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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
97/140

97:ランドリー室での尋問

 夜の寮のランドリー室。乾燥機の低いうなりが静かに響く中、あかりは洗濯物を手早く畳んでいた。春休みとはいえ、明日の練習に備えて早く休まなければと思いながら。

 そのとき、扉が静かに開いた。姿を見せたのは、紫堂エリカだった。


 「……やっぱり、ここにいたのね」


 「エリカ……こんばんは」


 あかりが振り向き、少し驚いたように微笑む。しかしエリカの表情は、どこか硬い。普段の優雅な余裕ではなく、何かを探るような眼差しであかりを見つめていた。


 「ときどき、夜遅くに帰ってくるわよね。どこに行っているの?」


 あかりは、一瞬、手を止めた。畳みかけるようなその問いに、胸の奥がざわめいた。


 「えっと……ちょっと、外に出てただけで……」


 曖昧な答え。言いたくないという気持ちが、言葉の端々に滲んでいた。


 「ちょっとって、どこへ?」


 「……それは……」


 言葉に詰まる。喉元まで出かかった「宝生聖子の部屋」という言葉を、あかりは寸前で飲み込んだ。理由は明確だった。レッスンの内容だけではない。聖子との時間に、自分でもうまく言葉にできない期待を抱いてしまっているからだ。


 夜に講師と会う。それが校則に触れなくとも、人にどう思われるかはわかっている。だからこそ、言えない。言いたくない。


 「言えないようなことを、しているの?」


 エリカの声が、わずかに震えていた。それは怒りではなく、不安からくる感情の揺らぎだった。まっすぐにあかりの瞳を見つめるそのまなざしに、あかりは思わず目を逸らした。


 「違う! そんなことしてない。ただ……」


 「じゃあ、どうして言えないの?」


 「……それは……私にも、ちゃんと説明できないから……」


しぼり出すようなあかりの声に、エリカの目が細められる。深く息を吐いたあと、彼女は一歩だけ近づいた。


 「ねえ、あなたのことを真剣に心配してる人がいるのよ」


 その一言に、あかりははっとして顔を上げた。


 「それは、すごく恵まれていることよ。簡単に得られるものじゃない。だからこそ、その人の気持ちを……踏みにじるようなことは、しないで」


 その言葉の意味を、あかりはすぐには理解できなかった。だが、エリカの目の奥に映っていたその人の姿を、あかりは心の中に浮かべる。


 ……澪。


 「……私は……」


 言葉にならないまま、あかりは手に持っていたタオルをぎゅっと握りしめた。

 エリカはそれ以上何も言わず、静かにあかりに背を向ける。そして、ランドリー室を出ていった。

 洗濯機のうなりだけが、再び静かにあかりの耳に響いた。その場に残されたあかりは、誰に見られているわけでもないのに、なぜか胸の奥がチクリと痛んだ。



***

 

 ランドリー室を出たエリカの背中が見えなくなったあとも、あかりはその場から動けなかった。

 手の中に残った洗いざらしのタオルの感触だけが、現実につながっているようだった。


 「……私、なにやってるんだろう……」


 ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟いたその言葉に、乾燥機の風がさりと返事をしただけだった。

 エリカの言葉が胸の奥に残っている。


 ――あなたのことを真剣に心配している人がいるのよ。


 その誰かが誰なのかは、言われなくてもわかっていた。

 澪。


 いつからだったろう。

 あの穏やかな瞳が、自分を見守るものだと気づいたのは。

 いつも寄り添うように笑ってくれて、時に厳しく、けれど優しい声で助けてくれて。自分が落ち込んだときには、言葉を選んで、静かにそばにいてくれた。


 あかりは思い出す。文化祭の舞台のあと、夜の教室でふたりきりで交わしたセリフ。

 「ロミオとジュリエット」になりきって、本気で演じたあの時間。

 聖子の特別レッスンで学ぶことは、間違いなく舞台に生かされる。聖子の演技には学ぶべきことがたくさんあったし、その存在は憧れそのものだった。


 でも――


 その気持ちの中に、憧れだけじゃない何かが混じっていることに、あかり自身、気づいていた。

 時折見せる聖子の距離の近さ。

 大人びた微笑み。

 レッスンの合間に交わされる、舞台とは関係のない言葉。

 心のどこかで、自分も特別に見られたいと思ってしまった。それが聖子の本心ではないと、わかっていても。


 ――だから、澪にもエリカにも言えなかった。


 ただのレッスンなら、きっと隠す必要はなかった。

 でも自分の中に、後ろめたさがあるから、黙っていた。

 澪やエリカに、正面から目を合わせられない自分がいた。


(こんなの……情けない)


 あかりは唇をかんだ。


 ――舞台の上では、自分は「誰か」になる。

 けれど、その「誰か」になるためには、舞台の外の自分を、もっと強く、まっすぐにしなきゃいけない。


(私は……何になりたい?)


