第30話 初雪、そして春へ
目を開けると、見覚えのない天井だった。
木の匂いがした。
湿った土の匂い。
若葉の匂い。
どこか懐かしい、森の匂い。
けれど、そこは俺の拠点ではなかった。
天井には、曲がった木の梁が見える。
壁も床も、切り出した木ではなく、樹そのものをくり抜いたような作りをしていた。
小屋、なのだろうか。
いや、普通の小屋とは違う。
まるで大樹に抱かれているような場所だった。
俺の拠点よりも、居心地がいいことは確かだ。
「……ここは」
声を出した瞬間、喉がひりついた。
体が重い。
腕も足も、まるで自分のものではないみたいだった。
左足に鈍い痛みが残っている。
ふくらはぎに巻かれた包帯が見えた。
思い出す。
黒い根。
エルダートレント。
初雪。
ベルさん。
胸の奥が、一瞬で冷たくなった。
「リュート!」
小さな声が聞こえた。
視線を向けると、リィルがいた。
いつもと変わらぬ姿で、俺のすぐ横、枕元か枕横か分からない距離で、ベッドに座っている。
その瞳には、今にもこぼれそうな涙が溜まっていた。
「リィル……か」
「よかった……目が覚めた……」
リィルが、胸の上で組んでいた俺の手にしがみつく。
小さな手だった。
でも、その力は震えていた。
「俺は……どれくらい」
「二日。丸二日、眠ってたのです」
「二日……」
記憶がはっきりしない。
そんなに経っていたのか。
体が重いはずだ。
喉が枯れているはずだ。
けれど、それだけではないのだろう。
あの時、俺の中に突然、わけの分からない力が現れて。
ただ、ベルさんを助けたい一心だった。
それから。
どうなったんだ?
全身が、ひどい筋肉痛みたいに軋んでいた。
「ここは、私たちドライアドが、管理する領域にある休息所です」
落ち着いた声がした。
フィオナだった。
俺の寝ているベッドのそばに、静かに立っている。
その表情には、疲労と安堵が混ざっていた。
「葉紋を辿りました。私の呼びかけにも応じていただけませんでしたので、いても立ってもいられず、リィルと共に向かったのです」
「フィオナが……」
「運んでくださったのは、フィオナ様たち、ドライアドのお力なのです。リィルだけでは、とても無理だったのです」
リィルは少し目を伏せた。
「私たちがあの場所に着くまで……きっと、リュート様のスキルなのでしょうね。お二方が、しっかりと魔物からリュート様を守っていましたよ」
「二人……?」
その言葉を聞いた瞬間、視線が勝手に動いた。
部屋の隅。
そこに、小さな棒人間がいた。
せん人様……では、ないようだ。
せん人様から、感じる雰囲気とは違う。
しかも、何だかめちゃくちゃ落ち着きがない。
顔はない。
表情も分からない。
じっとしていない。
部屋の中を、せかせかと歩き回っている。
棚の下をのぞき込み、壁に立てかけられた枝を持ち上げようとして、重くて落とす。
それから、また別の場所へ向かう。
せん人様が、あんなに動き回るわけがない。
もっと、ずっしりどっしりと座っているはずだ。
(あの子がせん人様ではないとなると、せん人様はいったいどこへ?)
