98:如月玲奈からの手紙
春休み最後の週末。
ほとんどの生徒は実家に戻り、今この建物に残っているのは、あかりと澪とエリカと麻琴の四人だけ。もうすぐ始まる新学期に向けて来週には寮生たちも帰ってくるが、今まだ寮の中は静かだった。まるで、この建物ごと時間から切り離されているような、そんな不思議な感覚。
談話室のテーブルに、小さな白い封筒が置かれていたのに気づいたのは、あかりが温かい紅茶を入れに来た時だった。
「……これ、何だろう?」
封筒には、丸く優雅な筆跡で、『鷹宮あかり様へ』と書かれていた。
他にも、同じような封筒が三通、別の名前で並んでいる。
澪、エリカ、麻琴。
4人分。
あかりは躊躇いながら、自分の封筒をそっと手に取った。
紙の感触は柔らかく、香水か何かだろうか、ほのかに白い花の香りがした。
部屋に戻ってから、机に腰かけて、封を開ける。
中には、たった一枚のカード。
厚手のクリーム色の紙に、玲奈先生の丁寧な文字が並んでいた。
「2年生のあなたへ」
その書き出しに、あかりは一瞬、息をのむ。手がわずかに震える。まるでその一言が、未来への扉の鍵のように思えて。そして続く文は、静かで、けれど心に深く染み込むものだった。
「2年生になるあなたへ。
この一年で、あなたは何を見つけましたか。
舞台を目指す者としての覚悟は、もう心の中にありますか。
技術だけでは、人は心を動かせません。
心だけでも、舞台は成り立ちません。
あなた自身の言葉で、あなた自身の感情で。
あなたの舞台を生きてください。
願いを込めて」
静かに目を伏せた。
胸の奥に、何かが広がっていく。それは涙になって、そっとまつげを濡らす。
玲奈の声が、そのカードから立ち上がってくるようだった。
厳しくて、でもどこまでも温かかったあの声。
自分にだけ語りかけてくるような響き。
(舞台を生きる……)
まだわからない。
この先、どんな道を歩んでいくのか。
でも――この一年で、自分がどれだけ舞台に恋をしたか、知っている。
そして今、あの舞台の光の中に、もう一度立ちたいと、心から願っている。
部屋の窓を開けると、遠くで春の夜風が桜を揺らしていた。
玲奈の言葉が、月の光に溶けていくようだった。
あかりは玲奈の言葉が書かれたカードを、もう一度、そっと指でなぞる。
「舞台を生きてください」という最後の一行が、胸に残るように。
あかりは、カードを机の上に置き、ゆっくりと息を吐いた。
(……この一年、私は――)
思い出す。
寮の部屋に入ったあの日。
入学式で遅刻し、上級生に叱られ、初めての授業で体がついていかなくて落ち込んだ日々。
合格通知をもらったときの喜びのあとに届いた、入学試験の成績表――40人中36番。あの数字が胸に焼きついた。
(私、本当にこの世界に向いているのかな……)
そんな不安に押し潰されそうになったけれど――それでも、目の前の舞台に、仲間に、夢に、しがみついてきた。
バレエも、声楽も、日本舞踊も、そして演技も。
必死だった。
悔しさも、焦りも、挫折も、全部味わった。
でも――その先にあったのは、「確かな手応え」だった。
進級試験の結果。
貼り出された掲示板を見て、あかりは一瞬、目を疑った。
15番。
成績が、21人抜き。
まるで信じられないような数字だった。けれど、それは決して偶然ではないと、あかりは思っている。
(私は、成長したんだ。間違いなく)
努力が全部報われたわけじゃない。
今も、エリカや澪のように華やかに舞えるわけじゃない。
でも、自分の足で立って、自分の声で台詞を発し、自分の感情で演じる力が、少しずつ、自分の中に根づいてきたのを感じていた。
如月玲奈のレッスン。
澪との夜の自主練。
エリカとぶつかりながらの舞台稽古。
宝生聖子との、あの夜の数々――。
どれもが、あかりを変えた。
あのときの36番の少女は、もうここにはいない。
あかりは静かに立ち上がり、窓を開けた。
夜の風が、頬を撫でる。まだ少し冷たいが、どこか新しい季節の匂いがした。
「2年生の私へ――」
あかりは、玲奈のカードにそう書き加えたくなった。
これからの一年、自分はもっと強くなれる。
舞台に立つ意味を、もっと深く知っていける。
(そして、きっと、誰かの心を動かす演技ができるように……)
窓の外には、もうほとんど散りかけた桜の花が、静かに揺れていた。
***
寮の部屋の灯りは落とされ、カーテンの隙間からは月の淡い光が差し込んでいた。
澪はベッドの上に座りながら、小さな封筒を膝の上に乗せていた。
クリーム色の紙に手書きで――「2年生のあなたへ」。
書いたのは、間違いなく如月玲奈の筆跡だった。
(これが……如月先生からの手紙)
何かが終わって、何かが始まる前の、ほんのひととき。
澪はその境目の夜に、静かに封を切った。
中に入っていたのは、名刺ほどの小さなカードだった。
そこに書かれていたのは、ただ短いひとこと。
「自分の中に、まだ光があると信じなさい」
その言葉を目にした瞬間、胸の奥が微かに波立った。
(……自分の中に、光)
澪は、そっとまぶたを閉じる。
思い出すのは、この一年、自分の中に芽生えた、さまざまな感情だった。