 舞台に立つ人間。

 男役として人を惹きつける存在。

 観客の心を震わせる、その中心にいる人。

 でも、それだけじゃない。

 見てくれる人の心に届く演技をするためには、自分自身の感情にも、覚悟にも、正直でいなきゃいけない。


 聖子に教わることは学びとして大切。

 でも――


 「私は……誰かの真心を裏切るような、舞台人にはなりたくない」


 ポツンとつぶやいた言葉に、自分の決意がこもっていた。

 このままじゃ、澪に――エリカに――舞台に立つ資格がない。

 それがあかりの正直な気持ちだった。


**


 その夜、あかりは寮の部屋に戻ると、そっと机の引き出しを開けた。

 中にしまってあったのは、鹿児島を出るときにバレエ教室の講師の志賀まどかから渡された舞台ノート。


 1ページ目に記された、まどかの文字。


 > 「舞台人は、舞台に立つときだけ舞台人であってはならない」


 元劇団だったまどかの言葉はあかりの胸にすっと入ってくる。

 あかりは、その言葉を今ようやく、胸にしっかりと受け止めることができた気がした。

 そっとノートを閉じ、電気を消してベッドに入る。

 隣のベッドからは、澪の静かな寝息が聞こえていた。

 ごめんね。

 心の中で小さくつぶやく。


 そして――


 ありがとう。

 目を閉じたあかりの胸には、ほんの少しだけ、自分に誇れる何かが芽生え始めていた。



***


 ランドリー室を出たエリカは、そのまま無言で寮の廊下を歩き、自室のドアを閉めると、静かに息をついた。

 深夜の寮はしんと静まり返っている。

 階下で乾燥機がまわる音も、もうここまでは届かない。

 自室のベッドに腰掛け、エリカは脚を組み替えながら、さっきの自分の言葉を頭の中で反芻していた。


 ――「言えないようなことを、してるの?」


 あのときのあかりの表情。

 驚いたような、どこか怯えたような目。


(……私、また強く言いすぎたかもしれない)


 ふぅ、とため息が漏れる。

 いつもなら、もっと余裕を持って、言葉を選べたはずなのに。

 わかってる。

 澪の気持ちは、自分には向けられていない。

 舞台の上では、対等に競い合う存在かもしれない。

 けれど、それ以上にはなれない。

 澪の視線は、いつも、いつだって――


(あの子を見てる)


 鷹宮あかり。

 あの不器用で、感情のままに突っ走るような子。

 舞台経験も浅く、技術は粗削りで、感情表現もまだまだ子どもじみてる。

 でも、舞台の上で、その「生の感情」が観客の心を動かしてしまう瞬間がある。


(悔しいな……)


 エリカはそう思った。

 ただ、悔しいだけではない。

 心の奥底に、かすかな「羨ましさ」も混じっていた。


(あの子は――澪の心を動かせる)


 自分にはできないことだ。

 どんなに洗練された演技をしても、どんなに舞台で堂々と立ち回っても、澪は振り向かない。澪の目が真っ直ぐ追っているのは、あかりなのだ。


(だから……つい、あんなふうに)


 ランドリー室で投げつけた言葉。

 あかりが答えられないことを、わかっていて追い詰めた。

 そんなこと、自分が一番嫌っていたやり方なのに。

 エリカは髪をかきあげ、天井を見上げた。

 部屋の照明の柔らかな光が、白い天井に滲んでいる。


(でも……あの子、一体どこで何してるの?)


 ふと、素朴な疑問が胸に浮かぶ。

 あかりが澪や自分たちと離れて行動していた時間。

 夜、姿が見えないこともあった。寮にいない時間――あの「空白の時間」が、今の彼女の急成長と関係しているのではと、心のどこかで感じている。


 舞台の上での目線の使い方。

 感情のこめ方。

 セリフの間合い。

 演技の全てが変わり始めている。


(もし、その裏に何かがあるのなら――)


 それを知りたいと思ってしまう。それは嫉妬なのか、好奇心なのか、自分でもわからない。ただ、確かなのは、その「なにか」が、自分にはないものであるという感覚。

 でも、エリカはすぐに思考を打ち消した。


(……私は紫堂エリカ。学年主席。誰の真似でもない、私だけの道を行くって決めたじゃない)


 自分は自分の方法で、観客を魅了する舞台人になる。

 他人を追って不安になっていたら、トップにはなれない。


(そう。焦る必要なんて、ない)


 自分の信じた稽古を続けること。

 舞台に、嘘のない演技を乗せること。

 それが私のやり方。


 ――でも。


 心の奥に残る、ほんのわずかなざらつき。

 それは、あかりという存在が、エリカにとってただのライバルではなく、舞台の上でも、澪との間でも、意識せずにいられない特別な存在である証だった。

 ベッドに横たわり、目を閉じる。


(……あかり。あんた、どこへ向かってるの?)


 その問いの答えは、まだ闇の中だった。

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