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第19話 初雪を握れ

「腰が高い。もっと落とせ」


 ベルさんの声が、朝の森に飛んだ。


 今日は朝から、ベルさんによる剣の訓練だ。

 朝起きたら、せん人様はいなかった。


 どこかに出かけたのだろうか。

 なんという自由人。

 その心の余裕を見習いたいものだ。


 俺は両手で剣を握りしめたまま、そんなことを考えていた。

 すでに朝からの訓練で、膝はガクガクと笑っている。


 重い。

 剣が重い。

 いや、正確には剣そのものだけが原因じゃない。


 ベルさんの視線が重い。

 昨日見られたステータスカードの余韻も重い。

 そして何より、俺の才能のなさが重い。


「リュート。お前は今、剣を構えているつもりか?」


「えっと……そう見えませんか?」


「剣で虫でも、追い払っているのかと思った」


「今日も辛辣(しんらつ)!」


「わずかな甘えが、死につながる」


 ベルさんは当然のように言った。


 昨日、俺はステータスカードを見られた。

 お絵描きニートを公開処刑され、アトリエポケットという新しいスキルに振り回され、最後にはこう言われた。


 明日から、剣を握れ。


 その結果がこれだ。


 俺は今、ベルさんから一本の剣を持たされている。


 刃は綺麗に手入れされているが、派手な装飾はない。

 柄も鞘も、どちらかといえば質素だ。


 けれど、不思議と雑な感じはしない。


 使い込まれた道具。

 それも、大事に扱われてきた道具。


 そういう雰囲気が、俺にも伝わってきた。


「その剣は、初雪(はつゆき)という」


 ベルさんが、ふいに言った。


「初雪……ですか」


「ああ。しばらく、お前に預ける」


「えっ、いいんですか?」


 俺は思わず剣を見下ろした。


 いつも、ベルさんは腰に二本の剣を差していた。

 おそらく、これは彼女のメインの武器ではないのだろう。

 魔獣との戦闘も別の剣だった。


 だが、ただの練習用とも思えなかった。


「アタシが東で、傭兵を始めた頃に買った剣だ」


「東……」


「そいつには、名前がなかったからな。付けてやったんだ」


 ベルさんが遠い目をしていた。


「買ったその日、その年ではじめての雪が降っていた。だから、初雪……それだけだ」


 それだけ。


 その割には、彼女の視線はほんの一瞬剣に落ちた。


 ほんの少しだけ。


 いつもの荒っぽい口調とは違う、少し穏やかな目だった。


 きっと、俺が深く聞く話じゃない。


 いつか、俺が強くなった時に、彼女に聞いてみよう。


「これ、ベルさんにとって大事な剣なんじゃ……」


「思い入れは、あるな」


「え?」


「だから、何が何でも生きてアタシに返しに来い」


「いろいろ重たいんですけど!?」


「重く感じるなら、その分、しっかりと握れ」


 ぐうの音も出ない。


 ベルさんは俺の足元を見ると、ため息をついた。


「腰を落とせ。足を開け。膝を固めるな」


 言われた通りにする。


 腰を落とす。

 足を開く。

 膝を少し曲げる。


 それだけで、太ももがぷるぷる震えた。


「……これだけで、もうつらいんですけど」


「なら、その姿勢が正解だ」


「これで、合ってるんだ……」


「まずは、身体の土台を作ることだ」


「今の俺の土台は砂場です」


「お前が砂場なら、アタシがしっかり踏み固めてやろう」


 ベルさんは当然のように言った。


「……お手柔らかに」


 その日の訓練は、ほとんど構えだけで終わった。


 初雪を握る。

 腰を落とす。

 崩れる。

 直される。


 地味だった。

 信じられないくらい地味だった。

 しかし、信じられないくらいきつかった。


 ――翌朝。


 俺の太ももは、見事に他人のものになっていた。

 節々(ふしぶし)の痛みと鉛のような重さで、まともに動きやしない。


「今日は、昨日より厳しくいくぞ」


「あのぅ。昨日、始まったばかりなんですが……」


 生まれたての小鹿のような足取りで尋ねる。


「昨日は初日だ。あれでも軽い方だ」


「あれで!?」


「実戦は今日からだ。構えろ」


 ベルさんは細い枝を拾い、俺の足元を軽く突いた。


「下がるな、とは言わない。だが、崩れるな」


「違いが難しい……!」


「そのための訓練だ。体で覚えて、その体で抗(あらが)え」


 その日は、足だけだった。


 一歩下がる。

 一歩横に動く。

 初雪を落とさない。

 転びかける。


 何度も同じことを繰り返すうちに、俺はようやく分かった。


 俺は剣を振る以前に、剣を持ったまま動けない。


 それだけじゃない。

 枝が来るたびに、俺の足は勝手に後ろへ下がった。


 下がろうと思ったわけじゃない。

 気づいた時には、もう膝が逃げている。


「自分で下がるのと、崩されるのは違う」


 ベルさんは、それ以上は言わなかった。


 ――さらに次の日。


 ベルさんは、俺に初雪を構えさせたまま、正面に立った。


「見るな」


「え?」


