番外編 人間がいた頃の小さな思い出
かつて、この場所が「学校」と呼ばれ、水の下ではなく乾燥したコンクリートの上に足音が響いていた頃の話だ。
ある年の秋の終わり。
夕暮れ時の二年B組の教室で、一人の男の子が一人残り、窓際の席でカリカリと木製のデスクに爪で傷を彫っていた。
その日は、転校が決まった最後の放課後だった。
友達にうまく「バイバイ」と言えなかった少年は、誰もいなくなった教室で、自分が確かにここにいたという証を残したくて、夢中で机の木目を削っていたのだ。
『ここにいたよ』
そんな言葉の代わりに刻まれた、平行な数本の傷痕。
やがて校内放送が鳴り、少年は鞄を抱えて逃げるように教室を飛び出していった。
それ以来、人間がその机に触れることは二度となかった。
数年後、山からの大雨によって過疎化が進んでいた村の堤防が崩れ、清らかな湧水が校舎へと流れ込み始めた。
人々は一人去り、二人去り、やがて校舎は完全に放置された。
しかし、建物は崩壊するのではなく、満ちてくる水と植物たちを寛容に受け入れ始めた。
少年が傷を彫ったあの机は、水底へと沈んだ。
けれど、木材は腐り果てることなく、水中で静かに固くなり、やがてその傷痕の溝から美しいエメラルドグリーンの苔が芽生えた。
さらに歳月が流れ、その場所に一頭の鹿がやってくるようになった。
鹿は少年が残した傷痕の凹凸に鼻先を寄せ、そこに生えたみずみずしい苔を好んで食べた。
少年が寂しさゆえに刻んだ傷は、数十年という時間を超えて、鹿の空腹を満たし、小鳥たちの喉を潤す「豊かなオアシス」へと姿を変えたのだ。
もし、大人になったあの少年が、今この水没した教室を訪れたとしたら、どう思うだろうか。
自分の残した傷痕が、美しい緑の刺繍となり、澄んだ水の中で魚たちや鹿に囲まれて輝いているのを見たとしたら。
きっと、かつての寂しさは消え去り、自分が残した小さな記憶が、新しい命の物語の一部として永遠に生き続けていることに、深い救いを感じるに違いない。
人間が去ったことで、歴史が終わったのではない。
人間が残していったすべての想いや傷痕すらも、自然は優しく抱きしめ、新しいファンタジーの色彩へと塗り替えていく。
今日も、かつて少年が座っていた窓際の席には、温かい日差しが降り注いでいる。
水面を渡る爽やかな風が、遠い過去の思い出と、現在の静かな命の息吹を乗せて、水没した教室の中にどこまでも優しく響き渡っていた。




