第21話 小さな訪問者
ぺち。
ぺちぺち。
頬に、何かが当たっている。
痛い。
いや、痛いというより、くすぐったい。
蚊に刺されたところを、小枝でつつかれているような、絶妙に腹立たしい刺激だ。
「……虫?」
俺は寝ぼけたまま、顔の前を手で払った。
何か小さなものが、ひょいっと避ける気配がした。
そのまま、再び顔を襲ってくる。
ぺち。
ぺちぺち。
「……しつこい虫だな」
「虫じゃないのです」
声がした。
眠気で重いまぶたを、ゆっくり開ける。
視界の端に、薄い朝の光。
草屋根の隙間から、冷たい空気が入り込んでいる。
森の朝は、前より少し冷たくなった気がする。
拠点の木材も、作ったばかりの頃より少し色が馴染んできた。
初雪を握る朝が何度か続き、俺の体は寝起きからすでに人生をやり直したい気分だった。
そんな俺の顔のすぐ前に、小さな影がある。
緑がかった髪。
葉っぱみたいな服。
手のひらに乗りそうな体。
「……リィル?」
「やっと、起きたのです」
そこには、リーフ族のリィルがいた。
俺は数秒、状況を理解できずに固まった。
そして、ようやく現実を受け入れる。
「朝起きて、リーフ族に襲われているとは思わないだろ!」
「襲ってないのです。起こしてるのですよ」
「顔をバチバチ叩くのは、十分に襲撃だと思うんだが……」
「リュートが、なかなか起きなかったせいなのです」
「ここ数日の訓練で疲れてるんだよ……」
俺は上体を起こし、首を鳴らした。
筋肉痛という感覚を超えて、身体が石化を始めているのではないかと思うほどだ。
寝床の横には初雪が置いてある。
日々の訓練で手に馴染んだ、とはまだ言えない。
「それはそうと、よくこの場所が分かったな。リィルには教えてなかったと思うのだが……」
「はい、リィルはいつもの場所に、木の実を取りに来たのですよ。でも、里に帰る途中でリュートの匂いがしたから、それを追ってここまで来たのです」
「俺の匂い……? それって、どんな?」
リィルは俺の顔をじっと見ていた。
「リュート、青ツノムシの匂いがするのです」
「青ツノムシ?」
「ぷんぷん臭うのです」
「言い方!」
地味に傷つく。
俺は自分の袖を嗅いでみた。
うん。
俺、青ツノムシ……って、誰だよ!
「つまり、俺の体が臭いってことだな?」
「臭いとは言ってないのです。青ツノムシが潰れた時の匂いがすると言っただけなのです」
「俺、潰れた青ツノムシ……」
「のような、匂いがすると感じたのです。リーフ族は、昔からとても鼻が利くのです。決して、リュートが臭いわけではない……と、思うのです」
リィルが必死に取り繕う。
「これ以上のフォローは不要だ……立ち上がれなくなる」
「それなら、お湯に浸かっていい匂いになればいいのです」
「それができたら、どれほど嬉しいか。リィルの里に向かう途中で、ぬるま湯くらいの湧き水が出る場所はあったけど、身体を拭くくらいしかできなかったんだ」
「ああ、うさぎさんの巣の近くなのです?」
「そうそれ、知っていたのか?」
「はい、なのです」
「だから、無理なんだよ」
「なのです?」
「川の水は冷たいし、毎日浴びたら普通に凍え死ぬ。いや、気合いでいける人もいるかもしれないけど、俺はそういうタイプじゃない」
「うさぎさんの巣の近くに、お湯だまりがあるのですが、リュートは知らないのです?」
「……お湯だまり?」
(お湯だまり……お湯だまり……)
俺の脳が、その単語を反響させた。
お湯。
溜まり。
お湯、たくさん。
温泉。
「え! あるの?」
「あるのです」
「いっぱい、お湯?」
体の芯からの欲求で声が震える。
「とっても広くて、肩までしっかり浸かれるのです」
「ホントか!?」
思わず身を乗り出した。
「きゃっ!」
俺の勢いに驚いて、声を上げる。
「あ、すまん。つい興奮を抑えられなかった。ところで……そんな良いところ、なんで今まで教えてくれなかったんだよ」
「聞かれてないのです」
「ああ、たしかに!」
ごもっともだ。
俺はがっくりと肩を落とす。
「その場所を教えてくれ。頼む。俺の命に関わる」
「匂いが、命なのです?」
「プライドの、命だ」
「何言ってるのか、よく分からないのです」
リィルは首を傾げた。
くっ、文化の壁が厚い。
だが、おおよその場所は教えてもらえた。
必ずその温泉、見つけ出してやるぜ!
