第28話 漆黒の中心へ
夜が明けた。
火は、ほとんど消えかけていた。
灰の下に、わずかな熱が残っている。
俺はその前で、手の甲を見下ろしていた。
淡い緑の線で刻まれた葉紋。
リィルとの縁に、フィオナの加護が重なった証。
昨日、この葉紋を通して、フィオナの声が届いた。
黒蝕樹を止めてほしい。
それが、彼女の願いだった。
止める。
その言葉が、何を意味するのかは分かっている。
救えるのなら救いたい。
話ができるなら話をしたい。
でも、もしそれが叶わないのなら。
俺たちは、黒蝕樹となったエルダートレントを止めなければならない。
「……本当に行くんだな」
背後から、ベルさんの声がした。
振り返ると、ベルさんはすでに支度を終えていた。
魔導剣を腰に差し、外套を締め直している。
その表情は、昨日よりも硬い。
「はい」
俺は頷いた。
ベルさんは、しばらく俺を見た。
「今なら、まだ引き返せる」
ベルさんは、俺を責めているわけじゃない。
突き放す冷たさもない。
ただ、本当にそれでいいのかと、最後に俺の覚悟を問うているかのようだった。
「……行きます」
俺は答えた。
「……そうか」
ベルさんは短く息を吐いた。
「なら、腹を決めろ。ここから先の相手は、お前が逃げるまで待っちゃくれない。戦う覚悟を決めたなら、最後まで戦い抜け!」
「はい」
「ならば、返事ではなく、その行動で見せてみろ」
「はい!」
まったくもって、ベルさんの言う通りだ。
俺は葉紋に意識を向ける。
昨日の感覚を思い出しながら、手の甲に意識を集中させた。
淡い緑の紋様が、ゆっくりと光を帯びる。
フィオナ。
『……リュートさん?』
頭の奥に、彼女の声が届いた。
「フィオナ。俺たちは、行きます」
ほんの少しの間があった。
『……そう、ですか』
彼女の声は震えていた。
それでも、彼女は引き止めなかった。
『ありがとうございます。どうか……どうかあなた方に大精霊エルムフォレスティアのご加護が、あらんことを……』
「はい」
『黒蝕の大地に漂う澱みに、決して心を惑わされないでください。あれは、あなた方自身の恐れを増大させます』
「分かりました」
『それと……これは私の願いです。必ずお二人そろって生きて戻られることを、最優先に考えてください。くれぐれもご無理はなさらないように……』
「……はい」
俺が答えると、葉紋の光が弱まった。
フィオナの声が遠のいていく。
俺は手を下ろした。
「終わったか」
「……はい」
「行くぞ」
ベルさんが歩き出す。
スゥは、せん人様の頭の上にいた。
昨日は何かから逃げるようにそこへ避難したスゥだったが、今日は最初からその場所に収まっていた。
ぷるぷると震えているが、逃げているだけではない。
どこか、身構えているようにも見えた。
「スゥも、何かを感じ取っているのかもしれない」
スゥはぷるんと小さく揺れた。
俺は、意を決して歩き出した。
そして、再びトレントの黒蝕領域へ踏み入れた。
昨日と同じ黒い土。
灰のように柔らかい地面。
生きているのか死んでいるのか分からない木々。
今日はさらに深く進むことになる。
一歩踏み込むたびに、空気が重くなる。
肺に入る空気が、気持ち悪いほどにざらつく。
嫌な場所だ。
だが、今日は簡単に引き返すわけにはいかない。
中心へ向かう。
黒蝕樹エルダートレントのいる場所へ。
せん人様は、いつものように無言だった。
黒い森へ入ってしばらく進んだ後、トコトコと俺のそばまで歩いてきた。
そしてスゥを頭に乗せたまま、光る右手で俺の横腹の辺りを、ぽんぽんと叩いた。
「せん人様……?」
その手に叩かれる度、頭の奥にまとわりついていた嫌なざわめきが、ほんの少し遠のいた気がした。
完全に消えたわけじゃない。
けれど、さっきよりも呼吸がしやすい。
「ありがとうございます」
俺が言うと、せん人様は何事もなかったように、すんと前を向いた。
せん人様は、ベルさんにも同じようにぽんぽんとしていた。
