93:キラキラの向こう側へ
春の風が少し柔らかくなり始めた頃、あかりたちは天翔歌劇団の大劇場で、1日だけのアルバイトを頼まれていた。
声をかけてきたのは、演技講師の如月玲奈。
「現場を知るというのも、舞台人の勉強よ」と、彼女は穏やかに言った。
あかりと澪、エリカ、そして麻琴の4人は、制服に近いスーツを身につけ、大劇場のエントランスに立っていた。
任されたのは、来場者がスマートフォンのQRコードを読み取り機にかざすのを補助する仕事。観劇の第一歩の扉を開く手助けだった。
あかりは、ひとりひとりのお客さんを見つめながら、どこか胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
彼らの目が輝いていたからだ。
年配の夫婦、親子連れ、学生服の少女たち、1人で来た女性客、車椅子の来場者。どの人の目にも、これから見る夢へのときめきが宿っていた。
「○○さんの役ってどんなんでしょうね」
「今日も△△さんはアドリブをするのかしら」
「男役のあの方、表情がすごくて……」
断片的に届いてくる会話が、あかりの心を小さく揺らす。
ああ、この人たちは、夢を見に来たんだ――舞台を愛しているんだ、と。
「こんにちは。QRコードはこちらにお願いします」
笑顔で迎えながら、あかりは目の前の来場者の少女と視線が合った。
おそらく中学生だろうその子は、スマホを震える手で差し出しながら、あかりをじっと見て小さくつぶやいた。
「……すごく綺麗。劇団の人ですか?」
「いえ、まだ学生なんです。でも、いつか舞台に立ちます。必ず」
自然と出たその言葉に、少女は顔をぱっと輝かせて、「応援してます」と言ってゲートをくぐっていった。
その背中を見送りながら、あかりは胸を押さえた。
鼓動が、舞台の照明みたいに高鳴っていた。
(私も……こんなふうに、見に来てくれる人の目を輝かせられる存在になりたい)
舞台に立つ者として、ただ踊る、歌うのではない。
見る人の記憶に残る男役として、誰かの心を動かす舞台人に、私はなりたい。
風が少しだけ強く吹いて、桜の花びらがエントランスに舞い込んだ。
遠くから、劇場の開演ベルが鳴った気がした。
隣に立つ澪も、その音にふと顔を上げていた。
エリカは無言のまま、何かを確かめるように劇場の扉を見つめていた。
麻琴は少し離れた柱の影で、緊張した顔をしていたが、それでも懸命に自分の仕事をこなしていた。
この劇場の中で、いつか自分も――そう思える日が、確かに来る。
その確信を、あかりは胸に刻みながら、次の来場者に笑顔で声をかけた。
**
春の光の中、彼女は静けさの衣をまとっていた。
大劇場の正面玄関。
まだ開演には間があるというのに、すでに歩道には観客たちの列がゆっくりと伸び始めていた。
その入り口の一角、チェックゲートのすぐ傍に、一人の少女が立っていた。
綾小路澪――完璧なまでの容姿を持つ少女。
制服の上に羽織った紺のスタッフ用ベストさえ、彼女が纏うとどこか舞台衣裳のように映えた。
見る者は、誰しも一度は息を呑んだ。
陽光の下で澪の肌は薄く光を弾き、黒髪は肩のあたりで柔らかく波打っている。まつげの影が長く伸び、伏せた眼差しの中に、ひんやりとした静けさがあった。
客の一人が、受付を済ませながら思わず口にした。
「……まるでポスターから抜け出してきたみたいね」
澪はその言葉にわずかに眉を動かしたが、何も答えず、ほんの少しだけ口元を整えるように笑った。
それは無意識の仕草だった。
けれど、その微笑の形には、どこか訓練された美のようなものがあった。誰からも愛されるために整えられた、けれど、どこか薄氷のようなもの。
「おはようございます、チケットのご準備をお願いします」
柔らかな声が、行き交う人の流れに溶けていく。
彼女の声は通るのに、決して高くなく、騒がしさに負けない芯のある声だった。
通り過ぎる観客の多くが、振り返る。中には「役者さんですか?」と尋ねる者もいた。
けれど澪は、どんな時も表情を崩さない。
その涼しげな目の奥にだけ、かすかに揺れる灯があった。
――彼女は今、考えていた。
(私は、見られることに慣れてきたのだろうか。それとも……慣れた“ふり”が、うまくなっただけ?)
