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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
93/140

93:キラキラの向こう側へ

 春の風が少し柔らかくなり始めた頃、あかりたちは天翔歌劇団の大劇場で、1日だけのアルバイトを頼まれていた。

 声をかけてきたのは、演技講師の如月玲奈。

「現場を知るというのも、舞台人の勉強よ」と、彼女は穏やかに言った。


 あかりと澪、エリカ、そして麻琴の4人は、制服に近いスーツを身につけ、大劇場のエントランスに立っていた。

 任されたのは、来場者がスマートフォンのQRコードを読み取り機にかざすのを補助する仕事。観劇の第一歩の扉を開く手助けだった。

 あかりは、ひとりひとりのお客さんを見つめながら、どこか胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。

 彼らの目が輝いていたからだ。

 年配の夫婦、親子連れ、学生服の少女たち、1人で来た女性客、車椅子の来場者。どの人の目にも、これから見る夢へのときめきが宿っていた。


 「○○さんの役ってどんなんでしょうね」

 「今日も△△さんはアドリブをするのかしら」

 「男役のあの方、表情がすごくて……」


 断片的に届いてくる会話が、あかりの心を小さく揺らす。

 ああ、この人たちは、夢を見に来たんだ――舞台を愛しているんだ、と。


 「こんにちは。QRコードはこちらにお願いします」


 笑顔で迎えながら、あかりは目の前の来場者の少女と視線が合った。

 おそらく中学生だろうその子は、スマホを震える手で差し出しながら、あかりをじっと見て小さくつぶやいた。


 「……すごく綺麗。劇団の人ですか?」


 「いえ、まだ学生なんです。でも、いつか舞台に立ちます。必ず」


 自然と出たその言葉に、少女は顔をぱっと輝かせて、「応援してます」と言ってゲートをくぐっていった。

 その背中を見送りながら、あかりは胸を押さえた。

 鼓動が、舞台の照明みたいに高鳴っていた。


(私も……こんなふうに、見に来てくれる人の目を輝かせられる存在になりたい)


 舞台に立つ者として、ただ踊る、歌うのではない。

 見る人の記憶に残る男役として、誰かの心を動かす舞台人に、私はなりたい。

 風が少しだけ強く吹いて、桜の花びらがエントランスに舞い込んだ。

 遠くから、劇場の開演ベルが鳴った気がした。


 隣に立つ澪も、その音にふと顔を上げていた。

 エリカは無言のまま、何かを確かめるように劇場の扉を見つめていた。

 麻琴は少し離れた柱の影で、緊張した顔をしていたが、それでも懸命に自分の仕事をこなしていた。


 この劇場の中で、いつか自分も――そう思える日が、確かに来る。

 その確信を、あかりは胸に刻みながら、次の来場者に笑顔で声をかけた。


**


 春の光の中、彼女は静けさの衣をまとっていた。

 大劇場の正面玄関。

 まだ開演には間があるというのに、すでに歩道には観客たちの列がゆっくりと伸び始めていた。


 その入り口の一角、チェックゲートのすぐ傍に、一人の少女が立っていた。

 綾小路澪――完璧なまでの容姿を持つ少女。

 制服の上に羽織った紺のスタッフ用ベストさえ、彼女が纏うとどこか舞台衣裳のように映えた。


 見る者は、誰しも一度は息を呑んだ。

 陽光の下で澪の肌は薄く光を弾き、黒髪は肩のあたりで柔らかく波打っている。まつげの影が長く伸び、伏せた眼差しの中に、ひんやりとした静けさがあった。

 客の一人が、受付を済ませながら思わず口にした。


 「……まるでポスターから抜け出してきたみたいね」


 澪はその言葉にわずかに眉を動かしたが、何も答えず、ほんの少しだけ口元を整えるように笑った。

 それは無意識の仕草だった。

 けれど、その微笑の形には、どこか訓練された美のようなものがあった。誰からも愛されるために整えられた、けれど、どこか薄氷のようなもの。


 「おはようございます、チケットのご準備をお願いします」


 柔らかな声が、行き交う人の流れに溶けていく。

 彼女の声は通るのに、決して高くなく、騒がしさに負けない芯のある声だった。

 通り過ぎる観客の多くが、振り返る。中には「役者さんですか?」と尋ねる者もいた。

 けれど澪は、どんな時も表情を崩さない。

 その涼しげな目の奥にだけ、かすかに揺れる灯があった。


 ――彼女は今、考えていた。


(私は、見られることに慣れてきたのだろうか。それとも……慣れた“ふり”が、うまくなっただけ?)


 どちらにしても、役者として舞台に立つ以上、見られる美を拒むことはできない。そして、それを使いこなすことが武器になることも、澪は痛いほど理解していた。

 だけど――ふと、浮かんだのは朝、談話室であかりと交わした短い会話だった。


 「ねえ、澪。今日、すっごく似合ってるよ、そのベスト。モデルさんみたい」


 「……そう?ありがとう」


 そのとき、ほんの少しだけ、澪の心が柔らかくなったのを自分でも感じた。

 彼女は思う。


(見た目の話なのに、不思議と嫌じゃなかった)


 あかりは、まっすぐな目で澪を見る。

 そこには、羨望も憧れもある。けれど、嫉妬や諦めではない。

 その真っ直ぐな眼差しを思い出すと、ほんの少しだけ背筋が伸びる気がした。


 やがて開演の時刻が近づき、入り口は慌ただしさを増していく。

 澪は、一歩引いて列の流れを誘導する。


(この大劇場の空気を、私はまだ知らない。観客として来たことさえ、ない)


 だが、夢はこの奥にある。

 巨大な緞帳の向こうで、誰かが今日も主役を演じ、観客の拍手を受けている。


(その未来に、私は立てるのだろうか)


