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第37話 その名を知る者

 朝のヴェールデンは、まだ少しだけ静かだった。


 大通りの店々が開き始めるよりも前。

 眠り羊亭の裏手で、俺はベルさんから預かった初雪を握っていた。


「ふっ……!」


 踏み込む。


 振り下ろす。


 もう一度、構える。


 それを何度も繰り返す。


「……違うな」


 一度、動きを止めた。


 今のは上半身が前に流れた。

 腕だけで振ろうとして、足と腰がついてきていない。


 構えも、まだ安定していない。


 少し続けただけなのに、呼吸もずいぶん荒くなっている。


「はぁ……はぁ……」


 ベルさんに剣を教わり始めた頃は、自分の何が悪いのかすら分からなかった。


 ただ不格好で。

 ただ振り回して。

 どうしてベルさんの剣と自分の剣が、あれほど違って見えるのかも分からなかった。


 今は、少しだけ分かる。


 自分の構えのどこがおかしいのか。

 何をした時に身体が崩れるのか。


 分かるようになった。


 だからこそ――。


「……まだまだ遠いな」


 ベルさんの背中が、どれだけ遠くにあるのかも分かるようになった。


 俺は初雪を片手に持ち替え、もう片方の手を開いた。


 手のひらには、硬くなった皮膚がある。


 豆ができて。

 潰れて。

 またできて。


 最初の頃は木の棒を握るだけで痛かった手も、少しずつ変わってきた。


「少しくらいは、前よりマシになってるのかな……」


 ベルさんに言われた。


 毎日、欠かさず訓練しろ、と。


 あの日から、一日も休んでいない。


 別に、毎日劇的に強くなっているわけじゃない。

 むしろ、自分の駄目なところばかり見えてくる。


 それでも。


 やめる理由はなかった。


 俺はもう一度、剣を構えた。


 その時。


 ふと、視線を感じた。


「ん?」


 顔を上げる。


 眠り羊亭の二階。


 俺たちが借りている部屋の窓から、小さな木偶人形がこちらを見ていた。


 ベルだ。


 窓辺に立ち、ただ静かに俺を見下ろしている。


「おはよう、ベル」


 手を振る。


 ベルが、こくりと頷いた。


「もうちょっとだけやったら戻るよ」


 もう一度、こくり。


 それだけだった。


 俺は視線を戻し、剣を握り直した。


「よし……もう十回」


 足を開く。


 腰を落とす。


 今度こそ、身体を流さないように。


「ふっ!」


 朝の静かな空気を、初雪が切った。


 ――訓練を終えて部屋へ戻ると、リィルが俺の手を見て眉を寄せた。


「リュート、また手から血が出ているのです」


 リィルが痛そうな表情をした。


「ん?」


 見ると、手のひらの豆が一つ潰れていた。


「ああ、これくらいなら大丈夫だよ」


「毎朝毎朝、よく頑張っているのです」


「約束だったからな……」


 俺は濡らした布で手のひらを拭いた。


「毎日やれって言われたんだよ」


「誰に言われたのです?」


「ベルさんに」


 何気なく答えた。


 リィルが少しだけ黙る。


「最初はさ、自分の何が悪いのかも全然分からなかったんだ。とにかく振り方が不格好だってことくらいしか」


「今は分かるのですか?」


「少しはな。でも、分かっても直せないんだけど」


「それなら、まだまだなのですね」


「そこはもうちょっと優しく言ってくれよ」


「たくさん頑張るのです」


「はいはい」


 壁際にはベルがいた。


 俺とリィルの会話を聞いているのか、こちらへ顔を向けている。


「まあ……少しずつやるよ」


 俺はそう言って、潰れた豆に布を巻いた。


 せん人様は今日もお留守番だった。

 最近、あの人……あの人形が何を考えているのか分からない。


 俺のスキルなのに、俺を守る気ないし。


 この街に来てからというもの、ずっと宿屋に引きこもっている。

 ただサボりたいだけか、もしくはだらだらしたいだけか。


 怠惰だ。


 実にうらやまけしからん!


 いつか、ビシッと言ってやろう。


 そのうち。


 ――朝食を終え、俺たちは冒険者ギルドへ向かった。


 今日は、二つ目の依頼を探すつもりだった。


 昨日の初仕事では、依頼そのものより息吹草のおかげで思わぬ大金が入った。


 だが、毎回そんな幸運があるとは思わない方がいい。


 まずはルーキーとして、地道に依頼をこなす。


 それが今の俺にできることだ。


 ギルドへ入ると、朝から多くの冒険者が行き交っていた。


「今日は何にするのです?」


「そうだな……昨日が採取だったから、違うのも見てみるか」


 俺はルーキー向けの掲示板へ向かおうとした。


 その時だった。


「リュートさん」


「はい?」


 受付からミントさんに呼び止められる。


「今、少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」


「え?」


 嫌な予感がした。


 まさか。


 昨日のナオリ草。


 少し焦げてたやつか。


 依頼達成って言ってたけど、あとからやっぱり駄目ですとか言われるのか?


