96:少しずつ、だけど確実に縮まる距離
春休みの終盤のある午後。
校舎は、まるで昼寝をしているかのように静まり返っていた。多くの生徒たちはまだ帰省先から帰っておらず、専門学校の廊下には誰の足音もない。ぽかぽかとした陽射しが窓から差し込むなか、澪は一人、ダンススタジオに足を踏み入れていた。
「あかり、今日は戻らないのかしら……」
声に出してみたが、返事はない。当然だ。あかりは朝から「ちょっと行ってくる」と言って出かけていた。目的地も、何をしに行ったのかも、何も言わずに。
(……きっと、外で自主練ね)
そう思いながら、澪はストレッチマットを敷き、静かに準備運動を始めた。誰もいない教室。誰の視線もないのに、どこか落ち着かない。春の陽光が反射する床に、彼女の長い手足の影が伸びていく。
その時。
「今日は、珍しく一人なのね」
不意に背後から声がした。
澪は軽く息を呑んで振り返る。そこには、すらりとした長身の少女――紫堂エリカが立っていた。ストレートに伸びた髪が肩にかかり、制服のリボンの端を指で弄んでいる。表情はいつものように涼やかで、けれどどこか緊張した色がうっすらと浮かんでいた。
「ええ」
澪は短く答える。それだけで、視線をそらした。
(また来た……)
最近のエリカは、よくあかりや澪に接触してくる。時折あかりと3人で練習したり。そしてどこか不器用で、でもまっすぐな瞳で澪を見つめてくる。
そして――その瞳に宿る気持ちを、澪はなんとなく、感じていた。
「……じゃあ、今日は、二人で練習しない?」
その言葉に、澪は少し驚いたように目を見開いた。エリカは、少しだけ頬を染めて、それでも逃げずに澪の目を見る。決して強引ではない、けれど退かない静かな誘い。
(……あかりがいない今、一対一で練習……)
戸惑いが胸の奥で渦を巻く。けれど、ふたりは最近、少しずつ話せるようになってきた。エリカは意外と努力家で、バレエも真面目に取り組んでいる。なによりあかりが信頼している相手でもある。
「……わかったわ」
小さく頷いたその瞬間、エリカの目がふっと柔らかくなった。ホッとしたような、嬉しさを抑えているような。
「ありがとう」
そう言って、エリカはストレッチマットを澪の隣に敷いた。
まずはバレエの基礎練習から。バーに手を添え、プリエ、タンジュ、ルルヴェ。ふたりの動きが、淡い光のなかで交差する。
最初はぎこちなかった。呼吸のタイミングも、視線の交わし方も、不自然なほど慎重だった。
けれど、澪がターンを終えて静止した瞬間、エリカが思わず小さく漏らした。
「……綺麗」
澪は戸惑ったように振り返る。
「え?」
「あなたの動き。線がすごく、しなやかで映画のワンシーンみたいって、前から思ってた」
その言葉に、澪はほんの一瞬だけ視線を揺らした。けれど、すぐに踵を返し、次の動きへと移った。
「練習を、続けましょう」
「うん」
エリカはそれ以上、何も言わなかった。ただ、その背中を見つめながら、隣で同じ動きを繰り返す。
淡く、けれど確かに、ふたりの距離は少しずつ縮まっていた。
コンビネーションダンスの曲が流れ出す。軽やかなリズムに乗って、澪とエリカは互いの呼吸を感じながら動きを合わせていく。腕のライン、ステップのタイミング、身体の軌道。そのひとつひとつが、まるで見えない糸でつながっているようだった。
ふたりは向かい合い、ステップを踏みながら徐々に間合いを詰めていく。動きの流れの中で、澪がスッと一歩踏み出した瞬間——その顔が、エリカの間近に近づいた。
(…ち、近い…)
エリカの心臓がどくんと跳ねる。
澪の睫毛の影が頬に落ちるほどの距離。その透明な瞳の奥を覗き込むような錯覚に、エリカは一瞬、世界の音がすべて消えたような感覚にとらわれた。
「……っ!」
咄嗟にエリカはバランスを崩し、後ろにぐらりとよろめいた。
「エリカっ!」