せん人様なりの、何かのおまじないだろうか。
不思議な光景だった。
相変わらず、その行動は読めない。
――しばらく進むと、森の様子が変わった。
黒い根が、地表に浮き出ている。
それは蛇のようにうねりながら、周囲の木々へ絡みついていた。
絡みつかれた木は、葉を失い、幹を細らせている。
まるで、内側から何かを吸われているみたいだった。
「これじゃまるで……黒い大蛇みたいだ」
「もうこの辺りは、手遅れかもしれないな」
「大地が生きているみたいに脈打ってる」
「最悪の事態にならないことを、祈るばかりだ」
ベルさんが言った。
(そうだ、最悪のケースが起きたとしてもフリーズしないように、今のうちにできる限りのことを考えろ)
今、俺が何をすべきか整理した。
自分が戦う。
ボーたちを呼ぶ。
全体の戦況を見る。
それらを全部同時に行う必要がある。
それにもうひとつ、俺には考えなければならないことがある。
ボーたちの召喚時間だ。
(全員を同時に呼ばないように……)
それは前の戦いで学んだことだった。
ボー、ヒョロ、ガーリを一斉に出せば、一瞬の手数は増える。
けれど、同じタイミングで消えたら、その瞬間、俺の前から前線が消える。
だから、意図的にずらす。
出すタイミングをずらす。
つまり、消えるタイミングを俺がずらす。
戦う。
数える。
指示を出す。
また数える。
戦いながら考えることが山ほどある。
それでも、やるしかない。
「見えたぞ……」
ベルさんの声で、俺は顔を上げた。
森の奥。
黒い木々の向こうに、巨大な影があった。
最初は、山かと思った。
いや、違う。
それは、一本の樹だった。
幹は漆黒。
表面には、血管のような黒い筋が走っている。
太すぎる幹。
空を覆うような枝。
地面へ広がる無数の根。
周囲の黒い木々から伸びた根が、その巨木へ集まっている。
逆に、巨木から伸びた黒い根が、周りの木々を縛り上げているようにも見えた。
あれが。
黒蝕樹。
「エルダートレント……」
俺はつぶやいた。
フィオナたちは、古代樹様と呼んでいた。
森の均衡を守る、三樹霊の一角。
けれど、目の前にいるそれに、森を守る存在の面影はなかった。
森を支えているのではない。
森から吸い上げている。
そう見えた。
俺は遠くへ、声を張った。
「エルダリア様!」
返事はない。
「フィオナから頼まれて来ました。話をしましょう!」
黒い森に、俺の声が響いた。
風はない。
鳥の声もない。
何も返ってこない。
ただ、巨大な枝が、ぎしりと動いた。
「――っ!」
黒い枝が、こちらへ振り下ろされた。
「下がれ!」
ベルさんが俺の肩を掴み、強引に後ろへ引く。
直後、さっきまで俺が立っていた場所に、黒い枝が叩きつけられた。
土が跳ねる。
地面が割れる。
俺は息を呑んだ。
話をしよう。
そう言ったつもりだ。
それでも、返ってきたのは対話ではなく、無慈悲な暴力だった。
ベルさんが剣を抜く。
「奴にはもう、届いていなさそうだ」
「戦うしか……ないのか」
「ああ、どうやらそのようだ……覚悟を決めろ」
ベルさんが低く言った。
その瞬間、せん人様が前に出た。
小さな体。
棒人間の姿。
それでも、その背中には底の見えない圧があった。
せん人様が、地面を蹴る。
黒い幹へ向かって、小さな影が走った。
ドスンッ!
強烈な一撃が、大樹の幹に突き刺さる。
その幹が、ミシミシと音を上げ、大きくしなる。
同時に、ベルさんも駆ける。
魔導剣に雷が走った。
青白い光が、刃の上を弾ける。
「まずは、一撃!」
ベルさんの初撃が、エルダートレントの幹へ叩き込まれた。
雷が走る。
黒い幹の表面を裂くように、眩い光が広がる。
だが。
雷は、幹の奥へは沈まなかった。
黒い根を伝い、大地へ逃げるように拡散していく。
ベルさんが舌打ちした。
「アタシの属性が通りにくい。根を張る相手には相性が悪いか」
「相性……」
「今は戦いに集中しろ。来るぞ!」
エルダートレントの幹が、ぎしりと鳴った。