そう思って部屋全体を見渡してみた。
やっぱりいた。
ベッドで寝る俺の足元で、頬杖をついて寝ている。
その横に、スゥがピッタリとくっ付いて静かに呼吸をしていた。
このふてぶてしい態度。
こっちが本物のせん人様だ。
となると、あの棒人間の子。
何かを探しているようだった。
「何をしてるんだ?」
俺が呼ぶと、小さな棒人間がぴたりと止まった。
顔はない。
なのに、こっちを見ている気がした。
その姿を見た瞬間、戦いで忘れていた記憶が蘇る。
途端に、胸がきゅっと締め付けられた。
俺は思わず、片手で目元を覆った。
あの子はベルさんではない。
そんなの、分かっている。
あの小さな体に、ベルさんはいない。
あの日々も。
あの声も。
あの背中も。
それでも。
落ち着きなく部屋を動き回る姿を、どこか追ってしまう自分がいた。
「何か……探しているのか?」
俺が聞くと、その子は部屋の隅にあった木の棒を拾った。
構える。
振る。
折れる。
この子は折れた棒を見下ろした。
そして、ぽいっと捨てた。
「剣……?」
ぴくりと反応する。
どうやら、当たりらしい。
リィルが目を丸くする。
「ここに来てからずっと、あんな感じだったのです。何か探してるみたいだったけど……剣が欲しかったのですね」
「剣がないと落ち着かないって、まるで……戦士みたいだ」
俺は苦笑しようとして、失敗した。
今の俺は、いったいどんな顔をしてるんだろう。
アトリエポケットには、ボーたちに使っていた道具をしまっていた。
それも、先の戦いで魔力を枯渇したためか、すべて消え去っていた。
俺は鉛のような右手で、武器の生成を試みた。
小さな剣。
あの子が持てるくらいの、小さな剣。
そう思って形を作ろうとした。
けれど、出てきたのは剣というより、短い鉈のようなものだった。
刃は少し曲がっている。
持ち手は、細い。
でも、そこは運よくあの子の手に馴染みそうだ。
見た目はかなり不格好。
「……今は、これが精一杯だ」
俺はそれを差し出した。
その子は受け取ると、じっと見つめた。
そして、ぽんと捨てた。
「捨てたのです!?」
リィルが思わず声を上げる。
俺は額を押さえた。
「いや、分かるよ……ごめんね、今の俺の画力ではそれしか作れないんだ」
その子は捨てた鉈もどきを見て、俺を見る。
顔はない。
明らかに不満そうだった。
「次はもっと上手く作るから。だから、今はそれで我慢してくれ」
そういうと、その子はしばらく動かなかった。
やがて、渋々といった様子で、捨てた鉈もどきを拾い直した。
それを小脇に抱える。
その所作に俺は目を細めた。
――少しして、俺は二日ぶりに外へ出た。
体はまだ重かった。
足も少し痛む。
けれど、歩けないほどではない。
「あれ!? 足が……思ったほど、痛くない?」
「よく気が付いたのです。リィルが、リーフ族秘伝の傷薬を塗っておいたのですよ!」
「あ、どうりで足から、つーんと鼻を突く匂いがすると思ったよ」
「はい、青ツノムシをすりつぶして作った傷薬を使ったのです」
「でた! 俺の体臭と同じ青ツノムシ……!」
「嘘なのです。青ツノムシは入ってないのですよ」
「なんだ冗談か……でも、凄く助かった。ありがとう」
「初めから、素直にそう言えばいいのです」
リィルが、少し意地の悪い顔をして見せた。
休息所の外には、春の森が広がっていた。
ここは俺が生活していた森と同じ場所か?
