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第31話 東の勇者ユーナ

 時は少し遡る。


 リュートが古代樹を討ち倒し、深い眠りについていた頃。


 東の大陸、レフィリア聖公国。

 その中枢にある白亜の宮殿に、ひとりの少女が呼ばれていた。


「東の勇者ユーナ殿、ご到着になりました」


 謁見の間に、澄んだ声が響く。


 扉が開くと同時に、白銀の鎧をまとった少女が静かに歩み出た。

 長い髪は背に流れ、腰には細身の剣。

 まだ少女と呼べる年頃でありながら、その立ち姿に幼さはない。


 彼女の名は【ユーナ】。

 レフィリア聖公国が誇る、東の勇者である。


 謁見の間に居並ぶ大臣や将官たちの視線が、一斉にユーナへ集まる。

 誰もが、彼女に期待していた。


 ユーナはその視線を受け止めながら、玉座の前で片膝をついた。


「お呼びと伺い、参りました。レフィーナ様」


 玉座に座る女性【聖女レフィーナ】は、穏やかな目でユーナを見つめていた。

 そのまなざしは温かく、声も穏やかだった。

 けれど、その言葉が国の意思であることを、ユーナは知っている。


「ユーナ。本日、あなたをここへ呼んだのはほかでもありません。折り入って、お願いがあります」


「はい、何なりと……」


「西の国境で、ディスファリア帝国との緊張が高まっています。すでに小競り合いでは済まない規模の衝突が起き始めています」


 謁見の間に、重い沈黙が落ちる。


「遠くない将来、戦争になるでしょう」


 その言葉を聞いた瞬間、ユーナの胸の奥が小さく軋んだ。


 戦争。


 その二文字は、彼女にとって遠い世界の言葉だった。

 少なくとも、かつて自分がいた世界では。


「あなたには、前線に立っていただきたいのです」


 レフィーナの声は、どこまでも柔らかい。

 だが、その言葉には、国を背負う者の重さがあった。


「東の勇者として、兵たちの先陣を切ってください」


 ユーナはすぐに答えなかった。


 断れるはずがない。

 レフィーナには恩がある。

 この世界で目覚め、立場の弱かった自分を救ってくれた人だ。

 勇者としての力だけを見たのではなく、ユーナというひとりの人間を見てくれた人だ。


 だからこそ、重かった。


「……承知しました」


 ユーナは静かに頭を下げた。


「私が、先陣を切らせていただきます」


 謁見の間に安堵の気配が広がる。

 だが、ユーナの心は晴れないままだった。


 東には東の大義がある。

 西には西の大義がある。

 それぞれの大義が相容れないのなら、一人間である自分が、どちらが正しいなどと裁ける立場にはない。


 ならば、自分にできることはひとつだけだ。


 東の大陸の人間が、少しでも血を流さずに済むようにする。


 そう、自分に言い聞かせるしかなかった。



 戦場は、スパインオブゴッドの中央に位置する神椎島《ヴァーテブラ》に広がっていた。


 神の背骨と呼ばれる、東西の大陸から伸びる二つの大橋。


 西の大陸から伸びる橋。

 東の大陸から伸びる橋。

 その二つが接続する中央の小島、それが神椎島《ヴァーテブラ》である。


 いま、その島の中心で、東西の軍勢がぶつかり合っていた。


 戦砲の轟音。

 魔法隊の詠唱。

 魔導大隊が展開する光の陣。

 槍兵たちの怒号。

 治療班へ運び込まれる負傷兵の呻き声。


 それらすべてが混ざり合い、戦場というひとつの音になっていた。


「ユーナ様」


 隣を歩く従者が、静かに声をかける。


 彼女の名はセナ。

 ユーナの幼馴染であり、今は戦場付きの従者としてそばにいる。


「ご無理は、なさらないでください」


「ここには、無理をしに来たのよ」


 ユーナは前を見たまま答えた。


 その声は冷たく聞こえたかもしれない。

 けれど、セナは知っている。

 その冷たさが、震えを隠すためのものだということを。


「私が迷えば、その分だけ多くの血が流れる」


