第26話 帰らぬ者たちの道
「一度、拠点に戻るぞ」
ベルさんは、短く言った。
俺は、リィルやフィオナたちに軽く挨拶をして、里を後にした。
その日のうちに拠点へ戻り、旅支度を整える。
食料。
水。
毛皮。
初雪。
それから、俺の生命線である仲間たち。
頼りない荷物だった。
けれど、俺にとっては、それが今ある全部だ。
「ここから先は、散歩じゃない」
「帰るまでが遠足、みたいなやつですね」
「何を言っているか分からんが、お前の頭がお花畑なのは伝わった」
「ここに帰ってくるまで、気を抜くなということですよね?」
「そうだ。冒険者の死因は、何も魔物との戦いだけじゃない」
「え……?」
「帰り道で気を抜いたやつも死ぬ。そういう奴を、アタシは何人も見てきた」
「……肝に銘じます」
そんなやり取りをしながら、俺たちは床に就いた。
――翌朝。
俺たちは、拠点を出た。
目指すのは、トレントの領域の入り口。
大森林エルムフォレスティアの、さらに奥。
リーフ族の里よりも、もっと北へ進んだ先にある場所だ。
ベルさんの話では、道を間違えれば一ヶ月歩いても、たどり着けない可能性すらあるという。
俺はその説明を聞いた瞬間、葉紋を拝んだ。
「リィル、フィオナ、本当にありがとう……」
「まだ着いてもいないぞ」
「感謝の先払いです。その方がきっとご利益があるはず」
「そういう罰当たりなやつが、得てして神罰に遭う」
ベルさんの言葉は冷たい。
だが、これで俺の背筋はちゃんと伸びた。
――そして一日目。
フィオナが強化してくれた加護。
道を教えてくれるわけではなかった。
それは、リィルがくれたものとほとんど一緒だ。
右へ行け。
左へ曲がれ。
当然、そういう親切な機能はない。
何となく、進むべき方向はこっちだと導いてくれた。
既視感とでもいうのだろうか。
初めて歩くはずの道なのに、以前にも通ったことがあるかのように感じられる、そんな感覚を覚えた。
「これは……ありがたいですね」
「森で迷わないだけで、目的地までの到着が早まる」
「これがあれば、前も道に迷わなかったのに……」
「お前はあっても迷っただろう」
「変に既視感のある会話ですね」
ボー、ヒョロ、ガーリは、必要な時に呼び出した。
繰り返し出すには、かなり疲れる。
今回は長期戦だ。
体力の温存も考えて、呼び出す回数は最低限に留めた。
けれど、短い時間でも、三体がいると心強い。
あと、これは何となく思ったことだが、フィオナがくれた加護の効果があったようだ。
召喚や生成のときに以前のような身体の重さを感じにくくなった気がする。
スゥは足元をぷるぷると進み、せん人様は相変わらず何を考えているか分からない顔で歩いていた。
今回はせん人様が来てくれて、本当によかった。
戦いに参加してくれるかはさておき、いてくれることが心強い。
――二日目の夜。
狼型の魔獣に襲われた。
眠りかけた意識を、ベルさんの鋭い声が叩き起こした。
飛び込んできた牙。
揺れる火。
夜の森に響く唸り声。
俺は寝起きだったし、細かいことは、正直あまり覚えていない。
俺も、初雪で一体だけ倒せた。
手は震えた。
足も震えた。
勝ったというより、必死に生き残ったという記憶しかない。
それでも、初めて自分の手で越えた一線だった。
戦闘が終わったあと、遠くで淡い光が一瞬、瞬いた気がした。
前にも見たことのある、黄金に近い光。
せん人様なのか。
それとも、ただの見間違いか。
それは守ってくれていたのか。
散歩していただけなのか。
どちらもありそうだから、あの人……いや、あの棒は困る。
――三日目。
道中で冒険者の痕跡を見つけた。
最初に見つけたのは、錆びた剣だった。
木の根元に、半分くらい土に埋もれるようにして倒れている。
柄は朽ち、刃は赤黒く錆びていた。
その近くには、破れた荷袋。
割れた小瓶。
そして、欠けた頭蓋骨。
俺は、足を止めた。
誰かが、ここでその生を終えた。
魔獣に襲われたのか。
迷って力尽きたのか。
仲間を逃がすために残ったのか。
分からない。
分かるのは、その誰かが、ここから帰らなかったということだ。
「……冒険者、ですか?」
俺が聞くと、ベルさんはほんの少し黙った。
「おそらくな……」
その声は、いつもより低かった。
「こんな奥地まで来る人、いるんですね」
「ここまで奥地へ来られる冒険者は、そう多くはない。だが、たどり着いても、帰って来られない者は多い」
「ベルさんは、たどり着けてるじゃないですか」