今まで俺が見てきた森とは、違う顔を見せている。
黒い森とは違う。
柔らかな光が差し込み、若葉が風に揺れている。
その明るさの中にも、静かな痛みがあった。
ドライアドの領域の一角。
少し開けた、見晴らしの良い場所。
そこには、小さな花が咲いていた。
白い花。
薄紫の花。
淡い黄色の花。
冬の寒さは、もう遠のきつつある。
それでも、空気にはまだ、凛とした冷たさが残っていた。
もうすぐそこに、春の匂いがした。
その場所に、ベルさんは眠っていた。
「私たちで、彼女を手厚く葬らせていただきました」
フィオナは、ぐっと何かに耐えているようだった。
「少ししか話さなかったけど、優しい……大きくて、いいヒト族だったのです」
「そう……だな」
俺は遠い目をベルさんのお墓に向けた。
「以前、何が何でも生きて、この初雪を返しに来いっていってたよな……」
胸が詰まる。
「先にベルさんが死んじゃった時は……どうやって、返せばいいんだよ」
頬に、一粒落ちた気がした。
雨かと思って、空を見上げる。
白いものが、ひらひらと舞っていた。
雪、だろうか。
買ったその日、その年ではじめての雪が降っていた。
ベルさんが、初雪の名をそう教えてくれた時の声が、ふと蘇った。
腰の剣がかすかに鳴った。
土はすでに静かに盛られている。
墓標の代わりに、古い木の枝が立てられていた。
その傍らには、ベルさんが使っていた魔導剣が突き立てられていた。
魔導晶の光を使い切った、ベルさんの剣。
最後まで、ベルさんと共に戦った剣。
俺は墓前に立った。
何を言えばいいのか。
俺なんかに、何が言えるのか。
ありがとう。
ごめんなさい。
強くなります。
どれも、陳腐でこの場にはしっくりとくる言葉ではない気がした。
どれを言っても、足りない気がした。
俺は腰にある初雪へ手を伸ばす。
これは、俺がベルさんから、生前に預かった剣だ。
この剣はお前に預ける。
そんな声が、耳の奥からかすかに蘇った。
俺は初雪を墓前へ置こうとして、手を止める。
いや、まだ返せない。
未熟な俺が、一人前になる。
その日まで、ベルさんから託された剣だ。
いつか。
この剣を、胸を張って返せる日まで。
俺は初雪を握り直した。
そして、墓標の前で深く首を垂れた。
「行ってきます……!」
それだけ言った。
風が吹いた。
花が小さく揺れる。
返事はない。
けれど、それでよかった。
フィオナが、静かに口を開いた。
「黒く染まっていた領域にも、春の芽吹きがありました」
「芽吹き……?」
「はい。黒く沈んでいた土から、小さな緑が。エルダリア様を失ったことは、三樹霊の一柱を失った森にとって大きな痛みです」
そう話す彼女の表情に、陰りが見えた。
「それと……ベルヴェット様のことも……」
フィオナは目を伏せる。
「こんな時に不謹慎ですし、これでベル様の償いになるとは思っていません」
その声には、やり切れない思いが溢れていた。
「以前お話ししたお礼です。リィルに手渡してありますので、後で使い方と一緒にもらってください」
「ありがとうございます。大丈夫です……その償いは、これから俺が背負っていきますから」
「リュート様……ごめんなさい」
ふり絞るような声で、フィオナは言った。
「ですが、悲しいことばかりではありません。黒き大地の淀みもまた消え去りました。森は……また、きっと息づくでしょう」
そうか。
森は、まだ生きている。
その言葉が、胸に残った。
ベルさんはいない。
エルダートレントたちもいない。
それでも、春は来る。
芽は出る。
森は、次の季節へ進んでいく。
(なら、俺は……?)