 ユーナはそう言って、剣の柄に手を置いた。


 その時、前線から悲鳴が上がった。


 土煙を突き破って現れたのは、巨大な狼だった。


 銀色の毛並みの上から、黒い魔導装甲が打ち込まれている。

 背には制御用の座があり、ディスファリア帝国の魔導兵が乗っていた。


 狼型魔導戦獣《シルバーファング》。


 西の大陸が戦場に投入した、切り札の一つだった。


 巨体が跳ねるたび、地面が割れる。

 爪が振るわれるたび、盾兵たちが吹き飛ばされる。

 戦砲の直撃を受けても、その装甲は砕けない。


「退け! 道を開けなさい!」


 ユーナの声が、戦場を裂いた。


 兵たちが振り返る。

 そこにいたのは、東の勇者だった。


 ユーナはまっすぐに走った。

 その足取りは鋭く、白銀の鎧が戦場の土煙を一直線に裂いていく。


 魔導戦獣が牙を剥いた。


 背の魔導兵が叫ぶ。


「来るぞ! 東の勇者だ!」


 ユーナは剣を抜いた。


 目に入る。

 魔導戦獣の首。

 装甲の継ぎ目。

 制御座。

 そこに乗る、人間。


 魔導戦獣だけを斬っても、操縦者が残ればまた動かされる。


 操縦者を残せば、次の犠牲が出る。

 こちらの被害は、さらに広がる。


 だから、今はただ斬り捨てることのみに全神経を研ぎ澄ます。


「……ごめんなさい」


 誰にも聞こえない声で、ユーナは呟いた。


 次の瞬間、白銀の軌跡が戦場を横切った。


 魔導戦獣の巨体が、操縦席ごと斜めに裂ける。

 装甲が砕け、魔導の光が弾け、銀の毛並みが血と土にまみれた。


 背に乗っていた魔導兵もまた、声を上げる間もなく崩れ落ちた。


 戦場が、一瞬だけ静まり返る。


「……あれが、落ちるのか」


 西側の兵が、呆然と呟いた。


 次の瞬間、東の兵たちから歓声が上がった。


「我らの勇者様だ!」

「ユーナ様が討ったぞ!」

「進め! 勇者に続け!」


 歓声の中で、ユーナは剣を下ろした。


 顔色ひとつ変えない。

 呼吸も乱さない。


 誰の目にも、彼女は完全無欠の勇者に見えただろう。


 けれど。


 剣を握る手の中には、まだ感触が残っていた。


 そこにあったのは、獣の肉体と、兵器の装甲と、人の命だった。


 ――戦闘が一段落したあと。

 ユーナは勇者専用の天幕へ戻った。


 聖女レフィーナが用意してくれた場所だった。

 兵たちの目から離れた、唯一、息をつける場所。


 ここでだけは、勇者でいなくてもいい。


 天幕の布が下りた瞬間、ユーナは膝をついた。


「っ……!」


 込み上げてきたものを抑えきれず、口元を押さえる。


 吐き気が喉を焼いた。

 息が乱れる。

 視界が滲む。


「ユーナ様……!」


 セナがそばに膝をつき、静かに背中をさすった。


「今、ここには、私しかおりません」


 その言葉に、ユーナの肩が小さく震えた。


「……斬った」


 かすれた声だった。


「私、人を斬っちゃった……」


「はい」


「獣も、兵器も、人も……全部、斬った」


「はい」


 セナは否定しなかった。

 慰めの言葉で塗りつぶすこともしなかった。


 ただ、ユーナの背をさすり続けた。


「それでも、私はあなたをお支えします」


 ユーナは答えられなかった。


 私が迷えば、その分だけ多くの血が流れる。


 そんなことは分かっている。

 分かっていても、心は消耗していく。


 完全無欠の勇者など、どこにもいない。


 それでもユーナは、レフィリアの民を守るためなら、その手を血に染めるのだろう。


 東の勇者として。


 東の民が流す血を、少しでも減らすために。


 その日の夕暮れ。


 スパインオブゴッドの上に立つ白銀の勇者の姿を、遠い森の果てから見つめていた者がいた。


 名も知らぬ、ひとりの青年。


 その視線を、ユーナはまだ知らない。

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