澪がすぐに駆け寄り、倒れかけたエリカの肩に手を添えた。
しかしエリカは、澪の手を受け取ることなく、すぐに自分の足で立ち直る。
「大丈夫よ、ありがとう。……続けましょう」
そう言って、まっすぐ立ち上がったエリカの表情には、微塵の動揺も見えなかった。
その瞳には、いつも通りの静かで澄んだ光が宿っていた。けれど、指先がほんの少しだけ震えていたことに、澪は気づかなかった。
「……ええ」
澪はそれ以上は何も言わず、ふたたび決められたポジションに戻る。
音楽が再び流れ出す。ふたりの身体は滑らかに、そして正確に動き始めた。
それ以降、ふたりのあいだには言葉がなかった。
けれどその沈黙の中には、互いを意識しすぎないようにする気遣いと、それでも確かに通じ合っていくような、不思議な緊張と静けさが漂っていた。
やがて曲が終わると、ふたりは軽く息を整え、黙って目を合わせた。
けれど、どちらもその先に何も言おうとはしなかった。
再び音楽が流れる。
淡々と、けれど確実にふたりの距離は縮まっていく。
けれど心の中にあるものは——
まだ、言葉にできないままだった。
***
数曲分のコンビネーション練習を終えた後、ふたりはそっと音楽を止めた。まだ陽は高いが、窓から差し込む光は少しずつ柔らかさを帯びていた。汗ばんだ額を軽く拭いながら、エリカは息を整える。
「……ふう、いい練習になったわ」
そう言って、エリカは少しだけ微笑んだ。その目元にはどこか、柔らかい充足感が宿っている。
「あなたたちのおかげで、有意義な春休みを過ごすことができたわ」
「それならよかった」
澪はそれ以上多くを語らず、タオルを肩に掛けながら短く応じた。だが、その声にはほんのわずかな笑みが混じっていた。
「……それにしても、鷹宮あかり。最近、ぐんと成長してる。私、うかうかしていられないわね」
エリカは鏡の中に映る自分の姿を見ながら、ふっと目を細める。その声音には、少しの焦りと、認めざるを得ない相手への敬意が込められていた。
「そうね。あかりはあかりなりに、必死にみんなに食らいつこうとしてる。たぶん、自分の実力と不安のあいだで、ずっともがいてるのよ」
「……努力してるの、わかるわ。夜遅くに帰ってくる姿、何度か見かけたから。最初は心配もしたけれど……あなたがそばにいるなら、大丈夫よね」
「……」
澪の手が、タオルを握りしめるように少しだけ強くなった。
「それが……私にも話してくれないの。あかりが、どこに行ってるのか。気づいてるけど、聞いてもごまかされる」
「……そう」
エリカの声に、微かな陰りが差す。澪の横顔を見つめながら、言葉を選ぶように口を閉じた。
澪は視線を少し落とし、鏡台の上に置かれた水筒に視線を向ける。そこに映る自分の顔が、どこか頼りなく見えた。
「……私、頼りになってないのかなって、少し思ったりするの」
「そんなこと……」
言いかけて、エリカは言葉を飲み込んだ。澪の表情には、ふだん舞台の上では見せない弱さが宿っていた。きっと、あかりが心のどこかで何かを抱えていることに気づきながらも、それを共有してもらえない寂しさを感じているのだろう。
「……きっと、今はまだ自分の中で整理がつかないだけよ。澪に甘えていないわけじゃない。むしろ、誰よりも澪の存在に救われてると思うわ」
「……そうだといいけど」
澪の目が、静かに揺れる。
その横で、エリカもまた、あかりの背中を思い出していた。
夜の廊下を、誰にも気づかれぬように歩く細い影。けれどその歩幅には、確かな決意が宿っていた。胸の奥に何かを抱えながら、それでも前に進もうとする姿。
(……いったい、あの子は何を見て、何を目指しているのかしら)
エリカの心にも、言いようのないざわめきが広がっていた。
そして何より——隣で曇った表情を見せる澪に、そっと手を伸ばしたくなる自分がいることに、エリカ自身が少し興奮していた。