俺も、ここに留まったままではいられない。
「俺は……森を出ます」
言葉は、思っていたより静かに出た。
リィルが俺を見上げる。
「森を……出るのです?」
「ああ。強くなるために。ちゃんと外の世界を見て、もっと力をつけたい」
ベルさんに守ってもらった。
せん人様にも、迷惑をかけた。
リィルに、スゥに、ボーたちに助けられた。
俺はいつも、誰かに守られてばかりだ。
(でも、強くなるって約束したから)
「俺は、強くならないといけないから……」
リィルはしばらく黙っていた。
そして、小さな拳を振り上げた。
「リィルも行くのです!」
「え……?」
「リィルも、リュートと一緒に行くのです!」
即答だった。
「いや、リィルはこの森の住人でしょう。外に出たら危ないんじゃないか」
リィルは静かに耳を傾けている。
時折、尖った耳がピクピクと動いた。
「珍しい種族だってばれたら、捕まるかもしれない。今の俺じゃ、リィルを守りきれない」
そういうと、リィルは少しだけ困ったように笑った。
「それなら、きっと大丈夫なのですよ。でも、念のためひとつお願いがあるのです」
「お願い?」
「里に、一度寄ってほしいのです」
リーフ族の里。
俺にとって、三度目の訪問になる場所。
森を出る前に一度、別れの挨拶にとは考えていた。
どちらにしても、森を出る日はそう遠くない。
その日のうちに、フィオナから旅立ちの餞別をもらった。
数日分の水と食料。
もしもの時の薬草などをもらった。
俺はそれらをアトリエポケットにしまった。
(このスキル、頑張って使えるようになったんだよ……)
ベルさん。
――しばらく、小屋で休ませてもらった俺が、出発したのは翌朝だった。
フィオナに別れを告げ、俺はリィル、せん人様、スゥ、それと俺の新しい仲間と共に休息所を後にした。
俺の意思とは無関係にそこに在り続ける棒人間。
俺のスキルの枠から外れた異端の存在。
俺はその子に、【ベル】と名付けた。
それ以外の名前は、思いつかなかった。
ベルはせん人様とは違って、忙しなく、そして荒々しい。
(まったく、いったい誰に似たんだか)
全身バキバキのまま、肩にリィルを乗せ、俺たちはリーフ族の里を目指す。
道中、リィルが何度か負傷した足に薬を塗ってくれた。
「あれだけの大怪我が、たった数日で普通に歩けるようになるって……どれだけ凄い薬だよ」
「えっへん! リーフ族の秘伝の万能薬、とても貴重なのです」
リィルは俺の肩の上で、誇らしげに胸を張っている。
その元気な姿が、今の俺には眩しく映った。
――リーフ族の里に着いた時、俺は言葉を失った。
小さなリーフ族たちが、里の入り口に集まっていたからだ。
フィオナが先に知らせていたのだろうか。
長老も、他のリーフ族たちも、俺たちを迎えるように並んでいる。
俺は、どうしていいか分からなかった。
「森を救ってくださった方々よ」
長老が、深く頭を下げた。
それに続いて、リーフ族たちも一斉に頭を下げる。
英雄。
そんな言葉が、どこかから聞こえた。
俺は、胸が苦しくなる。
俺は英雄なんかじゃない。
俺は、ベルさんに救われて。
そして、生かされただけ。
そう言いたかった。
けれど、誰も俺を責めなかった。
誰も、俺の弱さを責めなかった。
ただ、リーフ族たちは祈るように頭を下げていた。
この光景が俺にはいたたまれなくて。
気が付くと、その言葉が口をついていた。
「この森を救った英雄は、ベルヴェット・クロウゼン……彼女です」
長老も里の人々も、黙って俺の言葉を聞くだけだった。
森を失った痛み。
森が救われた安堵。
ベルさんへの哀悼。
それから、リィルが前に出た。
「長老様!」
「うむ」
「リィルは……リュートとこの森を出たいのです」
長老は驚かなかった。
静かにリィルを見つめている。
「そうか……いつか、そう言い出すのではないかと思っておった」
「……怒らないのです?」
「怒らぬよ」
長老は静かに笑った。
「この里一のお転婆で、いつも外の世界のことばかり聞いてくる子じゃったからのう、そうか……旅立つのか」
長老はどこか寂し気に、遠い目をした。
