95:大切に育てられた花は美しい
聖子の部屋でのレッスンを終え、昼下がりの陽射しが柔らかく降り注ぐ中、鷹宮あかりは花壇に向かっていた。
寮の裏手にある花壇にしゃがみこみ、じょうろを傾けた。水のしずくがキラキラと太陽の光にきらめきながら、咲き誇る花々の葉を伝い、土に吸い込まれていく。チューリップ、パンジー、マーガレット。それぞれが競うように彩りを放っている。
あかりはふと、じょうろを置き、額の汗をぬぐった。
そのとき。
「……いい顔してるわね」
振り返ると、そこに立っていたのは――如月玲奈。
午後の光の中、白いパンツスーツに身を包んだ玲奈は、まるでステージのスポットライトを浴びているかのようにまぶしかった。凛とした眼差しを向けながら、玲奈は歩み寄ってくる。
「お疲れさま。お花の世話、ずいぶん丁寧にやってくれているのね」
「はい。私、この花壇が好きで。ここ、春になると、いちばん元気なんです」
「ふふっ、あかりらしいわ」
玲奈はあかりの隣にしゃがみ、土の香りに顔を近づけた。
「アルバイト……劇団ではどうだった? 一日中、裏側での仕事だったでしょう?」
あかりは一瞬、返事に迷い、でもすぐに笑顔を浮かべた。
「……すごく大変でした。でも、それ以上に、楽しかったです」
「どんなことが楽しかった?」
「お客様の顔を見たときです。ロビーでグッズを買ってる人たちや、パンフレットを手にして開演を待ってる人たちが、本当に嬉しそうで……。ステージに立つ人だけじゃなくて、劇団全体が夢をつくってるんだって、感じました」
玲奈は黙ってうなずいた。
「それに、私……改めて思ったんです」
「何を?」
あかりは空を仰いで、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「私も、夢を届ける舞台人になりたい。観ている人の心に、キラキラとか、わくわくとか、何か希望みたいなものが残るような……そんな舞台をつくれる人に」
玲奈の目が少し潤んだように見えたが、すぐに優しく目を細めて、そっとあかりの頭を撫でた。
「その気持ち、忘れないで。光を届けたいって思う人にしか、本当の光は宿らない。あかり、あなたはいい舞台人になるわ」
「ありがとうございます」
玲奈は立ち上がり、足元の花に目を落とした。
「この花壇も、あなたみたいね」
「え?」
「根を張って、水を吸って、陽を浴びて、やがて咲く、誰かの心を癒す花。どんな花が咲くか、今はまだ誰にもわからないけれど、大切に育てられたその花はきっと美しく咲くわ」
あかりは何も言えず、ただじっと花壇を見つめた。
玲奈が歩き出す気配を感じて、あかりも立ち上がろうとしたそのときだった。
「春休み、もうすぐ終わるわね」
玲奈の声が背中越しに届いた。あかりははっとして立ち上がり、少し戸惑いながらも小さくうなずいた。
「はい……あっという間でした」
「新学期の準備は、できている?」
その問いかけは柔らかだったが、どこかに鋭い眼差しが潜んでいるようでもあった。
あかりは思わず、手のひらを見下ろした。澪とエリカと3人で汗を流した春休みの日々。聖子とのレッスンで涙を流した心。それらが、ほんの少しだけ、自分を強くしてくれた気がした。
「……少しは、自信がつきました。でも、もっと頑張らないとって、思っています」
玲奈は振り返らず、わずかに顔を横に向けた。
「そのもっとが、大事よ」
「……?」
「もっと上に行きたいと思うなら、まずは――苦手をなくしなさい。演技でも、ダンスでも、歌でも。あなたが避けていることは、誰かが武器にしている」
その言葉に、あかりの胸がどくんと鳴った。図星だった。自分の中にまだ拭いきれない弱点――それを、ずっと目を逸らしてきたことを、玲奈には見透かされている。
「できることだけで戦おうとしないこと。できないことに挑む覚悟が、あなたの可能性を広げるのよ」
玲奈は足を止め、ゆっくりと振り返った。
「もうすぐ、2年生になるわね」
「はい」
「2年になれば、配役争いはもっと熾烈になる。友達だと思っていた子が、突然ライバルになることだってある。舞台の上では、“実力”がすべて。情や過去の努力じゃ、役は勝ち取れない」
あかりは何も言えず、ただ静かにその言葉を受け止めていた。
「この春休みが……おそらく、あなたがのんびり過ごせる最後の時間よ」
玲奈はそう言い残すと、もう一度歩き出した。だが、数歩進んだところでふと立ち止まり、再びあかりの方へ視線を向けた。
「それでもあなたが、この道を選び続けるなら……きっと、次の花を咲かせられるわ。諦めないで」
微笑みとともに残されたその言葉は、やさしい風のようにあかりの胸に沁み渡った。
玲奈の姿が講師棟の陰に消えたあとも、あかりはしばらく動けなかった。風に揺れる花の向こうで、自分の中にもなにかが静かに芽吹いている――そんな予感だけが、確かに残っていた。
――この夢を、きっと咲かせる。
あかりは心の中で、静かにそう誓った。