「剣だけを見るな。アタシの手だけを見るな。足元だけを見るな」


「じゃあ、どこを見ればいいんですか?」


「全部だ。全体を見ろ」


「また、無茶なことを……」


「戦場は、だいたい無茶なことばかりだ」


 枝が来る。


 俺は反射的に目を閉じかけた。


「閉じるな」


「怖いんですよ!」


「怖いなら、なおさら閉じるな。見えないものは怖いし、避けられない」


 その日の訓練は、目を逸(そ)らさないことだった。


 枝を見る。

 ベルさんを見る。

 足を見る。

 周りを見る。


 全部を見ようとして、全部が分からなくなる。


 頭も体も追いつかなかった。

 目の焦点が合わなくなっていく。


 それでも、少しだけ分かったことがある。


 怖いから目を逸らす。

 目を逸らすから、もっと怖くなる。


 ベルさんが言っていたことが、何となくつながった日だった。


 ――次の日には、ボーたちも呼ばされた。


 ボー。

 ヒョロ。

 ガーリ。


 三体がぽんぽんぽんっと現れる。


「今日はボーたちも使う」


「はい。フォーメーションとかですか?」


「違う」


 ベルさんは即答した。


「今日は、こいつらに投げさせる」


「投げさせる?」


 ベルさんは足元から小さな木片を拾い、三体の前に置いた。


「ボー、ヒョロ、ガーリ。一体ずつだ。順番は好きにしていい。リュートに向かって投げろ。すべては、お前らのご主人様の命のためだ」


 ベルさんは、わずかに口元を緩めながら淡々と言った。


「俺に!?」


「安心しろ。小さい木片だ。当たっても死にはしない」


「でも、痛みは残りますよね?」


「痛いだけで済むなら安いものだ」


 安くない。


 だが、三体はすでに木片を拾っていた。


 ボーが持っている。

 ヒョロも持っている。

 ガーリも細い手で器用につまんでいる。


 誰が投げてくるかは分からない。


「初めから上手くやろうとするな」


「え?」


「今のお前に、それは無理だ。まずは見る。避ける。できるなら、初雪で払う」


「分かりました」


「では、始めろ!」


 ベルさんの声が、少しだけ低くなった。


 ひゅっ!


 バシッバシッバシッ!


「あ、いたっ!」


 複数の箇所に痛みが走る。


「こらっ! 一斉に投げるな!」


 一体ずつ投げろというベルさんの指示は、見事に無視され、すべての木片が俺を目がけて飛んできた。


「まさかのすべて命中とは……やつらの才能か、それとも、お前の無能か……」


「おそらく、後者です」


「だろうな、知っていた」


「……」


 次の合図はなかった。


 最初に投げたのは、ヒョロだった。


「うわっ!」


 小さな木片が飛んでくる。

 俺は反射的に初雪を上げた。


 カン、と軽い音がして、木片が横に弾かれた。


「今のは?」


「偶然だ」


「ですよね」


「だが、落とさなかった。それでいい」


 次はガーリだった。

 その次はボー。


 避ける。

 弾く。

 見失う。

 足がもつれる。


 何度も繰り返すうちに、俺はようやく分かった。


 初雪を握っているだけでは足りない。

 ボーたちを見ていなければ、命令も出せない。

 自分の足が崩れれば、守られることすら難しくなる。


 ――それから、数日が過ぎたころ。


 手にできたマメがじんじん痛む。


 腕は重い。

 足は痛い。

 肩も腰も、文句しか言ってこない。


 それでも、初雪を握る感触が、少しずつ手に残るようになっていた。


 けれど、何日訓練を繰り返しても、怖くなった瞬間に足が勝手に逃げる癖だけは、なかなか抜けきれずにいた。


 自分では下がっているつもりだった。

 けれど、気づけばいつも、尻もちをついている。


「大事にしろ」


 訓練の終わり際、ベルさんは初雪をちらりと見て、短くそう言った。


 短い言葉だった。

 けれど、そこに込められたものは軽くなかった。


 俺は初雪を両手で持ち、ゆっくり頷く。


「大切にします」


 ベルさんは、それ以上何も言わなかった。


 ――その日の夜。


 せん人様は、いつの間にかいつもの場所に座っていた。


 (いつの間に戻っていたんだ?)


 火のそばで、俺は膝の上に置いた初雪を見下ろしていた。


 剣は、まだ俺の手に馴染まない。

 持てば重い。


 構えれば腕が震える。

 振れば体が流される。

 下がれば、足がもつれる。


 今はそれでも、剣を振ろう。

 これは敵を倒すための剣じゃない。

 今の俺には、そんな格好いいものじゃない。


 自分自身を守るための剣。

 震える足を、もう一度前に向けるための剣。


 そんなふうに意識しよう。


 火がぱちりと爆ぜる。


 ベルさんは向かい側で、枝を一本くべた。

 その横顔は、昼間より少しだけ静かだった。


「リュート」


「はい」


「お前は、この森を出る気はないのか?」


 火の音が、やけに大きく聞こえた。


 すぐには、答えられなかった。


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