次の瞬間、周囲の黒い木々が動いた。
いや、木じゃない。
トレントだ。
黒く染まった仲間のトレントたちが、ゆっくりと根を引き抜くように動き出す。
枝が腕のようにしなり、根が触手のように地面を這う。
さらに、森の奥から低い唸り声が聞こえた。
狼型の魔獣。
以前見たものに似ている。
けれど、何か違う。
体には黒い筋が走り、目は濁り、口元から黒い涎のようなものを垂らしている。
「以前戦った魔獣に似ている……だが、こいつらはあれより狂っているように見えるな」
ベルさんが吐き捨てるように言った。
エルダートレント単体なら、まだ何とかなるかもしれない。
そんな甘い考えは、一瞬で消し飛んだ。
ここは、奴の領域だ。
黒蝕樹は、自分一体だけで戦う必要がない。
周りの魔獣も。
黒く染まったトレントも。
この森そのものを使ってくる。
ここから、乱戦は必至か。
「ボー!」
俺は地面に指を走らせた。
ぽんっ。
「右の魔獣を止めろ!」
さらに、ほぼ同時に左手でアトリエポケットから、予め生成しておいた不格好な鉈を取り出す。
召喚と生成の両手同時並行。
俺は要領も悪いし、特別な人間じゃないから。
こんな日のために、何度も、何度も繰り返し練習をした。
本当なら刀を作るつもりだったが、今の俺にはこれが限界だ。
それをボーに託す。
ボーが駆ける。
すぐにヒョロを呼びたくなる。
でも、まだだ。
今、一緒に呼べば、同時に消える。
数拍、待つ。
永遠にも感じる長い時間。
その間にも、ボーが魔獣の前へ飛び込む。
狼型の魔獣が牙を剥く。
その横から、別の魔獣が俺へ回り込もうとした。
「ヒョロ!」
ぽんっ。
続けて、消さずに維持していたアトリエポケットから、鍋蓋のような盾を取り出してヒョロに託す。
飛びかかってきた魔獣を、細い体で受け止めた。
見た目に反して、ヒョロの細い腕は魔獣の突進を押し留めていた。
魔獣の突進が、わずかに止まった。
「ガーリはまだ……」
温存する。
足止めが必要な瞬間まで。
焦る。
焦るな。
しっかり数えろ。
ボーの残り時間。
ヒョロの残り時間。
次にどこから敵が来る。
ベルさんは魔獣の一体を斬り伏せていた。
だが、すぐに別の唸り声が森の奥から近づいてくる。
少しずつではあるが、倒している。
なのに、魔獣は減っていない。
エルダートレントの意思に導かれるように、新たな魔獣が現れた。
せん人様はエルダートレント本体へ迫っていた。
黒い根がせん人様へ襲いかかる。
せん人様はそれを片手でいなし、もう片方の手で黒蝕トレントの幹を叩いた。
幹の一部がバリバリと音を立てて吹き飛ぶ。
さっきの攻撃もだが、明らかに強い。
桁違いのせん人様の攻撃は届いているはずだ。
でも、倒れない。
抉れた幹の断面から黒い筋が伸び、傷口を塞いでいく。
さらに、せん人様が黒蝕トレントの一体を潰そうとした瞬間、別の黒蝕トレントが枝を伸ばして割り込んだ。
仕留める直前で、攻撃の芯を外される。
潰しかけた一体が下がる。
別の二体が前を塞ぐ。
その間に、下がった一体の幹が再生していく。
やはり、せん人様は別格に強い。
けれど、黒蝕トレントたちは、せん人様の強さを正面から受けない。
致命傷を避ける。
それ以外がカバーする。
受けた箇所が再生する。
倒しきれない。
「くそ……!」
俺は歯を食いしばった。
目の前の魔獣が、ヒョロの腕をすり抜けるように横へ跳ぶ。
今だ。
「ガーリ!」
俺は三体目を描いた。
ガーリが現れ、地面を這う黒い根に飛びつく。
振り飛ばされそうになりながらも、必死にしがみつく。
ボーたちが、連携で作った隙。
俺自身が、今使える戦力で作った一瞬。
俺は初雪を握り直した。
「う、ああああっ!」
弱々しい声が出た。
でも、これが今の俺の精一杯だ。
魔獣の横腹へ、初雪を叩き込む。
刃が肉に入る感触。
固い。
重い。
気持ち悪い。
それでも、振りぬく。
魔獣が悲鳴を上げて崩れる。
「倒した……!」
俺は息を荒くした。
倒せた。
(俺でも、倒せた!)