パッパラー。
俺の中でミッションクエストが発生した。
その時、背後で衣擦れの音がした。
「朝から騒がしいな……」
ベルさんが起き上がっていた。
寝起きなのに、目は鋭い。
さすがは冒険者。
(いや……ベルさんだからか)
ムクッ。
せん人様もお目覚めのようだ。
キョロキョロ。
辺りを見渡す。
リィルを見たせいか、突如、動きを止めた。
リィルはベルさんとせん人様を同時に見て、目を丸くした。
「きゃーっ! 巨人が増えたのです! それと骨人間もいるのです!」
「誰が巨人だ」
「骨人間……は、せん人様のことかな」
「そびえ立ってるのですよ! そっちは新種のスケルトンなのです?」
「そびえ……それは、そうか?」
あれ……小さい相手には弱い?
あっさり認めた。
(高層ビルと同じ扱いをされたのに……)
ベルさん、子供のような存在の相手が苦手みたいだ。
「そっちは、スケルトンじゃなくて、せん人様。俺の能力ね」
「そうなのです? ほっとしたのです。リィルはてっきり、この森にはいないゾンビかと思ったのですよ」
ベルさんはリィルをじっと見る。
「リーフ族。噂には聞いたことがあるが、絵空事の類だと思っていた」
「リィルは、ここにいるのですよ。私はリーフ族なのです」
「アタシはベルヴェット、ベルでいい」
軽く自己紹介を済ませると、ベルさんはリィルをさらに一瞥した。
「そうか。まだ小さいな……子供か」
カチッ。
ベルさんが何かを踏んだ音がした。
リィルの頬がぷくっと膨らんだ。
「リィルは大人なのです!」
「そう……なのか……」
「大人なのです! とても失礼な女巨人なのです!」
そう言いながら、リィルはポコポコとベルさんを叩いた。
(何という、恐れ知らずな……命がいくつあっても足りない)
だが、当のベルさんはどこ吹く風といった様子だ。
ダメージゼロの攻撃は、相手にすらされていない。
「そうか。それは失礼した」
ベルさんが、嫌味のない声で謝った。
その心意気に、リィルは冷静さを取り戻せたようだった。
「分かってもらえればいいのです」
初対面で、お約束の子供扱い。
その後、ベルさんの思わぬ謝罪に、怒りの矛先を失った。
そんな顔だった。
「で、そのリーフ族の大人の女性が、なぜここにいる?」
「木の実を取りに来たのです」
リィルは背中の小さな籠を見せた。
中には、緑や黄色の小さな木の実がいくつも入っている。
「このあたりの木の実は、リーフ族のごはんなのです」
「そうなのか。勝手に取って悪かったな」
俺は以前のことを思い出して、少し気まずくなる。
「リュートは前に助けてくれたから、少しならいいのです」
「少しなら、なんだ……」
「いっぱいはダメなのです」
「はい。気を付けます」
ベルさんは籠の中を覗き込んだ。
「その実は食えるのか?」
「食べるのです。おいしいのですよ」
「いや、これはリーフ族の主食、粗末に扱うことはやめておこう」
ベルさんはそう言って、木の実に伸ばしかけた手を止めた。
リィルの、ベルさんを見る目が少し変わった気がした。
きっと、自分たちのものを大切にしてくれたことが嬉しかったのだろう。
その時、足元でスゥがぷるんと揺れた。
「あ、ぷるぷるなのです」
「スゥだよ」
「ぷるぷる……」
「あの……名前を……」
「ぷるぷるスゥちゃん、なのです」
微妙。
スゥは不満なのか満足なのか分からないが、ぷるんと揺れた。
(悪い気はしていない……と、いいな)
リィルは籠から小さな木の実をひとつ取り出した。
「ぷるぷるちゃんも食べるのです?」
その木の実を一つ差し出す。
ぷぷるんっ。
スゥは木の実を透き通る体に取り込む。
身体に吸収されていく。
(美味かったのか?)