「……昨日の薬草ですか?」


「はい」


 やっぱり!


「あの、焦げたのは本当にちょっとした事故で!」


「焦げた?」


「え?」


 ミントさんが首を傾げた。


「あ……いえ。何でもありません」


「昨日納品していただいたナオリ草については、問題ありません」


「ですよね……」


 危ない。


 自分から墓穴を掘るところだった。


「では、何でしょう?」


「息吹草についてです」


「息吹草?」


「はい。昨日、ギルドで買い取った息吹草を、取引のある治癒師の方が買い取られました」


 ミントさんは、少し声を落とした。


「その方から、採取した方にいくつか確認したいことがあると申し出がありまして」


「俺に?」


「はい。なんでも近頃は、状態のよい息吹草がなかなか手に入らないそうです。そのことについて詳しく聞きたいとのことでした」


「なるほど……」


 昨日の買い取り額は五万ディア。


 それだけ価値があるということは、それだけ欲しがる人間もいるということだろう。


「もちろん、こちらからリュートさんの情報をお伝えしたわけではありません。面会を受けるかどうかは、リュートさんにお任せします」


「俺は構いませんよ」


 俺も気になっていたことはある。


 それは、ベルが息吹草のことを知っていたことだ。


「息吹草についてなら、俺よりベルに聞いた方がいいと思います。見つけたのも、採り方を教えてくれたのもベルなので」


 ミントさんがベルへ視線を向ける。


「では、ベルさんにも同席していただいた方がよさそうですね」


「リィル、スゥ。悪いけど、少しここで待っててくれるか?」


「分かったのです。息吹草はリィルも知らないから、今回はベルに任せるのです」


 スゥも、ぽよんと跳ねた。


「その人は今、いるんですか?」


「はい。二階の応接室でお待ちいただいています」


「分かりました」


 俺とベルは、ミントさんに案内されて二階へ向かった。


 二階の廊下の奥。


 ミントさんが一つの扉を開いた。


 中は、それほど広くない。


 六畳ほどだろうか。


 向かい合わせに置かれた小さなソファー。

 その間には低いテーブル。


 窓からは、朝の光が差し込んでいる。


 テーブルの端には、簡素な茶器が置かれていた。


 そして、ソファーには一人の女性が座っていた。


 年齢は二十代後半くらいだろうか。


 灰色を少し混ぜたような淡い亜麻色の髪を、低い位置でひとつにまとめている。


 瞳は、深い青緑色。


 生成り色の上着の上から、治療用と思われる長めのコートを羽織っていた。


 足元には、大きめの革鞄が置かれている。


 横長のしっかりとした鞄で、蓋の隙間からは小瓶や包帯のようなものが覗いていた。


 いかにも、仕事道具をそのまま持ち歩いているという感じだ。


 女性は俺たちを見ると、立ち上がった。


「あら、かわいいお連れさん。初めまして」


 落ち着いた声だった。


 柔らかい。


 けれど、弱々しさはない。


「エステルです。急に呼び出すような形になってしまって、ごめんなさい」


「いえ。リュートです。こっちは俺の仲間です」


 ベルが小さく頭を下げた。


 エステルさんが、一瞬だけ目を丸くした。


「とても礼儀正しいお人形さんね」


「ありがとうございます」


 ミントさんが横の椅子へ腰を下ろす。


「それでは、私はここにおりますので、何かありましたらお声がけください」


「ありがとうございます、ミントさん」


 俺とエステルさんは、向かい合う形でソファーへ座った。


 俺の隣にはベルが立っている。


「それでは、早速なんですが」


 エステルさんは少し前へ身体を寄せた。


「昨日採取された息吹草について、いくつか教えてもらえますか?」


「覚えてる範囲でなら」


「ありがとうございます」


 そこから、いくつか質問された。


 どの辺りに生えていたのか。


 日当たりはどうだったか。


 岩や背の高い草が周囲にあったか。


「すみません。依頼のナオリ草に意識を向けていたので、そこまでは細かく見てませんでした」


「いえ。初めての採取依頼だったんですよね?」


「はい」


「それなら十分です。依頼とは関係のない薬草まで、意識を向けられる冒険者の方が珍しいですから」


 責めるような口調ではなかった。


「息吹草は見つけにくい場所に生えることも多いので、発見するだけでも難しいんです」


 エステルさんは少し考えてから尋ねた。


「ちなみに、息吹草を見つけたのはリュートさんですか?」


「いえ……」


 俺は横に立つベルを見る。


「見つけたのは、この子です」


「そのお人形が?」


「はい。俺が根元から採ろうとしたら止められて。切る位置を教えてくれたのもベルでした」


 エステルさんの視線が、ベルへ移った。


「薬草については、あなたが教えたんですか?」


「いえ、俺は何も……」


「では、もともと知っていた……?」


「それも、俺には分かりません」


「分からない?」


「俺自身、ベルのことを全部理解してるわけじゃないので」


 エステルさんが、わずかに首を傾げる。


 どう説明したものか。


 俺自身にも分かっていないことを、他人に説明するのは難しい。