俺でも、戦える。
そう思った瞬間だった。
「リュート!」
ベルさんの声が飛ぶ。
横から、別の狼型魔獣が飛びかかってきていた。
完全に虚をつかれた。
俺は倒せたことに、浮足立っていた。
ボーたちの残り時間。
(上手くコントロールできていたと思っていたのに……)
横の死角。
「しまっ――」
間に合わない。
ぷるんっ。
その瞬間、桃色の影が、俺の横で跳ねた。
さっきまで、せん人様の頭の上で震えていたはずのスゥだった。
スゥの体の一部が、にゅるりと伸びる。
先端が薄く、平たく変わっていく。
刃。
いや、違う。
あれは。
「……包丁!?」
俺が拠点で作った、料理用の包丁。
木の柄と、不格好な刃。
何度も使って、何度も見せた、あの形。
スゥが作ったそれは、よれよれだった。
刃も歪んでいる。
武器と呼ぶには頼りない。
不本意だが、俺の包丁を完全に再現していた。
次の瞬間。
しゅっ。
狼型魔獣の胴体が、音もなく裂けた。
魔獣が地面へ落ちる。
上半身と下半身が、ずれて倒れた。
俺は息を忘れた。
「スゥ……それ、俺が作った包丁か?」
スゥは答えない。
ただ、ぷるぷると震えながら、包丁のような刃を構えていた。
怖いのに。
震えているのに。
戦ってくれている。
「ありがとう、スゥ!」
その直後、エルダートレントの枝が低く鳴った。
黒蝕トレントの一体が、動きを変えた。
それまでせん人様を妨害していた一体が、ゆっくりと向きを変える。
狙いは、スゥだった。
「スゥ、下がれ!」
スゥが跳ねる。
黒蝕トレントの枝が鞭のように伸びる。
スゥの包丁が、それを切った。
すぱん、と枝が落ちる。
けれど、切った断面から黒い筋が伸び、落ちたはずの枝の根元が再び膨らんでいく。
再生している。
スゥがもう一度斬る。
幹を裂く。
根を断つ。
けれど、再生が止まらない。
「核か……!」
ベルさんが叫んだ。
「奴らが芯まで魔物と化しているなら、どこかに核がある。それを潰さない限り、やつらの動きは止まらない!」
「核……魔水晶ですか!」
「そうだ……!」
黒蝕トレントは、幹や枝を切っても何度でも元に戻る。
中のどこかにある核を叩かない限り、止まらない。
(ならば、それはきっとエルダートレントも同じか……)
もし、魔物と同じ仕組みなら、あの巨大な幹の奥にも、必ず核がある。
(だが、どうやってそこまで攻撃を当てればいい?)
ベルさんの雷は彼らと相性が悪そうだ。
せん人様は黒蝕トレントに警戒されている。
スゥもトレントを盾に邪魔され、魔獣を倒してからは、ずっと足止めされる。
ボーたちにも時間制限がある。
(そして俺は……)
一体は倒せた。
けど、そのあとが思いつかない。
(俺はどう動けばいい?)
どうすれば、仲間が戦いやすくなるんだ。
戦場が、広すぎる。
ボーの輪郭が薄くなる。
消える。
その寸前、俺はもう次の線を描き始めていた。
ぽふんっ。
すかさず、召喚。
ぽんっ。
再びボーが前に出る。
ボーを呼んだ直後、身体が重くなる。
でも、呼ばないと前線に穴ができる。
ヒョロの残り時間も短い。
ガーリはまだ動いているが、黒い根に絡まれている。
全体の戦況を見る。
残り時間を数える。
次の召喚を描く。
息が上がる。
目が霞む。
手が震える。
戦局は拮抗しているように見える。
でも、押し返せていない。
一体倒しても、森の奥から別の魔獣が現れる。
黒蝕トレントを切っても、潰しても、また再生する。
エルダートレント本体は、そこにいるだけで戦場を支配している。
これは。
まずいかもしれない。
一度、引いた方がいいのか。
ベルさんに、一時撤退を申し出るべきか。
(いや、まだだ……!)
まだ、前線が崩れたわけじゃない。
せん人様。
ベルさん。
スゥだって。
俺も、一体倒せた。
まだ、やれるはずだ。
ここから、立て直せばいい。
そう思った時だった。
狼型魔獣が、急に後ろへ跳んだ。
「……え?」
黒蝕トレントの枝も、わずかな間、動きを止めた。
そして、土により深く根を下ろす。
さっきまで続いていた唸り声。
枝の軋む音。
根が地面を這う音。
それらが、嘘のようにふっと消えた。
戦場に、不自然な静寂が落ちる。
ベルさんの目が見開かれた。
「何か来るぞ!」
その声と同時に、地面がうねった。
黒い大地が、波打つ。
立っていられない。
足元が盛り上がり、沈み、横へ流れるように歪む。
半径五十メートルほどの地面そのものが、生き物の腹のようにぐにゃりと動いた。
「うわっ!」
俺は踏ん張ろうとした。
だが、足が安定しない。
ガーリが俺のサポートに近寄ろうと試みる。
しかし、ガーリの体もグラグラと揺さぶられた。
ベルさんも、たまらず体勢を崩す。
せん人様でさえ、ほんのわずかに動きが止まった。
その一瞬の隙を、黒蝕樹は逃さなかった。
地面の下から、鋭い黒い根が走った。
見えた時には、もう遅い。
エルダートレント本体から伸びたその根が、地面を突き破り、俺の左足へ迫る。
「――!」
声にならなかった。
黒い根が、俺のふくらはぎを貫いた。
次の瞬間。
想像を超える激痛が、足から全身へ突き抜けた。