「アタシもよほどのことがない限り、ここまで踏み込むのはごめん願いたい」
その表情は険しい。
「この森に安全なところはない、ということですね?」
「森の浅いところなら、そこまでの危険はない。だが、ここは森の入り口とはわけが違う」
「俺たちも一歩間違えれば、こうなるということですか?」
「そうだ。その躯からは、生き残るために学べることがある」
俺は、錆びた剣を見る。
その剣を持っていた人は、どういう人だったのだろう。
強かったのか。
弱かったのか。
誰かに頼られていたのか。
それとも、孤独だったのか。
何も分からない。
けれど、その人は確かにここまでやって来た。
そして、戻ることはなかった。
ベルさんは静かに周囲を確認した。
使えそうなものがないか、慎重に探していく。
俺の胸に、かすかな痛みが走った。
他人の遺品に手を伸ばす。
それは、死体漁りではないか。
「ベルさん、それは……」
そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
綺麗ごとばかりで生きられる森ではない。
ここで拾えるものがあるなら、それは俺たちの命につながる。
そもそも、ベルさんがそんなことを望んでやっているわけがない。
俺たちが生き残るために、決まってるじゃないか。
戻れなかった誰かの道を、俺たちはまだ進まなければならない。
そのさらに先へ。
俺は両手を合わせた。
「……すみません。使えるものがあれば、使わせてもらいます」
ベルさんは何も言わなかった。
ほんの少しの間、目を伏せた。
結局、使えるものはほとんどなかった。
丁寧に革袋の奥にしまわれていた干し肉。
まだ形を保っていた革紐。
砕けた小瓶の中に残っていた、乾いた薬草のようなもの。
それだけだ。
でも、俺はそれを大事にしまった。
森の奥には、歴史にも、英雄譚にも残らなかった結末が落ちている。
名前も、声も、過去も分からないまま。
ただ、残されたもの。
その日から、森の見え方が少し変わった。
ここは、誰かが進み、抗った道なのだ。
――四日目。
森の音が減った。
鳥の声が遠くなる。
獣の気配も少なくなる。
生き物の気配が薄い。
森が静かなのではない。
命が、少しずつ引いているようだった。
「……変ですね」
「ああ」
ベルさんの顔も険しい。
「魔獣の気配が減った。これは素直に喜べない状況だ」
「何だか、少し息苦しさを感じませんか?」
「そうだな、この辺りから、空気が重い」
「重い……分かります」
肌にまとわりつくような嫌な空気。
五感ではなく、第六感がひどくうるさい。
そこにいるだけで、胸の奥がざわつく。
スゥも、何かを感じ取っているようだ。
ぷるぷると震えている。
せん人様は、相変わらずだった。
相変わらず、すんとしている。
実に羨ましい限りだ。
まったく。
クルリと巻いた手は、頭をポリポリとしていた。
――五日目の昼過ぎ。
葉紋の熱が、ふっと落ち着いた。
「……ずいぶん、森の深部まで来た気がします」
「そうだな、昨日よりも、気持ち悪い気配がさらに強まってきている。アタシの直感が、もうこれ以上は行くなと、警告している」
「その感覚、分かる気がします。正直、俺もさっきから妙に気持ち悪く……」
そう言いかけて、俺は言葉を止めた。
突然、木々に閉ざされていた視界が開けた。
「ここがトレントの領域……」
ベルさんが、低く言った。
「これは……まるで、焼き払われた大地じゃないですか」
俺は、目の前の光景に息をのんだ。
木は立っている。
だが、幹は細く痩せ、黒ずんでいた。
根も張っている。
けど、弱々しく、大地に辛うじてしがみついているかのようだった。
枝も残っている。
しかし、葉は墨のように変色し、枯れ落ちていた。
すべてが、黒く染められた大地。
幹も根も土も、生気を失って沈んでいた。
ここは焼けた跡でも、燃え尽きた場所でもない。
森そのものから生命が抜き取られたようだった。
風が吹いても、葉が鳴らない。
その風からは、寒さと不快感が運ばれてくる。
森の奥へ向かうほど、色が削られているように見えた。
ベルさんの声が、さらに沈んだ。
「ここから先が……言うまでもないな」
俺は喉を鳴らした。
黒蝕樹と呼ばれる存在の影が落ちる場所。
ここは、入り口だ。
まだ、足を踏み入れてすらいない。
それでも、俺の足は確実に重くなっていた。
帰らぬ者たちの道は、ここからだったのだ。
俺たちは、その先へ進もうとしていた。




