第25話 森の使者
使者の異質な気配。
そう感じたのは、決して大げさではなかった。
リーフ族の里の奥。
葉で編まれた小さな家々の向こうに、淡い花の飾りを髪に宿した女性が立っていた。
あれは、明らかにリーフ族ではない。
肌は透き通るように白く、ところどころに若葉のような薄緑の文様が浮かんでいる。
髪には小さな花がいくつも絡み、風もないのに、葉先がふわりと揺れていた。
森から出てきたというより、森の一部が人の形を取ったような存在。
「お会いできて嬉しいです」
花を髪に宿した女性が、軽く頭を下げた。
声は思ったより明るかった。
静かで儚い精霊を想像していた俺は、少し意外に思う。
物腰は柔らかい。
けれど、芯がありそうな印象だ。
春一番のように、確かな力強さを感じる声だった。
「ドライアドのフィオナです。急なお話でごめんなさい。でも、森が少し困ったことになっているの」
「フィオナさん、でいいですか?」
「フィオナで構いません。どうか、そのまま呼んでください」
「分かりました、フィオナ」
丁寧ではあるが、かしこまりすぎていないところが、好印象だ。
その雰囲気に、俺は少しばかり肩の力を抜いた。
「リュート殿、ご一行」
長老が俺たちを見上げる。
「フィオナ殿は、ドライアドの使者としてこの里へ来られた。そして、ジャイアントツリーの長より託された言葉も預かっておられる」
「ジャイアントツリーの長からも……?」
俺はさっき聞いた言葉を思い出す。
大地と森の記憶を守るトレント。
巨木の身体で森の営みを支えるジャイアントツリー。
花と葉を通じて森の息吹をもたらすドライアド。
この森の均衡を保ってきた三つの流れ。
そのうち、ドライアドとジャイアントツリーの両者が、同じ異変を感じ取っている。
どう考えても、普通の事態ではなさそうだった。
ベルさんもそれを感じ取っているのか、いつもの雑な空気が少し薄い。
警戒している、というより。
相手の重さをきちんと測っている。
冒険者として、森の調査に進展があるのではないかという期待感もあっただろう。
「まず聞かせてくれ」
ベルさんが切り出した。
「トレントの巡りが乱れていると言っていたな。それは、具体的にどういうことだ」
フィオナは一度、目を伏せた。
「森のマナが、濁り始めています」
「マナ……?」
俺は思わず聞き返した。
「マナって何ですか?」
「お主たちの言う魔力に近いものじゃ」
答えたのは、長老だった。
「しかしながら、森の民にとってのマナは、ただの力ではない。木々を巡り、花を咲かせ、実を結ばせ、獣たちの生を支える。森を生かす命の流れのようなものじゃ」
「森の命の流れ……」
「うむ」
長老の説明に、フィオナが頷いた。
「本来、私たちがエルムフォレスティアと呼ぶこの大森林のマナは、とても穏やかです。それは三樹霊の安寧と均衡で成り立っています」
「その中でもここ最近、トレントの領域から、特に強い濁りを感じるようになったのです」
「トレントの縄張りということですか?」
「そう思ってくれて構いません」
「あんたたちは大丈夫なのか?」
ベルさんが問う。
「はい。少なくとも、今のところ私たちドライアドの領域に、大きな実害はまだ出ていません。このことはジャイアントツリーの長も、同じ見立てです」
彼女の表情に、緊張がにじんだ。
「ですが、刻一刻と黒き濁りは広がりを見せています。私たちの領域に侵食してくるのも、時間の問題でしょう」
「黒いもの……魔瘴か」
ベルさんの声が低くなる。
その瞬間、せん人様がわずかに動いた。
まるで脊髄反射のような動きだった。
クルリと巻いた手が、ぴくりと震えたように思えた。
俺は息をのむ。
せん人様でも反応するワードだ。
それだけで、この話がありふれた森の病気ではないと分かってしまった。
フィオナは、小さな葉包みを取り出した。
「これを見てください」
リィルが少し怯えたように俺のそばへ寄る。
長老も表情を曇らせた。
フィオナが葉包みを開く。
中にあったのは、黒ずんだ細い根だった。
ただ黒いのではない。
焦げているのとも違う。
根の表面に、墨のような筋が絡みついている。
見ていると、胸の奥がざわついた。
スゥが俺の足元で、ぷるりと震える。
「これが……」
「トレントの領域との境界で見つかった黒い根です」
彼女の声に、かすかな陰りがにじんだ。
