第20話 契約の灯火
ぱちり、と小さく枝が爆ぜる。
夜の森は静かだった。
無音というわけではない。
遠くで虫の声はするし、木々の葉も揺れている。
それなのに、俺の耳には、焚き火の音だけが妙にはっきり届いていた。
「お前は、この森を出る気はないのか」
ベルさんの問いに、俺はすぐ答えられなかった。
膝の上には、初雪がある。
ここ数日、何度も握り続けたベルさんの剣だ。
手のひらには、まだ慣れない硬さが残っている。
森を出る気はないのか。
そんなの、考えたことがないわけじゃない。
でも、考えようとするたびに、頭の奥が白くなる。
「……出たくないわけじゃない、と思います」
ようやく口から出た言葉は、自分でも頼りなかった。
「思います……か」
「正直、自分でも、よく分からないんです」
情けない答えだった。
でも、それが本音だった。
森は怖い。
魔物も怖い。
夜も、獣の声も、雨の音でさえ怖い。
なのに、森の外へ出たいかと聞かれると、胸の奥が詰まる。
外へ出れば助かる、なんて単純に思えない。
この世界で最初に見た景色は、召喚の間であり、兵士であり、奴隷送りという言葉だった。
俺は森の中にいたいわけじゃない。
でも、今すぐ出たいとも思えない。
「自分の心が、分からないんです」
そういうと、ベルさんはしばらく火を見つめた。
急かすことも、笑うこともしなかった。
その沈黙が、妙に重かった。
「お前は下がる時に、足がもつれると言ったな」
ベルさんが、枝を一本火にくべた。
「……はい」
「本当の問題は、そこじゃない」
俺は顔を上げた。
「足じゃない?」
「ああ。意識だ」
ベルさんの視線が、火の向こうから俺を射抜く。
「前を向いている時、お前はまだみんなと戦っている。怖くても、目の前のものと対峙する気持ちがある」
淡々と語る。
「だが、下がる瞬間、お前は戦いから降りている」
彼女の感情が読み取れない。
「戦いから……降りる」
夜の火のそばで聞くと、その響きはさらに重かった。
「下がることが悪いと言っているんじゃない。これは訓練でも言ったことだ」
ベルさんはゆっくりと言葉を続ける。
「だが、お前の後退は違う。足を引いた瞬間、生き残るために下がっているんじゃない。怖くて戦いを放棄している……お前は、ただ怯えている」
ぐっと喉が詰まった。
言い返したかった。
でも、言い返す言葉が見つからなかった。
思い当たることが、ありすぎる。
初めて魔物に遭遇した時。
拠点に魔獣が襲ってきた時。
そして、今日の訓練でも。
俺は下がろうとした瞬間、いつも足がもつれる……何もないところでさえも。
それは、俺が戦意を喪失したからなのか?
敵からも、仲間からも、自分自身からも、目を逸らしている。
俺は、ただ怯えている……。
「そんなこと……」
喉の奥から、勝手に声が漏れた。
「そんなこと、分かってますよ!」
自分でも驚くほど、荒い声だった。
「分かってても、すぐには変われないんだよ!」
言ってしまった。
ベルさんに怒鳴るつもりなんてなかった。
アドバイスしてくれているのも分かっている。
俺を見て、考えて、言ってくれていたことも分かっている。
でも、口をついた言葉が止まらなかった。
「俺は……争いごととは無縁の場所から来たんだ!」
火が、小さく揺れた。
「魔物なんていない。剣を持つこともない。誰かを殺す覚悟なんて、みんな持ってない。そういう場所から来たんだ」
言ってから、しまったと思った。
この世界の人間からすれば、それはあまりにも不自然な言葉だ。
世間知らずとか、そういう話では済まない。
ベルさんの顔が少し険しくなった。
「最初は、よほどの世間知らずかと思った」
「……」
「だが、お前の無知は、村から出たことがない奴のそれじゃない。この世界で生きていれば、嫌でも知っていることまで知らなすぎる」
逃げ道が、ひとつ塞がれた気がした。
「魔獣のことや獣のこと、ギルドのこともそうだ、東西の大陸のことも。お前は知らなすぎる」
「それは……」
「その身なりも……」
ベルさんの視線が、俺の服へ向いた。
「東でも西でも、あまり見ない作りだ。森に入る服でも、旅人の服でも、ましてや冒険者の服でもない」
何も言えなかった。
確かに、俺の服はこの世界のものじゃない。
こっちに来た時のまま、何とか着続けているものだ。
