94:聖子の過去
春休みの朝は、どこか不思議な静けさを纏っていた。
前日に劇団の裏方仕事として一日中劇場にいたあかりは、疲労感をまといながらも、朝から心のどこかがざわついていた。
──今日は、夜ではなく、昼前に行こう。
理由はない。ただ、いま聖子先生に会いたい。それだけだった。
聖子の部屋の前に立ち、軽くノックをする。
コン、コン……沈黙のあと、内側から鍵の外れる音がして、扉が少しだけ開かれた。
「あら」
差し込んだ光の中に、宝生聖子が現れる。
ゆったりとしたワンピース姿に、肩には薄いカーディガン。普段よりも少し柔らかい表情をしていた。
「珍しい時間に来たのね」
「……はい。お昼前に、お邪魔してもいいかなって思って」
聖子は一瞬、何かを測るようにあかりの目を見つめたあと、ゆっくりと頷いた。
「いいわ。入って」
招かれるように部屋に入ると、窓から春の日差しが差し込み、室内はいつもよりも明るく、穏やかな空気が流れていた。
ソファに座ると、あかりは昨日の劇団でのアルバイトの話をぽつぽつと語り始めた。
舞台の裏で見た舞台装置の稼働、照明チームの連携、袖から見た舞台の魔法のような光景。
聖子はあかりの話に頷きながら、静かに耳を傾けていた。
「……みんな、必死でした。舞台って、あんなにたくさんの人が命をかけて動いてるなんて……感動しました」
「そうね。それでも、観客が見るのは役者の顔だけ。だからこそ、演じる側は――命を削るのよ」
その言葉には、かつての舞台女優としての重みが滲んでいた。
ふと、聖子があかりの方へ身を乗り出した。
部屋に朝の光が差し込んでいた。昼前の時間とは思えないほど静けさに包まれている。窓辺に咲く白いカサブランカの花が、香り高く揺れていた。
「では、始めましょうか。今日は悲しみの演技」
聖子は静かに立ち上がり、ピアノの前に向かう。音を出すのではなく、鍵盤の前に手を置いて、あかりに視線を向けた。
「悲しみ……ですか?」
「ええ。ただ泣けばいい、という話じゃない。悲しみには、記憶、後悔、祈り、そして希望が混じっていることもある」
聖子は立ち上がり、部屋の片隅にある稽古スペースへあかりを促した。
「あの……先生」
あかりは躊躇いがちに口を開いた。
「悲しみって……どう演じればいいか、まだよく分からなくて」
聖子は微笑まずに、むしろ少し厳しい目で彼女を見た。
「分からなくて当然よ。でも、悲しい顔を作るだけが演技ではないわ。悲しみというのは、心の奥でどうしようもなく静かに沈んでいくもの。表に出るよりも、隠されるもののほうが深いのよ」
あかりは黙って頷いた。
聖子が続ける。
「たとえば……失うということ。誰かを。夢を。自分自身を。そういった経験、あなたにはある?」
あかりは少し考えた。幼い頃に祖母を亡くしたこと。けれどそれは、舞台の悲しみに繋げられるほど深いものなのか、自信が持てなかった。
「先生は……ありますか?」
唐突な問いに、聖子は微かに眉を動かした。そして、ふと目を逸らし、窓の向こうを見つめた。
「ええ。あるわ。……とても、大切なものを手放したことがある」
それが何かを聞きたい衝動にかられながらも、あかりは言葉を呑んだ。すると聖子が静かに話し出した。
「私が若い頃――全力で舞台に立っていた。何もかもを賭けて、輝きを追っていたわ。けれど……その分、失ったものもあった。愛する人と過ごす、たった一日の安らぎすら、諦めなければならないときもあった」
あかりは息を呑んだ。その目は、ただ尊敬する元スターを見るのではなく、一人の人間として、心に痛みを抱えた人を見ていた。
「演じる時、その痛みがほんの一滴でもあなたの中にあるなら、それを丁寧にすくい上げて。無理に泣かなくてもいい。ただ、自分の中にその感情が“存在する”ことを、まず受け入れて」
あかりの喉が詰まりそうになった。
「……先生は、それでも舞台を、捨てなかったんですね」
聖子は微かに笑った。
「ええ。舞台には、悲しみさえも美しく昇華できる魔法がある。だから私は、今でもこうして……教えているのよ」
静寂が流れた。
外の空にカラスの声が響いたとき、聖子がピアノの鍵盤に指を落とした。短い旋律が部屋に満ちる。