「もともと、トレントの根は大地のマナを森全体に巡らせます。でも今は、その根が魔瘴に侵され始めている」
「それが、木の実の実りが悪くなった原因ですか?」
「それも原因のひとつです。森全体で起きている異変は、末端に出ている影響にすぎません」
末端。
つまり、ここで見えている異変は、本体ではないということか。
「獣が落ち着かないのも、同じ理由か?」
ベルさんが聞く。
「おそらくは……獣たちは、森の変化にとても敏感です。小さな獣ほど、魔瘴から離れようとしているみたい」
「逃げている、ということか」
「はい」
フィオナは悔しそうに唇を結んだ。
活発そうな人だと思った。
けれど今は、彼女の苦しみが伝わってくるようだ。
彼女自身も、森を守りたいのだ。
「トレントの長、古代樹様は、本来、この森の均衡を守護する大いなる存在でした」
フィオナは、静かにそう言った。
「エルダートレントと呼ばれる方です」
聞き慣れない響きだった。
けれど、ただの呼び名ではないのだと分かる。
「トレントの中でも特に長く森を見守り、大地と森の記憶を継承されていた方です」
「古代樹……」
名前を聞いただけで、背筋が少し伸びた。
いかにも森の古老。
大きく、長く、深く根を張った存在。
そんな印象を受ける。
「そのエルダリア様が、魔瘴に蝕まれています」
彼女の声が、ほんの少し震えた。
「今では、その身は黒く染まり、魔瘴に蝕まれた樹霊。黒蝕樹と呼ぶ者もいます」
「黒蝕樹……」
俺はその言葉を繰り返した。
黒く蝕まれた樹。
黒い根。
濁ったマナ。
逃げる獣。
減っていく木の実。
ばらばらだった異変が、一つの場所へつながっていく。
森の奥にいる根本の原因を、少し理解した気がした。
「浄化はできないのか」
ベルさんが言った。
その声は、思ったより静かだった。
「元に戻す手段があるなら、それが一番いい」
彼女の目が、かすかに揺れた。
「私たちも、そう願っています」
それからフィオナは、誰かの言葉を預かるように、そっと声を落とした。
「ジャイアントツリーの長は、こう仰いました」
フィオナの表情が、静かに沈む。
「木々が、嘆いている――と」
低く、短い言葉だった。
そのたった一言で、俺には十分に伝わった。
ジャイアントツリーの長にとって、それは重い一言なのだ。
リーフ族たちの間に、静かなざわめきが広がる。
「私たちドライアドも、ジャイアントツリーの長も、何もせずに見ていたわけではありません」
フィオナが続ける。
「トレントの領域へ使者を何度も送りました。けれど、返事がありません。戻ってこない者もいます」
「戻ってこない?」
俺の声が小さくなる。
「はい……」
フィオナは頷いた。
「三樹霊は、それぞれの領域を持っています。普段なら、他の領域へ深く介入することはできません。森の均衡を守るための盟約であり、種族同士の摩擦を避けるための知恵でもあります」
「けれど、すでにそうも言っていられない状況だ」
ベルさんが言った。
「はい。ただ、私たちが深く介入すれば、森の中でさらに大きな歪みを生むかもしれません」
「だから、ここに相談に来たのか?」
「はじめは……そうでした」
フィオナはリィルへ視線を向けた。
リィルが、俺に視線を向ける。
「そこで、リィルから聞きました。森の外から来たヒト族でありながら、リーフ族との縁を結んだ者がいる……と」
「俺のことですか」
「はい」
フィオナは、まっすぐ俺を見る。
「いつもなら、森の外の方にこのような願いをすることはありません。でも、リィルはあなたを信じている」
その瞳は、曇りのない緑色をしていた。
「ですから、私たちはあなた方と話がしたくて、ここで待っていました」
「俺たちを……」
胸が少し重くなる。
期待されるのが、正直怖い。
俺は勇者ではない。
強い戦士でもない。
森を生き延びることで精一杯の、お絵描きニートだ。
でも、話を聞いて関わってしまった。
木の実の減少。
獣の慌ただしさ。
広がる黒い根。
魔瘴に蝕まれたエルダリア様。
それを、聞かなかったことにはできない。
「つまり……俺たちに、何かを頼みたいということですか?」
俺が聞くと、フィオナは頷いた。
「はい。トレントの領域との境界あたりまでで構いません。様子を見てきていただきたいのです」
「手前まで?」