「今考えれば、拠点もそうだ。以前から森で暮らしていた形跡がない。寝床も、食料の備蓄や防寒の備え、道具も何もかもが急ごしらえ」
ベルさんの声は静かに俺の心を打つ。
事実をひとつずつ並べていく。
「これはどう考えても、森で暮らしていた者の生活じゃない。予期せぬ事態があったと思う方が自然だ」
外堀が、埋まっていく。
服。
拠点。
知識。
全部、知られてた。
全部、つながった。
「ここに来る前、ヴェールデンの酒場で妙な噂を聞いたことがあった」
俺の心臓が、嫌な音を立てた。
「帝国が勇者召喚を成功させた。だが、呼ばれた者は出来損ないで、奴隷送りにされた。護送中に逃げたらしい、とな」
息が、止まった。
鼓動が速くなるのが分かる。
酒場の噂。
出来損ない。
奴隷送り。
護送中に逃げた。
それは、俺のことだ。
「酒場の噂なんて、半分は当てにならない。尾ひれもつく。だが、お前を見ていると、妙に話がつながる」
ベルさんは、まっすぐ俺を見る。
「リュート。お前は……異世界から来た者なのか」
鈍器で頭を殴られたような衝撃が走った。
息がうまく吸えない。鼓動が速い。冷たい汗が頬を伝う。
俺は、まだベルさんのことをよく知らない。
彼女を完全に信じきれてもいない。
そもそも、この世界のことを俺は知らない。
だが、もう言い逃れできそうもない。
見透かされている。
隠しても、たぶん無駄だ。
俺は膝の上の初雪を見つめた。
刃は鞘の中に収まっている。
それなのに、その重さだけが、妙に手に残っていた。
「……俺は」
声が震えた。
「俺は、この世界の人間じゃありません」
言った瞬間、胸の奥で何かがほどけた気がした。
同時に、崩れ落ちそうなほど怖くなる。
「帝国に、勝手に召喚されました」
ベルさんは何も言わない。
俺は続けた。
「勇者だとか、適性だとか、何も分からないままこの世界に連れてこられて。それでステータスを見られて、スキルを見せろって言われて」
あの時の笑い声が、耳の奥によみがえる。
棒人間が爆ぜて。
周囲が笑った。
宴会芸だと、ギャグだと……。
「俺のスキルを見て、みんな笑ったんです。使えない……無能だって。勇者の適性なしだ……って」
言葉にしたら、思っていたより痛い。
「その後、奴隷送りにされかけました。馬車で運ばれている途中で、魔獣に襲われて……兵士が死んで……そこから、俺は逃げました」
森へ逃げた。
逃げるしかなかった。
街道に残れば、また捕まるかもしれない。
戻れば奴隷。
進めば魔獣。
その時の俺には、森しかなかった。
「だから、今ここにいます。俺は別に森で暮らしたかったわけじゃない。ひたすら逃げて、逃げて、ここにたどり着いただけなんだ」
情けない話だった。
自分で言っていて、胸が痛くなるほどに。
俺はベルさんを見ることができなかった。
焚き火の音が、また大きくなる。
しばらくして、ベルさんが口を開いた。
「そうか……」
それだけだった。
慰めない。
笑わない。
責めない。
たった一言。
その一言は、どの言葉より俺の心をほどいた。
俺を笑った誰の声とも違う。
無能だと吐き捨てた誰の声とも違う。
ただ、受け取ってくれた。
胸の奥が、ざわつく。
「昔、お前に少し似た奴を知っていた」
ベルさんが、火を見たまま言った。
「今の俺に……ですか?」
「優しすぎて、戦士になりきれなかった奴だ」
「それは……」
「今は、お前の話だ」
ベルさんはそれ以上語らなかった。
火が揺れる。
夜の森が、ほんの少し近く感じた。
「お前の話は分かった。次は、これからの話だ」
ベルさんが話を変えた。
「これから?」
「このタイミングで、アタシは一度ヴェールデンへ戻るべきだと思っている」
「ヴェールデン……確かベルさんが今、拠点にしている街、でしたか」
「ああ。ギルドへの報告も必要だ。補給もいる。それに、もうじきこの森にも冬が来る。冬支度もそこで整えた方がいいだろう」
それは、当たり前の判断に聞こえた。
ベルさんは冒険者だ。
依頼を受けて、森の調査に来ている。
なら、報告すべきだし、調査が長引くなら補給も必要だ。
「戻るなら、最低でも二週間はかかる」
「そんなに……」
「ここから街まで戻り、報告と補給、それから冬に備えて支度を整え、また戻る。どんなに急いでもそれくらいはかかる」
