば……」


 何度考えたか分からない。


 もし、あの時。


 ベルさんの言葉に素直に従えていたら。


 もし。


 俺がもう少し強かったら。


 もし。


 俺が脚を貫かれていなかったら。


「だから……俺が彼女を殺したんです」


 エステルさんは、しばらく何も言わなかった。


 やがて。


「……ベルは」


 掠れた声が落ちる。


「あの子は、誰かに言われるまま従うような人じゃないわ」


「……はい」


 分かっている。


 ベルさんが、自分の意思で決めたことだということくらい。


「あなたについていったのも」


 エステルさんの声が僅かに震える。


「あなたを庇ったのも……」


「分かってます」


「……そう」


 エステルさんは、それ以上何も言わなかった。


 俺の言葉を否定もしなかった。

 慰める言葉もなかった。


 しばらくの沈黙のあと、エステルさんの視線が動いた。


 俺の隣。


 ベルへ。


「……だったら」


 その声は、さっきよりずっと小さかった。


「この子は……何なの?」


 俺もベルを見る。


 小さな木偶人形。


 俺がベルと名付けた存在。


「……分かりません」


 エステルさんが俺を見る。


「分からない?」


「はい」


「でも、この子にベルって名前を付けたのよね?」


「……はい」


 俺は一度、息を吸った。


「ベルさんが死んだあと……見えたんです」


「何が?」


「光みたいなものが」


 あの光景だけは、今でも焼きついている。


「ベルさんの身体から、小さな炎みたいな光が出てきて……ゆらゆら揺れてました」


 それは、炎のようで。


 でも熱くはなくて。


 ただ、そこにたゆたっていた。


「それが……どこかへ消えていくように見えたんです」


「……」


「だから、俺は手を伸ばしました」


 あの時は、何も考えていなかった。


 考える余裕なんてなかった。


 ただ。


 行ってほしくなかった。


「気がついたら、その光を……そばにあった器に残そうとしてました」


 自分が何をしたのか。


 どうやってやったのか。


 今でも、ちゃんとは説明できない。


「それで……この子が?」


「はい」


 ベルは何も言わず、俺たちを見ている。


 エステルさんの目がベルへ向く。


「その光が……ベルの魂だったの?」


「分かりません」


 分からない。


 その答えが出る日は来るのだろうか。


「本当に魂だったのかも分かりません。俺には、あれが何だったのか分からないんです」


「じゃあ、この子がベルなのかも……?」


「分かりません」


 二度目の言葉は、少しだけ喉につかえた。


「ベルさんなのかもしれない。もしくは、まったく別の何かなのかもしれない」


 ベルを見る。


「ただ、この子を見てると、ベルさんを思い出すことがあります」


 息吹草のこと。


 剣を持った時の動き。


 ふとした仕草。


 ベルさんを思わせるものが、確かにある。


 でも。


「だからって、ベルさん本人だって言っていいのか……俺には分からないんです」


 目の前にいるベルは、ベルだ。


 今ここにいる、一人の存在だ。


 それ以上のことを、俺はまだ何も知らない。


「……そう」


 エステルさんが呟く。


 長い沈黙が落ちた。


 やがて、エステルさんが尋ねた。


「どうして……?」


「え?」


「どうして、そんなことをしたの?」


 この質問をされることは、何となく分かっていた。


 そして、その答えも。


 あの瞬間の俺が何を考えていたのか。


 今なら、よく分かる。


「ベルさんを……失いたくなかったからです」


 エステルさんは黙っている。


「ベルさんが死んだってことを、受け入れたくなかった」


 胸の奥が痛む。


 それでも、言わなければならない。


 ここで取り繕ったら。


 あの時の自分まで、嘘になる。


「ベルさんを死なせたっていう事実を……受け入れたくなかったんです」


 俺は拳を強く握った。


「だから、手を伸ばしました」


 唇が震える。


「ベルさんを救いたかったんじゃない」


 違う。


 そんな綺麗なものじゃない。


「あの時の俺は……ベルさんのためじゃありません」


 エステルさんの目が揺れる。


「俺が、ベルさんを失いたくなかった」


 声が掠れた。


「俺が、ベルさんを殺した自分を認めたくなかった」


 全部、自分のためだった。


「俺が……救われたかったんです」


 言い終わった。


 それ以上、何もない。


 言い訳することも。


 自分を取り繕う言葉も。


 何一つ。


 エステルさんは俯いていた。


 淡い亜麻色の髪が、表情を隠している。


 やがて。


 ぽたり。


 膝の上に、雫が落ちた。


 エステルさんが立ち上がる。


 俺は、その場から動かなかった。


 そして――。


 ぱんっ!


 乾いた音が、応接室に響いた。


 頬が熱を持つ。


 顔が横へ向いた。


 ミントさんが立ち上がる。


「……これ以上は、控えてください」


 静かな声だった。


 怒っているわけではない。

 それでも、はっきりとした制止だった。


 エステルさんは、叩いた手をゆっくりと握りしめた。


「……ごめんなさい、ミント」


 小さく答える。


 頬に手を当てる。


 痛い。


 でも。


 ほんの少しだけ、胸の奥に絡みついていたものがほどけた気がした。


 ベルは、動かなかった。

 ラウドたちに絡まれた時なら、真っ先に俺の前へ出ていたはずなのに。


 今はただ、エステルさんを見ている。


 エステルさんが、俺を傷つけるつもりがないことを分かっていたのだろうか。


 俺には分からない。


 エステルさんが袖で涙を拭った。


「……ベルは」


 掠れた声で言う。


「私の友人だったの」


 俺は顔を上げた。


「昔、一緒にパーティーを組んでた。そのあとも……怪我をしたら私が治して、必要な薬を作って……ずっと付き合いがあった」


 エステルさんが小さく息を吐く。


「だから、分かるの」


 目には、まだ涙が残っていた。


「ベルが、自分で決めたことだって」


「……」


「あの子が、自分の選択を誰かのせいにするような人じゃないことも知ってる」


 俺は何も言えなかった。


「あなたについていったのも、あなたを庇ったのも……ベル自身が選んだことなんでしょう」


 それでも。


 エステルさんの声が震える。


「分かってる……」


 自分に言い聞かせるような声だった。


「分かってるの」


 涙が、もう一度頬を伝った。


「それでも……」


 エステルさんが俺を見る。


 その瞳には、怒りも。


 悲しみも。


 どうしようもないほどの痛みもあった。


「私は、あなたを許せない」

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