「はい。黒い根がどこまで広がっているのか。可能なら、領域の内側をほんの少し確認してほしい。でも、無理に奥へ踏み込む必要はありません」
「偵察、ということか」
ベルさんが言った。
「はい。彼らとの戦闘は極力避けてください。我々もトレントと事を構えたいわけではありません」
ベルさんは腕を組んだ。
「だが、穏便な調査では済まない可能性もある」
空気が少し重くなる。
「トレントの領域の異変を見に行くということは、原因に近づくということだ。魔瘴が絡んでいるなら、魔物や変質した獣が出てもおかしくない」
ベルさんの言葉は現実的だった。
経験に裏打ちされた勘なのだろう。
だからこそ、信頼できる。
フィオナは俺を見る。
「リュート様は、どうですか?」
「俺ですか?」
「はい。リィルが選んだのはあなたですから……」
逃げたい。
そう思わなかったと言えば、嘘になる。
だが、今は少し仲間も増えた。
スゥがいて。
ボーたちがいて。
ベルさんやせん人様がいる。
俺は一人ではない。
「正直、怖いです」
俺は言った。
「でも、今すぐ戦うわけじゃないし……遠くから見るくらいなら、俺にもできるかもしれません」
ベルさんが小さくため息をついた。
「お前は、本当にそれでいいのか? 最悪、命の取り合いになることだってある」
「聞いてしまったからには、無視はできません」
「お前がそれでいいなら、アタシも野暮じゃない」
ベルさんはフィオナへ視線を戻した。
「偵察だけだ。危なくなったらすぐ逃げる。深入りはしない。それが条件だ」
「ええ、もちろんです。ささやかではありますが、お礼もさせていただきます」
「リュート。お前もだ。少しでも危ないと思ったら下がれ。今回は意地を張る場面じゃない」
「はい、分かってます」
「本当だな?」
「逃げ足だけは、任せてください」
「それは誇ることか?」
「今の俺には、それが全てですから」
ベルさんは呆れた顔をしながらも、それ以上は言わなかった。
「よし。準備ができ次第、トレントの領域へ向かう」
ベルさんの覚悟が伝わってきた。
「くれぐれも、道中お気をつけくだされ」
長老が、静かに頷く。
一度、拠点に戻って旅支度を済ませたら出発だ。
目的地は、黒い根が広がるトレントの領域との境界付近。
そこからは深入りせず、付近の様子を調査する。
フィオナは、俺の手の甲に浮かぶ葉紋を見つめていた。
淡い緑の線で描かれた、リーフ族の証。
そこに、彼女はそっと指先を重ねる。
「私たちドライアドの加護も差し上げます」
「加護……?」
「はい。あなたの身体にあるマナの巡りを整え、無駄な消耗をほんの少し抑えてくれるものです」
「マナ、魔力の巡りを、ですか……ありがとうございます」
「それに加えて、トレントの領域との境界付近まで、きっとあなたを導いてくれるはずです」
リィルがくれた導きの強化版のようなものだろうか。
「もう一つ。この加護には、別の効果があります」
「もう一つ?」
「ただ、現状で使う必要があるかどうかは分かりません。それに、その効果には反動もあります。今は、お守りのようなものだと思っておいてください」
「特に、これから向かう森の深部は、加護を持たない者に容赦なく牙をむきますから……」
フィオナは、さらっと怖いことを言った。
彼女の指先から、淡い緑の光が流れ込む。
リィルがくれた手の模様が、さらに花びらのように広がりを見せた。
今回はそこまで熱く……やっぱり熱い。
手の甲の奥に、森の記憶が入り込んでくるような不思議な感覚があった。
「これで、目的地から大きく外れた時には、葉紋が教えてくれるはずです」
「ナビ機能の強化版ですね」
「ナビ……とは?」
「えーと、迷子のおまじない、のようなものでしょうか」
「それなら、合っていますね。この加護はあなたへのお礼の一部先渡しです。きっと道中あなた方のお役に立つでしょう」
フィオナは小さく笑った。
俺は手の甲を見る。
葉紋は、静かに淡く光っていた。
リィルがくれた友好の証。
そこに、フィオナの加護が重なった。
あの広大な森の中でも、目的の場所までは何とかなるかもしれない。
けれど、安全が保証されたわけではない。
最終的に進むべき道は、俺たち自身が決断しなければならない。
フィオナが示した森の奥のさらに奥。
到底、人が踏み入れない場所。
その方角は、冬の森の色が少し暗く見えた。