「リュートも食べるのです?」
「いいのか……?」
「少しだけならいいのです」
俺はありがたく受け取った。
見た目は小さなぶどうに近い。
瑞々しくて、なんとなく甘そうだ。
口に入れる。
次の瞬間、俺の口の中で森が爆発した。
「すっぱぁぁぁぁ!!」
目が覚めた。
覚めたどころか、目がチカチカする。
前世の記憶まで掘り起こされそうな酸っぱさだった。
「そんなに、おいしいのです?」
リィルは胸を張る。
「リーフ族、お前ら味覚は巨人以上だ!」
「元気が出るのです」
本心で言っているようだ。
「確かに出たよ。頭が変になるかと思った!」
ベルさんが横で小さく笑った。
「目覚ましにはちょうどいいな」
「ベルさんも食べます?」
「それは遠慮しておく」
「賢明な判断です!」
リィルは不満そうに頬を膨らませた。
「おいしいのに……」
「リィルたちにはな」
ベルさんはそう言って、籠の木の実を見る。
「その木の実を取りに来たということは、この辺りまでは普段から来るのか?」
「そうなのです。でも、最近少し変なのですよ」
リィルの声が、少し小さくなった。
「変……?」
「いつもの場所に、木の実が少ないのです」
「季節のせいじゃないのか?」
「リーフ族は、森の恵みのことは間違えないのです」
その言葉は、妙にまっすぐだった。
いつもの柔らかい口調のままなのに、そこには確信がある。
リーフ族にとって、木の実はただの食べ物ではないのかもしれない。
ベルさんの目が少しだけ険しくなる。
「森の異変と関係があるかもしれないな」
「異変……?」
リィルが首を傾げる。
「アタシはこの森の調査に来ている。最近、魔物の動きや森の様子がおかしいらしいと報告があってな」
「確かに今の森、少し変なのです」
「やはりか……」
「でも、リィルではどこが変なのか、よく分からないのです」
リィルは籠を抱え直した。
「なら、里でもう一度、長老に話を聞くといいのです」
「里……?」
ベルさんが反応する。
「リーフ族の里があるのか?」
「あるのです」
「普通に訪ねることはできるのか?」
「結界に守られているので、普通には見つけられない場所なのです」
「そんな大事なことを、アタシに教えて大丈夫なのか?」
いつものベルさんなら、試すような言い方なのだが。
本当に心配しているようだった。
「リュートと一緒にいる巨人だから、ちょぴっとは信用しているのですよ」
「そうか……」
ベルさんが少し緩む。
俺は以前、リーフ族の里に行ったことがある。
でも、もう一度行こうとして、道に迷った。
情けないが、あの森の中で里を見つけるのはかなり難しい。
「俺、前にもう一回行こうとして迷ったんだよな」
「リュートは迷子になるのですか?」
「もう、すでになった後だ」
「それなら、しるべをあげるのです」
「しるべ?」
リィルは俺の手の甲に、小さな手をそっと乗せた。
ひんやりしていると思ったら、突然、焼けたように熱くなった。
「あ、アツっ!」
手の甲の上で、小さな光が葉脈のように広がった。
ほんの一瞬だが、熱した鉄を押し付けられたような痛みが走った。
光が収まると、俺の手の甲に小さな葉っぱのような紋様が浮かんでいた。
淡い緑の線で描かれた、葉脈みたいな印だ。
「これは……焼き印……」
「しるべなのです!」
すべてを話し終える前に、リィルに会話を遮られた。
リィルは頬をぷくっと膨らませている。
またも、ご機嫌を損ねてしまったようだ。
「それでこの手の甲の跡は、何なのです?」
ついリィルの口癖が移ってしまった。