ベルさんは俺を見る。
「お前も来ないか?」
その言葉に、胸が揺れた。
街。
たくさんの人がいる場所。
食べ物も、服も、寝るところもある。
森より安全かもしれない。
普通に考えても、行かない理由がない。
でも、言葉が詰まった。
「……行きたいです」
本音だった。
「たぶん、行きたい」
でも、それだけじゃない。
「けど、今は……怖いです」
言葉が、ゆっくり零れる。
「街に行くことが怖いんです。俺はこの世界の常識を知らない。金もないし、身分もない。帝国に顔を知られているかもしれない」
人がいる。
身分がある。
金がいる。
情報がいる。
森の魔物は怖い。
でも、人の世界はもっと怖い。
「今の俺が街に行ったら、何も分からないまま、また誰かに捕まる気がするんです」
言ってから、首を振った。
「いや、違うな……それだけじゃない」
初雪の鞘を握る指に、力が入る。
「俺は、あと少し……自分を守れるようになってから外に出たい」
それは、ようやく自分の中から出てきた言葉だった。
「誰かを倒せたらとか、強くなって見返したいとか、そういうことじゃなくて……」
俺は火を見る。
「せめて、自分のことは守れるようになってから、外に出たい」
ベルさんは、顎に手を添え、何かを考え込む。
その静寂は、永遠に感じられるかのような沈黙。
遠くの獣の鳴き声だけが、妙に耳についた。
「……そうか」
ベルさんは小さく息を吐いた。
「やっぱり、アタシもしばらくこの森に残ることにした」
ベルさんは枝を一本、火にくべた。
「え……?」
思わず顔を上げた。
「大丈夫なんですか?」
「問題がなくはない」
「そう……ですよね」
「本来なら、一度街へ戻るべきだろう」
ベルさんはあっさり言った。
「報告も補給も、必要だ。冬支度も街の方が早い。お前を連れて行くにしても、置いて行くにしても、一度戻るという選択は恐らく正しい」
「なら、どうして……」
ベルさんは火を見つめたまま、しばらく黙った。
「森の異変の全貌は、まだ見えていない。アタシもここで切り上げるには、少し早いと考えていた」
「ベルさん……?」
「ここで一度離れれば、今ある痕跡が消えるかもしれない。魔獣の動きも、森の気配も、数日で目まぐるしく変わるだろう」
ベルさんは火を見つめたまま、短く言った。
「だから、あともう少し見極める。それだけだ」
言い切る声は、いつも通りだった。
でも、その顔にわずかな含みを感じた。
そこに何があったのか、俺には分からない。
ただ、彼女が決断したことだ。
きっと、俺には変えることはできないだろう。
「アタシは、もう少し森の異変を調べる。その間、お前をここで死なない程度には鍛えてやる」
ベルさんがこちらを見る。
「その代わり、この森にいる間、お前はアタシの調査を手伝え」
「俺が、ですか?」
「ああ。お前のスキルはおかしなものだが、使い方次第では役立ちそうだ。ボーたちと、あとスゥもな」
スゥが足元でぷるんっと喜ぶ。
話を聞いていたのか、ただ反応したのかは分からない。
(せん人様は……相変わらずか)
「もちろん、危険なこともある。楽な話じゃない」
「……はい」
「それでも、お前は強くなりたいんだろう?」
強くなりたい。
その言葉には、まだ少し抵抗があった。
俺が強くなるなんて、どこか遠い話に聞こえる。
でも、自分を守れるくらいにはなりたい。
それだけは、確かだった。
「森の外に出ても、何もできないまま終わるのは嫌なんです」
「そうだな……」
「はい」
俺は頷いた。
「強くなりたいです。少なくとも……自分を守れるくらいには」
ベルさんは小さく頷く。
「なら、決まりだ」
「これは……契約ですか?」
口にしてから、少し大げさだったかと思った。
けれど、ベルさんは火の向こうで、かすかに口元を緩めた。
「これは魔法の契約みたいな大層なものじゃない。アタシとお前との約束ごとだ」
そこで一度、言葉を切る。
「だが、うわべだけの軽い約束ではない」
契約。
その言葉は、口約束のような軽いものではない。
だが、嫌なプレッシャーでもなかった。
初雪を握った時の重さに、少し似ている。
いつか、自分の足で森の外へ出るための約束。
火は、まだ小さく燃えていた。
頼りない灯りだった。
けれど、その夜の俺には、不思議と消えそうには見えなかった。




