番外編 教室の魚が見た夢
二年B組の床を覆う澄んだ水。
その水底、前から三番目の机の陰をホームグラウンドにしているのは、一匹の小さなアブラハヤだった。
アブラハヤの体長はわずか七センチほど。
体側に走る黒い筋と、半透明のひれを持つこの小魚にとって、水没した教室は広大で、安全で、そして食べ物に満ちた「地下宮殿」のような場所だった。
毎朝、水面から光の筋が差し込んでくると、アブラハヤの「一日」が始まる。
まず行うのは、机の脚の周りの巡回だ。
錆びかけた鉄製の脚には、柔らかな珪藻が付着しており、それを口先でカリカリと削り取って食べるのが大好物だった。
かつて生徒たちが脚を引いたときに付いた傷や錆の凹凸は、藻類が着生するのに最高の環境を提供していた。
「シュー……」
頭上を、大きな鹿の脚が通り過ぎる。
アブラハヤは手慣れた様子で机の天板の影へと身を隠した。
鹿が動くたびに、水底の砂が舞い上がり、そこから美味しそうな水生昆虫の幼虫が飛び出してくる。
鹿が通り過ぎたあと、アブラハヤはサッと影から飛び出し、舞い上がったごちそうを器用に捕食する。
アブラハヤにとって、この教室の地形は完璧に頭の中に叩き込まれていた。
教壇の陰は、流れがほとんどなく、水温が少し高い「憩いの場」。
廊下へと続く出入口付近は、新しい水が流れ込んでくる「フレッシュな水路」。
そして、窓際の席の近くは、太陽の光が直接届き、たくさんの虫が落ちてくる「狩り場」。
かつて人間たちが算数や国語を学んでいた空間の区切りは、魚たちにとっては「水流と光のグラデーション」として理解されていた。
午後の静かな時間、水面が静まり返ると、アブラハヤは水の中ほどで胸びれをパタパタさせながら、浮遊するように静止する。
揺らめく水面越しに見上げる天井には、緑の蔓が網目のように張り巡らされ、その隙間から揺れる青空が見えた。
魚に「夢」という概念があるのかは分からない。
けれど、揺らめく光の斑点を眺めながら、ゆらゆらと胸びれを動かしているとき、アブラハヤの感覚は教室という枠組みを飛び越え、この水路が繋がる遥か遠くの川や、まだ見ぬ広い湖へと広がっているかのようだった。
清らかな水が絶え間なく流れ込み、溢れた水が外へと抜けていく限り、この教室は決して濁ることがない。
アブラハヤは仲間の小魚たちと一列になり、黒板の前を優雅に旋回する。
水中の小さな住人たちにとって、この場所は生まれてから死ぬまでを優しく守ってくれる、かけがえのない小宇宙なのだった。




