番外編 机の上のコケと古書
教卓の上に置かれた分厚い古書と、その周りを覆うエメラルドグリーンの苔。
一見すると、ただ静かに風化していくだけの物質に見えるそれらも、微小な視点から見れば、日々激しい生命のドラマが繰り広げられている「豊かな大陸」だった。
この苔の名は、ヒノキゴケ。
湿気を好み、直射日光を嫌うこの小さな植物は、数年前、風に乗って飛んできたひとつの胞子から始まった。
胞子が着地したのは、教卓の上に置き去りにされていた分厚い百科事典の表紙の上だった。
革表紙は長年の雨漏りと湿度で柔らかく腐植しており、苔の胞子にとっては絶好の「大地」となったのだ。
最初の数ヶ月、苔は静かに根(仮根)を伸ばし、古い紙の繊維の隙間へと足場を固めていった。
紙に印刷された黒いインクの文字は、苔にとっては小さな障害物であり、同時に日陰を作るささやかな凹凸でもあった。
苔は文字の形に沿うようにして緑の糸を伸ばし、少しずつ、けれど確実に本の表面を覆い尽くしていった。
やがて、苔が群落を作ると、そこに水分が蓄えられるようになる。
するとどこからともなく、小さなクモやダニ、トビムシといった極小の生き物たちが集まってきた。
彼らにとって、開かれた本の一ページは、果てしなく広がる広大な「樹海」そのものだった。
『今日の雨は、少し強いな』
苔の葉の陰で、一匹の小さなトビムシが身をひそめていた。
天井から落ちてくる大粒の水滴は、トビムシにとっては巨大な隕石のようなものだ。
水滴が苔の群落に叩きつけられるたび、緑の葉がぐにゃりと撓み、弾力をもって水滴を受け止める。
苔が吸収しきれなかった水は、本のページを伝い、伝い、やがて教卓の端から水面へと静かに滴り落ちていく。
古書の紙は、木材から作られたものだ。
人間によってパルプに加工され、薬品で固められ、文字を印刷されて「知識」となった紙。
しかし、人間がいなくなったこの場所で、紙は苔の根によって分解され、再び豊かな土壌へと還りつつあった。
人間の残した言葉や物語は、苔の緑によって覆い隠されていく。
けれど、それは知識の消滅ではない。人間が作った紙という存在が、新しい森の命を支える基盤として、別の形で生き続けているのだ。
風が吹き、古書の上に生えた苔が揺れる。
小さなトビムシは、緑の葉のジャングルをかき分け、今日も新しい生き場所を求めて冒険を続ける。
開かれた本の上で繰り広げられるこの小さな生命の営みは、だれに知られることもなく、けれど確かに、この廃校の静寂を支えていた。




