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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
98/140

98:如月玲奈からの手紙

 春休み最後の週末。

 ほとんどの生徒は実家に戻り、今この建物に残っているのは、あかりと澪とエリカと麻琴の四人だけ。もうすぐ始まる新学期に向けて来週には寮生たちも帰ってくるが、今まだ寮の中は静かだった。まるで、この建物ごと時間から切り離されているような、そんな不思議な感覚。

 談話室のテーブルに、小さな白い封筒が置かれていたのに気づいたのは、あかりが温かい紅茶を入れに来た時だった。


 「……これ、何だろう?」


 封筒には、丸く優雅な筆跡で、『鷹宮あかり様へ』と書かれていた。

 他にも、同じような封筒が三通、別の名前で並んでいる。

 澪、エリカ、麻琴。

 4人分。


 あかりは躊躇いながら、自分の封筒をそっと手に取った。

 紙の感触は柔らかく、香水か何かだろうか、ほのかに白い花の香りがした。


 部屋に戻ってから、机に腰かけて、封を開ける。

 中には、たった一枚のカード。

 厚手のクリーム色の紙に、玲奈先生の丁寧な文字が並んでいた。


 「2年生のあなたへ」


 その書き出しに、あかりは一瞬、息をのむ。手がわずかに震える。まるでその一言が、未来への扉の鍵のように思えて。そして続く文は、静かで、けれど心に深く染み込むものだった。


 「2年生になるあなたへ。

  この一年で、あなたは何を見つけましたか。

  舞台を目指す者としての覚悟は、もう心の中にありますか。

  技術だけでは、人は心を動かせません。

  心だけでも、舞台は成り立ちません。

  あなた自身の言葉で、あなた自身の感情で。

  あなたの舞台を生きてください。

  願いを込めて」


 静かに目を伏せた。

 胸の奥に、何かが広がっていく。それは涙になって、そっとまつげを濡らす。

 玲奈の声が、そのカードから立ち上がってくるようだった。

 厳しくて、でもどこまでも温かかったあの声。

 自分にだけ語りかけてくるような響き。


 (舞台を生きる……)


 まだわからない。

 この先、どんな道を歩んでいくのか。

 でも――この一年で、自分がどれだけ舞台に恋をしたか、知っている。

 そして今、あの舞台の光の中に、もう一度立ちたいと、心から願っている。


 部屋の窓を開けると、遠くで春の夜風が桜を揺らしていた。

 玲奈の言葉が、月の光に溶けていくようだった。


 あかりは玲奈の言葉が書かれたカードを、もう一度、そっと指でなぞる。

 「舞台を生きてください」という最後の一行が、胸に残るように。

 あかりは、カードを机の上に置き、ゆっくりと息を吐いた。


(……この一年、私は――)


 思い出す。

 寮の部屋に入ったあの日。

 入学式で遅刻し、上級生に叱られ、初めての授業で体がついていかなくて落ち込んだ日々。

 合格通知をもらったときの喜びのあとに届いた、入学試験の成績表――40人中36番。あの数字が胸に焼きついた。


(私、本当にこの世界に向いているのかな……)


 そんな不安に押し潰されそうになったけれど――それでも、目の前の舞台に、仲間に、夢に、しがみついてきた。

 バレエも、声楽も、日本舞踊も、そして演技も。

 必死だった。

 悔しさも、焦りも、挫折も、全部味わった。

 でも――その先にあったのは、「確かな手応え」だった。


 進級試験の結果。

 貼り出された掲示板を見て、あかりは一瞬、目を疑った。

 15番。

 成績が、21人抜き。

 まるで信じられないような数字だった。けれど、それは決して偶然ではないと、あかりは思っている。


(私は、成長したんだ。間違いなく)


 努力が全部報われたわけじゃない。

 今も、エリカや澪のように華やかに舞えるわけじゃない。

 でも、自分の足で立って、自分の声で台詞を発し、自分の感情で演じる力が、少しずつ、自分の中に根づいてきたのを感じていた。


 如月玲奈のレッスン。

 澪との夜の自主練。

 エリカとぶつかりながらの舞台稽古。

 宝生聖子との、あの夜の数々――。

 どれもが、あかりを変えた。

 あのときの36番の少女は、もうここにはいない。

 あかりは静かに立ち上がり、窓を開けた。

 夜の風が、頬を撫でる。まだ少し冷たいが、どこか新しい季節の匂いがした。


 「2年生の私へ――」


 あかりは、玲奈のカードにそう書き加えたくなった。

 これからの一年、自分はもっと強くなれる。

 舞台に立つ意味を、もっと深く知っていける。


(そして、きっと、誰かの心を動かす演技ができるように……)