「これは葉紋といって、リーフ族に伝わるおまじないなのです」
「葉紋……」
「リーフ族の証なのです。里を訪れたい時、ちょぴっとだけ道に迷わないようにしてくれるのです」
「すごいな。ナビ機能つきタトゥーだ」
「よく分からないのです。これはリュートとの友好の証なのですよ」
「そっか……ありがとう」
素直にお礼を言った。
リィルは満足げにうなずく。
「でも、悪いことを考えていると、きっと迷うのです」
「何それ……怖い」
「長老が村の子に、そう言い聞かせていたのです」
「何それ、怖い……迷信だといいけど……」
ベルさんが俺の手の甲を見た。
「リーフ族の証か。珍しいものをもらったな」
「そんなに珍しいんですか?」
「亜人種の中には、自身が持つ特別な力を、相手に分け与える者がいると聞いたことがある。それに、そんな貴重な効果を、誰にでもポンポン渡せるものではないだろう」
「確かに……」
俺は改めて手の甲を見た。
小さな葉紋。
リィルから、友好の証だと言われれば、嬉しいに決まってる。
「今度、里に来るのです」
リィルが言った。
「長老にも、リュートが元気だったと伝えるのです」
「ありがとう。俺もまた行くよ」
「そっちの女巨人と骨人間も来るのですか?」
リィルがベルさんとせん人様を見る。
せん人様は、クルリと巻いた手を上げた。
「女きょ……アタシか?」
「女巨人も大きいから、里で騒ぎになるのです」
「なら、余計に行く価値がありそうだな」
「騒ぎになるのに!?」
俺は思わず突っ込んだ。
ベルさんは平然としていた。
リィルはどこか嬉しそうに籠を背負い直す。
「リィル、そろそろ行くのです。木の実を持って里に戻らないと、心配されちゃうのです」
「前もリィルが木の実係だったみたいだが、その仕事は当番制なのか?」
「当番せい……?」
「みんなで木の実を取る係を、順番に回しているのか、ということだ」
リィルに伝わるように説明する。
「ああ、それなら木の実の採取は、リィルの仕事なのです」
「そうか……それは大変だな。他の者はやらないのか?」
「里の外へ出る危ないことは、リィルたち若手の仕事なのです。その分、高齢の方は里の中で仕事をしているのです」
「道中も危険なのに凄いんだな」
「そんなことはないのです。里の中には遠くまで歩けない、おジジやおババがたくさんいるから、仕方ないのですよ」
「そうだよな……」
「それにリィルにしか扱えない宝玉もあるから、そこまで森の道は危険じゃないのです」
「宝玉……?」
「えーとね、今は秘密なのです。次、里に来たときに話すのですよ」
そういうと、リィルは、小さく跳ねるように歩き出す。
そして、少し離れたところで振り返った。
「リュート、今度はきっと迷わず来るのです!」
「うん……ほどほどに頑張る」
「葉紋が教えてくれるから、きっと大丈夫なのです」
「そっか……なら行くよ」
リィルは、にこっと笑った。
それから木の葉の間に紛れるように、森の奥へ消えていく。
残された俺は、手の甲の葉紋を見下ろした。
森の空気は、やっぱり冷たい。
でも、その小さな印は、ほんのり熱を帯びている気がした。
ベルさんが、ぽつりと言う。
「リーフ族の里か。森の異変の話を聞くには、いい場所だな」
「そうですね……行かなきゃ、ですよね?」
「怖いか……?」
「それは……怖いです」
即答した。
「でも、リィルが今度は大丈夫って言ってた」
「きっと……だとさ」
「いいんですよ、それでも」
俺たちは、少しだけ笑った。
森の奥が、まだ俺たちを呼んでいる気がした。