「うん。リュートと一緒に行きたい。リィルも、森の外の世界を見てみたいのです」
リィルは小さく頷いた。
「ならば、そのままではいかんのう。ほれ、餞別じゃ。持っていきなさい」
長老が合図をすると、一人のリーフ族が小さな箱を持ってきた。
箱の中には、宝玉の付いた小さな腕輪があった。
美しい翡翠色の光を宿した、小さな宝玉がはめられている。
「この里に、三樹霊の方々が残して下さったと言われる、宝玉のひとつじゃ」
長老が言う。
「外界では、リーフ族の姿は目立ちすぎる。これを身に着けていればリィルの大きさを、ある程度まで自在に変えられる」
「大きさを……?」
俺が思わず聞き返す。
長老は頷いた。
「人間の世界には、エルフと呼ばれる長命な種族もおってな。姿を少し変え、大きさを合わせれば、リーフ族とは気づかれにくいじゃろう」
「それは……凄いですね」
「本来なら、里の外へ出る者にしか渡せぬもの……」
長老は、リィルへ宝玉を差し出した。
「行ってきなさい、リィル。だが、忘れるな。ここは、いつでもそなたの帰る場所じゃ」
リィルの目に涙が浮かんだ。
「うん……!」
――別れを済ませ、俺たちは里を後にした。
里の外へ出てから、リィルは腕輪を身に着けた。
淡い光が、リィルの体を包む。
小さかった体が、ゆっくりと大きくなっていく。
さっきまで俺の膝ほどだった背丈が、お腹のあたりまで伸びる。
やがて、人間の少女くらいの大きさになった。
リィルは自分の手を見て、足を見て、それから俺を見上げた。
「大きくなったのです!」
「……本当に大きくなったな」
「これでリィルも、巨人の仲間入りなのです」
その声は弾んで聞こえた。
スゥがぷるんと跳ねる。
ベルは、少しだけリィルを見上げた。
そして、自分の背丈と比べたのか、不満そうにぽこっと木を叩いた。
「ベルは大きくなれないよ」
俺がそういうと、ベルは鉈もどきを振り上げた。
「ごめんごめん、ベルはまだ育ち盛りだ。これからだから、きっと大丈夫!」
ベルは、うんうんと満足げに鉈もどきを下げた。
不安定な頭がコクコクと揺れている。
リィルがくすりと笑った。
久しぶりに、少しだけ空気が軽くなった気がした。
それから俺たちは、一度拠点へ戻った。
半月ぶりくらいだろうか。
家の中は、少し殺伐としていた。
森の中に作った、俺の家。
初めて来た時は、ただの枯葉置き場だった。
雨風もしのげない場所だった。
けれど、少しずつ、そこは俺の拠点になっていた。
ボーたちと過ごした場所。
せん人様が陣取った場所。
スゥがぷるぷると跳ね回った場所。
ベルさんに剣を教わった場所。
リィルとも食事をした場所。
家の中は、少し広く感じた。
(リィルが大きくなったのにどうして……?)
その答えは、胸の痛みがもう知っていた。
出発の準備をしながら、俺は久しぶりにステータスを開いた。
文字が、淡く浮かぶ。
レベルは、10。
上限も、10。
数字はそこで止まっている。
そういえば。
以前、ベルさんが上限を解放できる者がいると言っていた。
俺も上限を突破できるのだろうか。
(すべてはこれから……ということか)
スキル欄にも、変化があった。
棒人間召喚の持続時間が、120秒に伸びている。
アトリエポケットの容量も、5つに増えていた。
そして。
常時顕現。
せん人様。
ベル。
その文字を見た瞬間、呼吸を止めた。
ベル。
短い名前だった。
ただ、それだけで十分。
さらに、見慣れない文字もある。
剣技 Lv2
俺は、その文字をしばらく見つめた。
ベルさんが確かにそこにいた。
俺が活かせなかった剣。
俺が信じ切れなかった剣。
それでも、ベルさんが俺の中に息づいている。
俺はステータスを閉じた。
初雪を腰に差す。
数日かけて拠点まで戻ってくるのに、フィオナにもらった水と食料は、かなり使ってしまった。
消費した分を、再び調達してアトリエポケットへ入れる。
ベルには、不格好な鉈もどきを持たせる。
相変わらず、ベルの鉈もどきからは、じわじわと魔力が吸われている。
だが、その疲労感は葉紋のおかげか、以前ほどではない。
