92:停電の夜
春の嵐が過ぎ去った夜、寮の窓を打っていた風と雨が、ふとした静寂に変わった。だが、空が落ち着きを取り戻したその瞬間、建物全体が闇に包まれた。天翔歌劇団専門学校の寮は、嵐の影響で一時的な停電に見舞われたのだ。
明かりのない空間に、ほんのわずかにロウソクの灯がともる。非常用に備えられていた蝋燭がロビーに並べられ、ぽつりぽつりと、橙色の柔らかな光が4人の顔を揺らめかせた。
集まったのは、春休みに寮に残っていた4人――鷹宮あかり、綾小路澪、紫堂エリカ、そして神田麻琴。
照明のない静けさの中で、誰からともなく口を開くこともなく、4人はしばし炎の揺らぎを見つめていた。
麻琴は、椅子の背もたれにそっと寄りかかりながら、3人の姿を横目で見た。自分とは違う世界にいるように見えた。進級試験でAクラスに入った3人。自分だけが下位のクラスに残った。あかりのまっすぐな声、澪の静かな眼差し、エリカの揺るぎない佇まい。どれもがまぶしくて、遠かった。
――同じ時間を過ごしているはずなのに、私は、どこか遠くの席に座っているような気がする。
麻琴はそう思いながら、自分の影がロウソクの火で壁に揺れているのをぼんやりと眺めた。
そんな中、あかりが小さな声で提案した。
「……ねぇ、気晴らしにさ、怪談話でもしようよ」
「怪談?」と澪が微笑む。
「こういう雰囲気のときにぴったりじゃない?」
気を遣ったのか、緊張をほぐそうとしたのか、あかりの声は明るかった。
「じゃあ、私から行くね」
あかりが語ったのは、実家の近くの古い神社にまつわる話。夜になると、誰もいないはずの社で鈴の音が聞こえるというものだった。語り口は稚拙ではないが、どこか素朴で、どこか温かかった。ロウソクの火がその話に寄り添うように揺れ、話が終わる頃にはふっと皆の表情が緩んでいた。
「ふふ、それっておばあちゃんの作り話じゃない?」と澪が笑った。
「えっ、ちょっとは怖かったでしょ?」とあかりが頬をふくらませる。
そのやり取りに、麻琴も小さく笑った。
「じゃあ、次は私が」
ふいにエリカが声を出した。
ロウソクの炎が彼女の睫毛を美しく照らしていた。その目の奥に、何かがひそやかに揺れていた。
「この話は……私の地元の劇場で実際にあった話。夜な夜な舞台に現れる、ある“女優”の話」
語り始めたその瞬間、空気が変わった。言葉の抑揚、沈黙の挿入、視線の使い方――すべてが見事だった。
「その女優は、稽古中に事故で亡くなった。でも彼女はまだ、舞台を降りたくなかったのかもしれない……。それからというもの、舞台袖で誰もいないのに化粧の匂いがしたり、照明が勝手に動いたりするの……」
エリカの低く、少し艶のある声が、ロウソクの影に魔法をかけていった。
澪が無意識に息を飲み、麻琴は膝の上で手を握りしめる。あかりでさえ、背筋を正した。
話が終わったあとも、しばらく誰も口をきかなかった。
「……演技、すごいね……」とあかりがぽつりと漏らした。
エリカは微笑んだだけだった。その微笑みもまた、ロウソクの光のなかで、いつものエリカとは違って見えた。
光と影がつくる、束の間の舞台。語られる言葉が、それぞれの心の奥に、そっと何かを残していった夜だった。
**
怪談話も終わり、再び静かな夜が訪れると、「ねえ」と、あかりが口を開いた。
「こうしてるの、なんだか不思議だね。ずっと同じ寮にいるのに、こんなふうに集まるのって、初めてな気がする」
エリカが静かに笑った。「灯りが変わると、見えるものも変わるのよ」
「たとえば?」と澪。
「たとえば、あなたの横顔。今は……とても綺麗」
その言葉に、澪はわずかに眉を動かし、何も言わずに蝋燭の炎を見つめた。
麻琴は、何も言えなかった。
あかりが屈託なく微笑む。澪とエリカの間に漂う微妙な空気を感じながら、それでもこの空間が心地よく、ここにいたいと願うような眼差し。
「私、今は……ずっとここにいたいな」
ぽつりとこぼれた言葉に、三人の視線があかりに向けられる。
麻琴は胸の奥がちくりと痛んだ。
「ここにいて、いいのかな……って思うこと、ない?」
麻琴の言葉が、静かに落ちた。
「あるよ」とあかりが、すぐに返した。
「私、進級できたけど……自信なんて、全然ないし。レッスンも、舞台のことも……難しいことばっかり。でも、でもね――それでも、わたし、ずっとここにいたいって、今は思う」
ロウソクの炎が、あかりの顔を優しく照らす。その瞳に浮かぶ真っ直ぐな意志を、3人は見つめた。
「……私は」麻琴が言いかけ、でもそれ以上続けられなかった。
言葉の代わりに、そっと手を膝の上で握りしめる。
「麻琴」と澪が呼ぶ。その声はとても静かで、優しかった。
「あなたがここにいることに、理由なんていらないよ」
麻琴は驚いたように、澪を見つめた。
「理由が必要なのは、きっと……自分が自分を信じられないときだけ」
まるで、彼女の胸の内をすべて見透かしたかのような言葉だった。
澪はゆっくりとエリカの方を見た。エリカは一度だけ視線をそらし、それから、まっすぐ澪を見返した。