初めはただ、静かに在りたかっただけだった。騒がしく目立つことも、誰かに認められることも、必要ないと思っていた。
けれど――
鷹宮あかりという不思議な少女が、自分の世界に踏み込んできた。
見た目は天翔の中ではそこまでは目立たず、成績も最下位近くだったのに、気づけば彼女は、どんどん前に進んでいた。
不器用で、まっすぐで、傷だらけで、それでも笑っていた。
そして、紫堂エリカ――誰よりも孤独で、誰よりも完璧で、なのに誰にも見せない弱さを、ふとした瞬間に感じることがあった。
(あの人は、ずっと誰かに許されたいのかもしれない)
澪は静かに、カードを指先でつまむ。
玲奈が、自分の中に光を見てくれていたのなら。
それは、もう一度、信じてみてもいいのかもしれない。
(私の中にも……まだ、光があるのかな)
ゆっくりとベッドに身を沈めながら、澪は小さくつぶやいた。
「――ありがとう、先生」
目を閉じたまま、胸の奥で何かがほどけていくような気がした。
それは春の終わりの夜にだけ訪れる、一瞬の静けさと再生の兆しだった。
夜の静寂が、寮の一室を優しく包む中、澪はベッドの端に腰掛け、小さなカードを手にしたまま、カーテン越しの月光を見つめていた。
「自分の中に、まだ光があると信じなさい」
先生からのその言葉は、まるで長く閉ざされていた扉に、そっと鍵を差し込まれたような感覚だった。
(この一年……私は何を得て、何を見つけたんだろう)
思い返せば、順風満帆ではなかった。
成績は、一時落ちた。
歌で壁にぶつかり、芝居では感情の引き出しの浅さに悩んだ。
舞台に立つことの難しさに、何度も足が止まりそうになった。
けれど、確かに前よりは――わかってきた。
舞台というものが、ただの表現ではなく、生き様そのものだということ。
(私は、まだ演技のすべてがわかっているわけじゃない。でも、見せ方なら、少しずつ掴めてきた気がする)
相変わらず、誰かと話せば「美人」「綺麗」と言われる。
それは褒め言葉のようでいて、ときに内面は見ていないという言外の線引きにも感じられた。
(でも――それでいい。この外見があるなら、それも舞台人の武器にしてやる)
舞台で目を惹くこと、光を集めること。
それは才能であり、戦略でもある。
その意味で、自分が持っているものは決して無駄じゃない。
「もっと遠くまで、行くつもりだから」
誰にも聞こえない声で呟いた。それはまるで、玲奈の残した言葉への返答のようでもあった。
澪はカードを机の上にそっと置き、カーテンの隙間から夜空を仰いだ。
春の終わりを告げるような風が、月の輪郭を揺らしている。
あかりのようにまっすぐじゃない。
エリカのように火を燃やして進むこともできない。
でも、自分は自分のやり方で、ちゃんと前に進めている。
そんなささやかな自負と、小さな決意が、澪の中に静かに芽吹いていた。
***
一方、寮の一室。301号室。
同室の橘颯真が実家へ帰省している今、エリカの部屋は静まり返っていた。
カーテンの隙間から、柔らかな月明かりがベッドサイドの机を照らしている。
その上に、ひとつの白いカード。
玲奈からの手紙だった。
封を開けたときは、何も期待していなかった。
玲奈は優しさの仮面をかぶった冷徹――そう思っていた。
けれど、その短い文章は、なぜだか胸に刺さった。
「あなたは、誰のために舞台に立ちたいの?」
それだけだった。
(誰のために……?)
エリカは思わず、口の中でその言葉を反芻した。
ふっと、目を細めて笑う。
(そんなの、決まってる。最初は……自分のためだった)
入学当初、トップに立つと誓った。
才能に溺れたくなかった。
努力を怠りたくなかった。
負けたくなかった――誰にも。
その中には、隣に立つ彼女もいた。
鷹宮あかり。
いつの間にか、遠くから視界に入っていた彼女が、今では同じ舞台を目指すライバルになっている。
(気づけば、ずいぶんと成長したわね……)
そして――もうひとり、どうしても意識してしまう存在。
綾小路澪。
(あの子にだけは、知られたくない感情がある。それなのに、いつも目が追いかけてしまう。やめたいのに、やめられない)
エリカは立ち上がり、ゆっくりと窓辺へ歩いた。
ガラス越しに見える夜桜は、淡いピンク色に染まりながら、月の光の中に揺れている。
(でも、私が舞台に立つ理由は……まだ、それだけじゃない)
あるとき、玲奈が言った言葉。
「あなたには、人の心を揺らす剣のような視線がある。美しいだけじゃない。鋭さと哀しみが共存している」
その言葉を思い出すたび、エリカは胸がざわつく。
(誰のために――それが、もし誰かひとりのためだったとしたら。それは、舞台人として、正しいことなの?)
わからない。けれど――誰にも言えない。
たったひとつの心の熱だけが、胸の奥に密かに灯っている。
その熱を、いつか演技に昇華できる日がくるのなら。
それが舞台に生きるということなら。
(私は、その火を消さずに進みたい)
エリカは、玲奈のカードを胸元でそっと握りしめた。
まるで祈るように。
静かな夜。
心の奥底に差した一筋の問いが、まだ誰にも見えない未来の幕を、そっと押し上げていた――。