それは、どこか懐かしく、胸の奥を締めつけるような響きだった。
聖子の過去に触れた気がした。
そして、それを託された気がした。
「さあ、あかり。あなたの悲しみを、私に見せてちょうだい」
あかりはゆっくりと立ち上がり、一歩、前に出た。胸に手を当てる。
その奥に確かにある、小さな傷――まだ誰にも言えなかった、不安や孤独、失った夢の断片たち。
それをひとつ、ひとつ、丁寧に拾い上げていく。
そして、演技が始まった。
***
あかりが演じる「悲しみ」は、最初は形にならなかった。
だが、次第に――動きや表情のわずかな変化に、何か響くものが宿りはじめる。
あかりはセリフを一言も発さず、ただその場に立つだけで、胸の奥に沈めた想いを少しずつ掬い上げていく。
聖子はその様子をじっと見つめながら、自身の過去を思い出していた。
(あの頃の私は、どうしてあんなに強がっていたのかしら……)
かつて――宝生聖子が男役2番手として舞台に立っていた頃、すでに「次期トップスター」の椅子は確実なものとされていた。
容姿、歌唱力、演技力、全てが劇団内でも抜きん出ていた彼女に、誰もが憧れた。客席には、彼女だけを目当てに何度も足を運ぶ熱烈なファンもいた。
だが、彼女には人知れぬ秘密があった。
――恋人が、女性だったのだ。
当時、宝生が愛していたのは、舞台スタッフとして裏方を支えていた同い年の女性だった。毎日の稽古で声を潰しそうになった夜に、ふたりで交わす言葉が救いだった。誰にも見せない涙をその人の肩で流し、束の間の温もりに自分を許していた。
たとえ夢の中心にいたとしても、そこに人間としての居場所がなければ、孤独が深く染みてくる。
しかしその関係が、劇団に知られた。
「トップスターになるのなら、彼女と別れなさい」
ある日、上層部からそう告げられた。
それは、選択ではなく命令に近かった。
劇団は恋愛そのものを良しとしない世界で、まして同性との関係などはスキャンダルとしか見なされない。
聖子は悩みに悩んだ。
恋人の手を取り、どこか遠くへ逃げてしまおうかとも思った。
でも、恋人は彼女に言ったのだ。
「あなたが舞台の上に立つことが、何よりの幸せでしょ。だから……私のことは気にしないで」
その言葉を聞いたとき、聖子は心が砕ける音を感じた。
結局、聖子はトップスターの道も、彼女の手も選ばなかった。
自ら劇団を退団し、愛した人の元からも去った。
(なぜ、すべてを失ってしまったのか。今でも、正しかったのかは分からない)
あの退団公演の翌朝、聖子は誰にも見送られず、劇団の寮を出た。
スーツケースひとつだけを持ち、夜明けの街を一人で歩いたあの光景は、今も鮮明に心に焼きついている。
表舞台を去ってからの5年間――舞台にも、愛にも背を向け、ただ生きるだけの毎日だった。そんな彼女に手を差し伸べてくれたのが、今の専門学校の理事長・御影洋子だった。
「あなたの技術と魂は、まだ誰かを導ける」
洋子の言葉に、聖子は再び――ほんの少しだけ、舞台の光に背を向けずに済むようになった。
そして、今。目の前で“悲しみ”を探るあかりの姿が、あの日の自分と重なる。
(この子は、まだ何も知らない。けれど――確かに、内側に“何か”を持っている)
あかりの手が、虚空をそっと撫でる。
その動きに、聖子の記憶が不意に波立った。
あのとき、彼女の髪に触れた指先。
最期に交わした言葉。
微笑みながら、遠ざかっていった後ろ姿。
「ストップ」
聖子は小さく手を上げ、あかりの演技を止めた。
あかりははっとして顔を上げる。
「す、すみません……まだ上手くできなくて……」
「違うわ。……とても良かった」
聖子はあかりに背を向け、窓の外を見ながら静かに言った。
「あなたの中にあるものが、私には分かった。あなたは――きっとこの先、もっと深く、もっと美しく悲しみを演じられるようになるわ」
「先生……」
振り向いた聖子の目は、少しだけ潤んでいた。
けれど、それをあかりが指摘することはなかった。
あかりはただ、胸の奥にずっと残りそうな哀しみの形を、自分の中に刻みつけるように、その場に静かに立ち尽くしていた。