ロウソクの灯は揺れていた。4人の影を壁に映しながら、それぞれの距離を測るように。
沈黙の中にある、いくつもの言葉にならない想い。
居場所への不安。認めてほしい気持ち。愛しさと、ほんの少しの怖れ。
それらすべてが、この夜、この光の中で、やわらかく揺れていた。
***
夜中の寮室、ふたりだけの静けさ
春の嵐の名残がまだ窓の外に響いていた。時計の針が深夜を回っても、澪はなかなか眠れずにいた。エリカが語ったあの怪談話が、まるでほんの少しだけ現実に混じり込んだような気がして、まぶたの裏に闇がちらつく。
隣のベッドで寝返りを打つ音がした。
「あかり……起きてる?」と澪がそっと声をかける。
「うん、なんか、私も……変に目がさえちゃって」
「さっきの怪談話のせいかな。エリカの声、ちょっと怖かった」
「エリカの演技力、すごいもんね……怖がりな澪が可愛かったけど」
くすっと笑ったあかりの声が、夜の静けさに温もりを落とした。
「……もしよかったら、一緒に寝る? 寝返りうるさくしないから」
「え?」
「ほら、子どもの頃ってそういうのあったじゃん。怖い時は一緒に布団に入るって」
一瞬だけ間を置いてから、澪はそっとベッドを抜け出し、あかりの布団に潜り込んだ。
「……あったかいね」
「澪、ちゃんと眠れるといいね」
そのまま澪は小さく呼吸を整え、すう、と寝息を立てはじめた。
あかりはしばらくその寝顔を見つめていた。ふと天井を仰ぎ、優しい気持ちに満たされながら、自分のベッドから出るタイミングをそっと見計らっていた。
あかりは、隣で微かに寝息を立てる澪の姿を見つめていた。寝息はとても穏やかで、まるで風が草を撫でるようだった。
澪の顔はいつもより幼く、そして無防備に見えた。舞台上では強くしなやかな印象を与える澪も、こんなふうに人に寄りかかってくることがあるんだ、とあかりは思った。
「…そっか。澪だって、怖いって思うんだよね」
呟くように言った言葉は、誰にも聞こえなかったが、あかりの胸の中にぽつりと降り落ちた。エリカの語った怪談話。それ自体はほんの冗談のようなものでしかなかったけれど、それを聞いて怖がる澪の姿には、どこか遠いものに触れるような切なさがあった。
少しして、澪が寝返りを打った。小さく、あかりの肩に触れる。
その一瞬の体温に、あかりの胸の奥がぽっと灯ったような気がした。
(私、今ここにいられてよかった)
そう思えたことが、何よりも嬉しかった。
やがて、あかりはそっと自分のベッドを出て、澪のベッドへ移動するために体を起こした。
澪の肩に掛けた掛布団を静かに直し、もう一度寝顔を確かめてから、自分のベッドへ戻る。その背中に、澪の寝息だけが静かに続いていた。
部屋のカーテンの隙間から、雲間にのぞいた月の光が床を照らしていた。春休みの夜は、こんなにも静かで、優しくて、少しだけ切ない。
(進級して、きっとまた忙しくなる。こんなふうに、ただ同じ時間を過ごすことも少なくなっていくかもしれない)
だから、あかりはその夜のことを、しっかりと心に刻もうと思った。
澪が安心して眠ってくれたことも。
そっと手を胸に当てて、あかりはまぶたを閉じた。
外の木々が風に揺れ、遠くで犬が一度だけ鳴いた。春の夜の帳が、深く静かに降りていた。
***
カーテン越しに差し込む光が、あかりの頬を柔らかく撫でていた。
まだ頭の奥がぼんやりと霞んでいる。昨日の夜、澪の寝顔を見つめながら感じたぬくもりが、夢の余韻のように残っていた。
ふと視線を自分のベッドに向けると、澪が静かに眠っていた。
毛布をしっかりと抱きしめて眠る澪の顔は、まだ眠気に包まれ、まるで子どものようにあどけない。見慣れた顔なのに、こうして間近に見つめると、不思議と胸の奥がくすぐったくなる。
(昨日、怖いって言ってたくせに……)
微笑みながら、あかりはそっとベッドを抜け出した。バスルームで顔を洗い、洗面台の鏡を見つめる。
朝の空気はひんやりとしているのに、なぜか頬がほんのりと赤く染まっている気がして、あかりはタオルでごしごしと顔を拭いた。
部屋に戻ると、澪がもぞもぞと起き上がっていた。
「……おはよう」
「おはよう、澪。よく眠れた?」
「……うん。あかりのベッド、あったかかった」
ぼんやりとした声でそう言う澪に、あかりは少し笑った。
「それって褒めてるの?」
「たぶん……褒めてる」
照れくさそうにそう言う澪の声はどこか穏やかで、でもほんの少しだけ――あかりの胸に、きゅっと何かが残るような音を立てた。
「今日はどうする? また3人で自主練する?」
「うん。でもその前に……朝ごはん。お腹すいた」
「同感!」
2人は顔を見合わせて笑い合い、着替えの準備を始めた。
まだ誰もいない静かな寮の廊下を歩きながら、あかりはふと思った。昨日の夜のあの時間が、ただの偶然だったのか、それとも何か少しだけ変わり始めた証だったのかは、まだわからない。
けれど、こうして並んで歩いているだけで、少しだけ心が温かくなっていた。
春休みの朝。新しい季節が、すぐそこまで来ていた。