「息吹草のことなら、俺より彼女の方が分かると思います」


「彼女……?」


 エステルさんがベルを見る。


「その子は、女の子なのね」


「多分……そうだと思います」


「多分?」


「俺にも確信があるわけじゃないんです。でも、なんとなく、女の子なんじゃないかなって」


「そう……」


 エステルさんはベルを見つめた。


「この子は喋れる? いくつか質問してみてもいい?」


「どうぞ。言葉は理解しています。でも、話すことはできません」


「意思の疎通はできるのよね?」


「できます」


「それなら、聞けそうね」


 エステルさんは、ベルへ身体を向けた。


「聞いてもいい?」


 ベルが、こくりと頷く。


「息吹草を見つけた場所は、日当たりのいい場所だった?」


 ベルが少し考え、首を縦に振る。


「近くに、大きな岩はあった?」


 今度も、こくり。


「背の高い草に囲まれていた?」


 首を横へ振る。


 俺が答えるより、はるかに正確そうだ。


 エステルさんも、ベルがきちんと質問を理解していることに少し驚いているようだった。


 いくつか確認したあと。


 エステルさんは少しだけ息を吐いた。


 そして、最後に尋ねる。


「……息吹草は、あの一株だけだった?」


 ベルは、少し長く考えた。


 やがて。


 こくり。


 一度だけ頷いた。


「そう……」


 エステルさんの声が、わずかに沈んだ。


 やっぱり。


 一番聞きたかったのは、それだったのだろう。


「本当に、手に入りにくいんですね」


「ええ、とても貴重な薬草なの」


 エステルさんは苦笑した。


「質のいい回復薬を作るために必要な素材なの。最近は状態のいい息吹草が入ってこなくて」


「もし、必要なら、見つけた場所まで案内しましょうか?」


「いいんですか!?」


「街から、そんなに離れてませんでした。俺もだいたいの場所は覚えてますし、ベルもいるので……」


 エステルさんが少し表情を緩めた。


「それなら……今度お願いしてもいいかしら?」


「もちろんです」


「ありがとう。助かります」


 そこで、息吹草についての話はいったん終わった。


 エステルさんは、改めてベルを見る。


「薬草とは、違う話なのだけれど……」


「はい?」


「その子、確かベルというお名前でしたよね?」


「はい」


「あなたが付けられたのですか?」


「……俺が、付けました」


「どうして、ベルって名前を?」


「それは……」


 一瞬、言葉に詰まった。


 ベルを見る。


「知り合いの名前から取りました」


「知り合い……」


 エステルさんの視線が、ほんの少しだけ揺れた。


「その人は……冒険者?」


「はい。冒険者でした」


 エステルさんの指先が、膝の上でわずかに動いた。


「女性……?」


「そうですね」


「ソロで活動していた?」


「基本的には、そうだったと思います」


 質問が少しずつ増えていく。


 俺は不思議に思いながらも答えた。


「剣を使う人?」


「はい」


 エステルさんの表情が、明らかに変わった。


「……どこで会ったんですか?」


「境界の森です」


「境界の森……」


 その言葉を繰り返したエステルさんの声が、僅かに震えた。


 俺はようやく気づいた。


 エステルさんは、ただの興味で聞いているんじゃない。


「あの、エステルさん?」


「あ……」


 エステルさん自身も、質問しすぎたことに気づいたのだろう。


「ごめんなさい。つい、立て続けに聞いてしまって」


 小さく頭を下げる。


「いえ……」


「でも……」


 エステルさんが俺を見る。


 さっきまでの治癒師としての穏やかな目ではなかった。


 何かを聞きたい。


 けれど、怖い。


 そんな目だった。


「もう一つだけ……聞いてもいいですか?」


「はい」


 エステルさんは一度、息を吸った。


「その人の名前は……」


 唇が、僅かに震える。


「ベルヴェット?」


 心臓が大きく跳ねた。


「……はい」


 短く答える。


 エステルさんが目を見開いた。


 その顔から、さっきまでの柔らかな表情が消えていく。


「本当に……ベルヴェットに会ったの?」


「ベルさんを知ってるんですか?」


 問い返すと、エステルさんはすぐには答えなかった。


 代わりに、俺の隣に立つベルを見る。


 ベルも、エステルさんを見ている。


 ただ、それだけだった。


 しばらくして。


 エステルさんが、俺へ視線を戻した。


「ベルヴェットは……」


 声が震えている。


「今、どこにいるの?」


 その瞬間。


 ずきり。


「……っ」


 塞がったはずの足の傷が、疼いた。


 境界の森。


 巨大な幹。


 脚を貫く激痛。


 俺の前に立ったベルさん。


 そして――。


 赤く染まった姿が、脳裏をよぎる。


 喉が詰まった。


 エステルさんが、俺を見ている。


 その問いに答えるための言葉は。


 ひとつしかなかった。

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