91:入学式の記憶・澪の場合
その夜、澪は眠れずにいた。窓の外では、春の風が淡く舞い、寮の桜がゆるやかに揺れている。
昼間に出かけた映画や、フードコートでの楽しいやり取りを思い出すには、部屋の空気はあまりに静かすぎた。
布団に身を沈め、天井を見つめる。
すぐ隣のベッドでは、あかりがすやすやと寝息を立てていた。
その寝顔に安心しながらも、澪の胸の中には消えきらないざわめきがあった。
――エリカの視線。
今日も、あの瞳に何度も触れた気がする。じっと見つめられていることに気づいていても、いつも見ないふりをしてきた。あかりの無邪気な笑顔に守られるようにして、二人のあいだにあえて踏み込まなかった。
(でも、エリカは、まだ覚えているのかもしれない)
瞼を閉じると、記憶がそっとよみがえる。
──入学式のあの日。
壇上に立っていた、硬くなった表情の少女。
マイクの前でわずかに震えていたその手。
そして、式辞を終え、ほんの一瞬だけ視線を交わした時の、あの吸い込まれるような瞳。
(無理して気を張ってたのかな……)
それが、紫堂エリカの第一印象だった。
そして、あのとき自分が差し出したハンカチ。
何も言わず、ただそっと手渡した一枚の白い布。
それはほんの思いつきだった。
でも、あの瞬間、自分でもよくわからない感情が心の奥に生まれたことを、澪はずっと覚えていた。
けれど、一年が過ぎようとしている今も、エリカは何も言わない。まるで、その出来事がなかったことになっているかのように。
(忘れてしまったのかな)
けれど今日、ふと感じた視線の熱さ。
食事中、あかりと自分のやり取りを見つめるあのまなざし。 あれが、ただの気まぐれでないことだけは、澪にはわかった。
(……エリカ。あなたは、あのときから、変わっていない)
そう思った瞬間、心の奥にほのかな痛みが走った。
それは、後悔なのか、期待なのか、自分でもはっきりしない。
(でも私は……何も返せない)
目を閉じたまま、澪はそっと深く息をつく。
夜の静けさが、思考をさらに深く沈めていく。
春は、感情がやわらかくなりすぎて、いけない。
まだ終わらない恋も、終わったはずの気持ちも、再び芽吹いてしまう。
ベッドの中で丸くなりながら、澪は静かに心の奥にそっと蓋をするようにして、目を閉じた。
***
――あの日。
――入学式の朝。
講堂には、新しい制服を身にまとった少女たちの緊張と期待が澱のように満ちていた。
会場の控室で、まだ見知らぬ少女――紫堂エリカが、まるで何かを飲み込もうとするように黙って天井を見つめていた姿が目に焼き付いている。
誰もが注目するであろう壇上に立つ彼女は、「主席入学の新入生代表」として式辞を述べる役目を任されていた。
エリカの手は、緊張でわずかに震えていた。
制服の袖口を握る指先が白くなるほど、力がこもっていた。
そんな彼女の様子を、澪は少し離れた場所から見ていた。
不思議だった――舞台の上であれほど輝きそうな雰囲気を持っているのに、その背中は今にも折れてしまいそうなほど繊細だった。
澪は、思わず自分のハンカチをそっと差し出した。
声もかけずに、名前も告げずに、ただ、そっと。
自分でも驚くほど、自然な動作だった。
誰かのためというより、気づけばそうしていたという感覚。
エリカはやや戸惑ったように目を見開いたあと、ハンカチを受け取った。
(変な子だったらどうしよう)
そう思いながらも、澪の心の奥には、不思議と残る何かがあった。
言葉にならない引力。
知っているはずのない感情。
**
新入生代表として式辞を述べるエリカの表情は硬く少し震えてはいたものの、堂々とした口調で、未来への決意を語っていた。先ほどまでの緊張の面影はもうなかった。
けれど、握られた拳の中には、あのハンカチがしっかりと握られていた。
式辞を終えたエリカが、ほんのわずかに手を震わせて演台から降りるのを見たとき、澪の中のなにかがふと、反応した。
目が合った。
ほんの一瞬だったけれど、確かに二人の視線が交錯した。
***
入学式が終わってからというもの、澪はときおり、視線“刺のようなものを感じることがあった。
廊下、教室、食堂、果ては寮のロビーでさえも。
ふと振り返ると、決まってそこに立っているのは――紫堂エリカだった。
(また……見てる)
真っ直ぐな視線。逸らす気配もない。
それは、じっと観察されているようでいて、どこか触れてはならない熱を孕んでいた。
最初は偶然かと思った。
でも、何度も続くうちに、それが意図的なものだと気づいたとき、澪の中に微かな不安が芽生えた。
(私、なにかしたっけ……?)
心当たりはなかった。
他の生徒たちのように会話を交わした記憶すらない。
ただ、入学式のあの日、あの子にハンカチを渡した──それだけ。
あれも、よくあるちょっとした親切心だったはずだった。
でも、それ以来、あの子の視線は妙に澪を捉え続けていた。
授業中。
先生の話に集中していても、横からじわじわと感じる熱。
教室を出ようとしたとき、さっと逸らされる目線。
(気のせいだと思いたいけど……)
それは、気にすれば気にするほど、澪の神経にじわじわと絡みついてきた。
ある日、寮の廊下でふとすれ違ったとき、エリカが何かを言いかけたのを澪は確かに感じた。
けれど、その唇は結局、最後まで何も言葉を紡がなかった。
(……私、あの子とどう接すればいいのかわからない)
紫堂エリカという存在。
天翔歌劇団の男役にふさわしい顔立ちに、堂々たる所作。
飛び向けた成績で入学した彼女は、周囲からはすでに次の時代のトップ候補と囁かれていた。
なのに、なぜか彼女は澪ばかりを見つめてくる。
(あの視線、正直……怖い)
それが、澪の正直な気持ちだった。
別に嫌いなわけじゃない。むしろ、どこか目が離せない美しさがある。でも、言葉のないまま視線だけを送られると、ただの好意には思えなくて――。
澪は次第に、自然と距離をとるようになっていた。
廊下では目を合わさず早足で通り過ぎ、授業中は意識してエリカの方を見ないようにしていた。
エリカが何を考えているのか、澪には見えなかった。
でも、その沈黙の視線は、いつまでもどこかに貼りついていた。
だからこそ澪は、いつしか彼女のことを、――「得体の知れない、ちょっと苦手な子」
そう心の中で定義してしまっていた。
***
月明かりがカーテン越しに揺れ、澪の横顔に淡い陰影を描く。
エリカに行った行為はただの親切だったはず。
あるいは、自分の中に、ほんのわずかな特別さが芽生えていたのかもしれない。
けれど――それを確かめるには、あまりにも時が経ちすぎてしまった。
それに、エリカは少しずつ変わってきた。今までのように、周りの生徒と距離を取るようなこともしなくなった。あの頃の気配は、もう遠くにあるように思える。