「そういえば、フィオナ様からリュートに渡すものを預かっていたのです」
リィルが思い出したように、口を開いた。
「渡すもの?」
「はいなのです。フィオナ様は今回のお礼だと言っていたのですよ」
「あ、バタバタしててすっかり忘れてた。で、彼女は何をくれたんだ?」
「聞いておどろけです! なんと……」
その後しばらく、リィルのよく分からないアイテムの説明がダラダラと続いた。
まとめると、もらったアイテムは二つ。
ひとつ目は、【深緑の鍵枝】。
これは、リィルの演説を聞いてもさっぱり分からなかった。
というか、リィル自身も詳しく聞かされていないようだった。
ただ、ひと言だけ。
「次にリュート様が、この森を必要とされた時、きっとお役に立つでしょう」
だそうだ。
ふたつ目は、【宿り木の種】というアイテムだ。
聞くと、このアイテムがすごい。
なんでも、この木の種は少し魔力を流すとすくすくと育ち、やがては寝泊まりできる家へと早変わりするだとか。
片付けたい時には、再び外の木に魔力を流せば元通りになるんだそうだ。
リィルがいうには、魔物や生き物に見つかりにくいおまじないが施されているらしい。
これまでの、俺の森での家づくりライフを全否定するかのような、素晴らしいアイテムだ。
もっと、早くに出会いたかった。
――俺は、軽い持ち物で旅支度を済ませた。
「……行こう」
はじめは何もなかった雨除けの場所。
それが、今や寒さもしのげる立派な俺たちの家。
故郷のごとく、慣れ親しんだその家を後にした。
リィルが隣を歩く。
代わりに、スゥが肩に乗った。
せん人様は、いつも通りだ。
ベルは落ち着きなく、足元を駆け回っている。
優しい春の森を歩く。
風が柔らかい。
木々の隙間から、光が降っている。
寒かった森は春へ向かい、若い緑を芽吹かせている。
森は、まだ大丈夫そうだ。
これから、俺たちは森を抜ける。
強くなるために。
もっと広い世界を見るために。
そして。
ベルさんに、胸を張ってここへ帰ってこられるように。
やがて、木々が途切れた。
視界が、急に開ける。
俺は足を止めた。
そこに広がっていたのは、森ではなかった。
どこまでも続く平原。
春の風に草が揺れている。
左手には、広大な海にも似た銀色の大河が流れていた。
そのさらに遠く、大河をまたぐように巨大な橋がかけられている。
「あれはスパイン・オブ・ゴッド。神の背骨と呼ばれる大橋なんだって。昔、長老様に本で教えてもらったことがあったのです」
「スパイン・オブ・ゴッド……本当に壮大な橋だ」
「東西の大陸を繋ぐ、唯一の大橋。長老様はそう言っていたのです」
その大橋の周辺に、無数の影が集まっていた。
あれは、人か。
いや、軍勢だ。
東と西。
理由も、名前も、俺には分からない。
けれど、そこでは間違いなく、人と人が向かい合っていた。
次の瞬間。
平原の一角で、光と土煙が弾けた。
軍勢が動く。
金属のきらめきがぶつかり合う。
遠く離れているのに、地鳴りのような響きがここまで届いた。
森を抜けた先にも、弱肉強食の世界が広がっていた。
ただ、その形が違うだけだ。
その戦場の中で、一つの影が動いた。
華奢な、女の将らしき影。
遠すぎて、顔までは分からない。
それでも、その存在だけは異様だった。
彼女が動いた場所から、戦線がみるみる押し返されていく。
まるで、高波が押し寄せるかのように。
俺は、ただ茫然と見ていることしかできなかった。
森の中で、俺は必死に生きてきた。
あそこが、俺の世界のすべてだった。
でも、違った。
世界は、こんなにも広い。
こんなにも大きくて。
こんなにも残酷で。
俺の知らないものばかりで満ちている。
まだ、俺は何も知らない。
「行こう」
初雪の柄を握り直す。
俺は、春の平原へ一歩を踏み出した。
これにて、第1期「境界の森編」は完結です。
次は「ヴェールデン編」となりますが、開始時期は未定です。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。