 澪の目が、劇場のドアの向こう――観客がまだ見ていない舞台の世界を見つめた。

 その瞳は、美しさの仮面の奥に潜む、静かな情熱でかすかに光っていた。



**


 大劇場。

 白い大理石のロビーを一歩奥に入れば、そこはもう別世界だった。

 廊下を隔てて並ぶ楽屋、舞台袖、調光室。緊張感と熱が交差する舞台裏には、今日も重ねられてきた歴史の匂いが満ちていた。


 午後、公演直前の打ち合わせ。

 演出家の五代圭一郎は手に持った演出プランの紙束を置き、スタッフに簡潔な指示を飛ばすと、横に立つ男役トップスター・雪城環(ゆきしろたまき)に目をやった。


 「ねえ、環。さっき受付でひときわ目立つ子がいたって話、聞いた?」


 環はミネラルウォーターのボトルのキャップを閉めながら、少し首を傾けた。


 「ふふ、また?この劇場、目立つ子の話は毎回どこかで上がってる気がする」


 「でも今回は、ちょっと違う。観客が”新人さんかと思った”って言ってたんだよ」


 五代は話しながら、自分のメモ帳をめくった。そこには黒字で小さく、受付に立っていた彫刻のような少女というメモがある。


 「名前は……綾小路澪。天翔の専門生で、いま春休み中にアルバイトに来てるらしい」


 「専門生?」


 環の眉が、わずかに持ち上がる。


 「ただ綺麗なだけじゃなくてね――見た人が”目が離せなかった”って言うのよ。表情も、佇まいも、どこか物語を背負ってるみたいだったって」


 五代は椅子に浅く腰をかけ、指先でこめかみを押さえる。


 「こういう子を見つけたときが一番、厄介なんだよ。舞台に立っていないのに、舞台を想像させる。育てるか、それとも……そのまま見逃すか」


 環は、ふと劇場入口の方向に目を向ける。


 「一度、姿を見てみたいわね。ほんとうに舞台向きかどうか」


 五代は笑った。


 「そのうち舞台に上がってくるさ、きっと。だって――劇場が、彼女を待ってるような気がするから」


 どこか確信を含んだ口調だった。


 そのころ、ロビーでは澪が淡々と観客の誘導を続けていた。

 彼女は、自分の名前がまだ知らない誰かの口にのぼっていることを、まだ知らない。だが、誰かに見つかるということは、既に舞台に向かう第一歩なのだ。

 照明の灯るそのときが、確かに近づいていた。



***


 「休憩時間の間に、ちょっとだけ、裏を見学させてもらえるって」


 スタッフの方がそう言ってくれた瞬間、あかりの胸は高鳴った。

 大劇場の裏側──舞台袖、搬入口、楽屋、稽古場。それは天翔歌劇団を目指す生徒たちにとって、まさに夢の聖域。

 あかり、澪、エリカ、そして麻琴の4人は、係員に案内されながら、静かに舞台裏へと足を踏み入れた。


 最初に案内されたのは、舞台袖。

 目の前には、まるで海のような黒幕の波。スポットライトの陰に隠れて、ただひっそりと立ち尽くす舞台装置たち。幕の向こうには、客席を埋め尽くす観客たちの気配が感じられた。


 「……ここから見てたんだね。出番を待つ人たちは」


 あかりがぽつりとつぶやくと、澪はそっと頷いた。


 「うん。ここは……祈る場所みたい」


 黒い床に目を落とすと、微かに踊り子たちの靴跡が残っていた。

 その一つ一つが、積み重ねられた努力と緊張と歓喜の記録のようだった。

 ふとエリカが立ち止まる。


 「……香りがする」


 「香り?」


 と麻琴が聞き返す。

 エリカは微笑む。


 「緞帳の奥に残ってる……舞台の匂い。スモークや汗や化粧、それから……拍手の音まで染みこんでる気がする」


 その言葉に、あかりは息を呑んだ。

 舞台は見るものではなく、生きているもの――そんな気がした。


 次に案内されたのは、衣裳部屋と楽屋通路だった。

 衣裳部屋には、色とりどりのドレスやタキシードが、まるで誰かの記憶を纏っているかのようにずらりと並んでいた。金や銀の刺繍、宝石のようなボタン。その一つ一つに、光の物語が封じ込められていた。


 「これ、持ち主の名前が書いてある……!」


 あかりが見つけたのは、かつてのトップスターの名前が縫い込まれたタキシード。

 思わず背筋が伸びた。


 「どんな気持ちで、この衣装に袖を通したんだろう」


 そう言ったあかりの横顔を、澪は静かに見つめていた。


 最後に案内されたのは、稽古場の隅。

 公演に使われる舞台と同じサイズの床が広がり、鏡が壁を覆っていた。

 誰もいない稽古場に、音もなく春の日差しが射し込んでいた。その柔らかな光が、かつてこの場に立った者たちの汗や涙を照らしているようだった。


 エリカは一歩、床に足を踏み出す。まるで、そこに見えない舞台があるかのように。

 そして静かに一礼した。

 澪も続く。

 最後にあかりも、深く、真っ直ぐに頭を下げた。


(いつか、私も……ここから幕が上がる日が来る)


 その祈りを胸に、4人は静かに舞台裏をあとにした。

 戻る通路の途中、麻琴がぽつりと呟いた。


 「ねぇ……あたしたち、来年、本当にここに立てるのかな」


 その声に、誰も即答はできなかった。

 けれど、それぞれの胸には、確かな灯がともっていた。

 それは、今日見た客席のきらめきよりもずっと小さな光。

 でも、舞台の下で揺れるキャンドルのように、消えることのない炎だった。

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