どちらにしても、役者として舞台に立つ以上、見られる美を拒むことはできない。そして、それを使いこなすことが武器になることも、澪は痛いほど理解していた。
だけど――ふと、浮かんだのは朝、談話室であかりと交わした短い会話だった。
「ねえ、澪。今日、すっごく似合ってるよ、そのベスト。モデルさんみたい」
「……そう?ありがとう」
そのとき、ほんの少しだけ、澪の心が柔らかくなったのを自分でも感じた。
彼女は思う。
(見た目の話なのに、不思議と嫌じゃなかった)
あかりは、まっすぐな目で澪を見る。
そこには、羨望も憧れもある。けれど、嫉妬や諦めではない。
その真っ直ぐな眼差しを思い出すと、ほんの少しだけ背筋が伸びる気がした。
やがて開演の時刻が近づき、入り口は慌ただしさを増していく。
澪は、一歩引いて列の流れを誘導する。
(この大劇場の空気を、私はまだ知らない。観客として来たことさえ、ない)
だが、夢はこの奥にある。
巨大な緞帳の向こうで、誰かが今日も主役を演じ、観客の拍手を受けている。
(その未来に、私は立てるのだろうか)
澪の目が、劇場のドアの向こう――観客がまだ見ていない舞台の世界を見つめた。
その瞳は、美しさの仮面の奥に潜む、静かな情熱でかすかに光っていた。
**
大劇場。
白い大理石のロビーを一歩奥に入れば、そこはもう別世界だった。
廊下を隔てて並ぶ楽屋、舞台袖、調光室。緊張感と熱が交差する舞台裏には、今日も重ねられてきた歴史の匂いが満ちていた。
午後、公演直前の打ち合わせ。
演出家の五代圭一郎は手に持った演出プランの紙束を置き、スタッフに簡潔な指示を飛ばすと、横に立つ男役トップスター・雪城環に目をやった。
「ねえ、環。さっき受付でひときわ目立つ子がいたって話、聞いた?」
環はミネラルウォーターのボトルのキャップを閉めながら、少し首を傾けた。
「ふふ、また?この劇場、目立つ子の話は毎回どこかで上がってる気がする」
「でも今回は、ちょっと違う。観客が”新人さんかと思った”って言ってたんだよ」
五代は話しながら、自分のメモ帳をめくった。そこには黒字で小さく、受付に立っていた彫刻のような少女というメモがある。
「名前は……綾小路澪。天翔の専門生で、いま春休み中にアルバイトに来てるらしい」
「専門生?」
環の眉が、わずかに持ち上がる。
「ただ綺麗なだけじゃなくてね――見た人が”目が離せなかった”って言うのよ。表情も、佇まいも、どこか物語を背負ってるみたいだったって」
五代は椅子に浅く腰をかけ、指先でこめかみを押さえる。
「こういう子を見つけたときが一番、厄介なんだよ。舞台に立っていないのに、舞台を想像させる。育てるか、それとも……そのまま見逃すか」
環は、ふと劇場入口の方向に目を向ける。
「一度、姿を見てみたいわね。ほんとうに舞台向きかどうか」
五代は笑った。
「そのうち舞台に上がってくるさ、きっと。だって――劇場が、彼女を待ってるような気がするから」
どこか確信を含んだ口調だった。
そのころ、ロビーでは澪が淡々と観客の誘導を続けていた。
彼女は、自分の名前がまだ知らない誰かの口にのぼっていることを、まだ知らない。だが、誰かに見つかるということは、既に舞台に向かう第一歩なのだ。
照明の灯るそのときが、確かに近づいていた。
***
「休憩時間の間に、ちょっとだけ、裏を見学させてもらえるって」
スタッフの方がそう言ってくれた瞬間、あかりの胸は高鳴った。
大劇場の裏側──舞台袖、搬入口、楽屋、稽古場。それは天翔歌劇団を目指す生徒たちにとって、まさに夢の聖域。
あかり、澪、エリカ、そして麻琴の4人は、係員に案内されながら、静かに舞台裏へと足を踏み入れた。
最初に案内されたのは、舞台袖。
目の前には、まるで海のような黒幕の波。スポットライトの陰に隠れて、ただひっそりと立ち尽くす舞台装置たち。幕の向こうには、客席を埋め尽くす観客たちの気配が感じられた。
「……ここから見てたんだね。出番を待つ人たちは」
あかりがぽつりとつぶやくと、澪はそっと頷いた。
「うん。ここは……祈る場所みたい」
黒い床に目を落とすと、微かに踊り子たちの靴跡が残っていた。
その一つ一つが、積み重ねられた努力と緊張と歓喜の記録のようだった。
ふとエリカが立ち止まる。
「……香りがする」
「香り?」
と麻琴が聞き返す。
エリカは微笑む。
「緞帳の奥に残ってる……舞台の匂い。スモークや汗や化粧、それから……拍手の音まで染みこんでる気がする」
その言葉に、あかりは息を呑んだ。
舞台は見るものではなく、生きているもの――そんな気がした。
次に案内されたのは、衣裳部屋と楽屋通路だった。
衣裳部屋には、色とりどりのドレスやタキシードが、まるで誰かの記憶を纏っているかのようにずらりと並んでいた。金や銀の刺繍、宝石のようなボタン。その一つ一つに、光の物語が封じ込められていた。
「これ、持ち主の名前が書いてある……!」
あかりが見つけたのは、かつてのトップスターの名前が縫い込まれたタキシード。
思わず背筋が伸びた。
「どんな気持ちで、この衣装に袖を通したんだろう」
そう言ったあかりの横顔を、澪は静かに見つめていた。
最後に案内されたのは、稽古場の隅。
公演に使われる舞台と同じサイズの床が広がり、鏡が壁を覆っていた。
誰もいない稽古場に、音もなく春の日差しが射し込んでいた。その柔らかな光が、かつてこの場に立った者たちの汗や涙を照らしているようだった。
エリカは一歩、床に足を踏み出す。まるで、そこに見えない舞台があるかのように。
そして静かに一礼した。
澪も続く。
最後にあかりも、深く、真っ直ぐに頭を下げた。
(いつか、私も……ここから幕が上がる日が来る)
その祈りを胸に、4人は静かに舞台裏をあとにした。
戻る通路の途中、麻琴がぽつりと呟いた。
「ねぇ……あたしたち、来年、本当にここに立てるのかな」
その声に、誰も即答はできなかった。
けれど、それぞれの胸には、確かな灯がともっていた。
それは、今日見た客席のきらめきよりもずっと小さな光。
でも、舞台の下で揺れるキャンドルのように、消えることのない炎だった。