 窓の外には、もうほとんど散りかけた桜の花が、静かに揺れていた。



***


 寮の部屋の灯りは落とされ、カーテンの隙間からは月の淡い光が差し込んでいた。

 澪はベッドの上に座りながら、小さな封筒を膝の上に乗せていた。

 クリーム色の紙に手書きで――「2年生のあなたへ」。

 書いたのは、間違いなく如月玲奈の筆跡だった。


(これが……如月先生からの手紙)


 何かが終わって、何かが始まる前の、ほんのひととき。

 澪はその境目の夜に、静かに封を切った。

 中に入っていたのは、名刺ほどの小さなカードだった。

 そこに書かれていたのは、ただ短いひとこと。


 「自分の中に、まだ光があると信じなさい」


 その言葉を目にした瞬間、胸の奥が微かに波立った。


(……自分の中に、光)


 澪は、そっとまぶたを閉じる。

 思い出すのは、この一年、自分の中に芽生えた、さまざまな感情だった。

 初めはただ、静かに在りたかっただけだった。騒がしく目立つことも、誰かに認められることも、必要ないと思っていた。


 けれど――


 鷹宮あかりという不思議な少女が、自分の世界に踏み込んできた。

 見た目は天翔の中ではそこまでは目立たず、成績も最下位近くだったのに、気づけば彼女は、どんどん前に進んでいた。

 不器用で、まっすぐで、傷だらけで、それでも笑っていた。

 

 そして、紫堂エリカ――誰よりも孤独で、誰よりも完璧で、なのに誰にも見せない弱さを、ふとした瞬間に感じることがあった。


(あの人は、ずっと誰かに許されたいのかもしれない)


 澪は静かに、カードを指先でつまむ。

 玲奈が、自分の中に光を見てくれていたのなら。

 それは、もう一度、信じてみてもいいのかもしれない。


(私の中にも……まだ、光があるのかな)


 ゆっくりとベッドに身を沈めながら、澪は小さくつぶやいた。


 「――ありがとう、先生」


 目を閉じたまま、胸の奥で何かがほどけていくような気がした。

 それは春の終わりの夜にだけ訪れる、一瞬の静けさと再生の兆しだった。


 夜の静寂が、寮の一室を優しく包む中、澪はベッドの端に腰掛け、小さなカードを手にしたまま、カーテン越しの月光を見つめていた。


 「自分の中に、まだ光があると信じなさい」


 先生からのその言葉は、まるで長く閉ざされていた扉に、そっと鍵を差し込まれたような感覚だった。


(この一年……私は何を得て、何を見つけたんだろう)


 思い返せば、順風満帆ではなかった。

 成績は、一時落ちた。

 歌で壁にぶつかり、芝居では感情の引き出しの浅さに悩んだ。

 舞台に立つことの難しさに、何度も足が止まりそうになった。


 けれど、確かに前よりは――わかってきた。

 舞台というものが、ただの表現ではなく、生き様そのものだということ。


(私は、まだ演技のすべてがわかっているわけじゃない。でも、見せ方なら、少しずつ掴めてきた気がする)


 相変わらず、誰かと話せば「美人」「綺麗」と言われる。

 それは褒め言葉のようでいて、ときに内面は見ていないという言外の線引きにも感じられた。


(でも――それでいい。この外見があるなら、それも舞台人の武器にしてやる)


 舞台で目を惹くこと、光を集めること。

 それは才能であり、戦略でもある。

 その意味で、自分が持っているものは決して無駄じゃない。


 「もっと遠くまで、行くつもりだから」


 誰にも聞こえない声で呟いた。それはまるで、玲奈の残した言葉への返答のようでもあった。

 澪はカードを机の上にそっと置き、カーテンの隙間から夜空を仰いだ。

 春の終わりを告げるような風が、月の輪郭を揺らしている。

 あかりのようにまっすぐじゃない。

 エリカのように火を燃やして進むこともできない。

 でも、自分は自分のやり方で、ちゃんと前に進めている。

 そんなささやかな自負と、小さな決意が、澪の中に静かに芽吹いていた。



***


 一方、寮の一室。301号室。

 同室の橘颯真が実家へ帰省している今、エリカの部屋は静まり返っていた。

 カーテンの隙間から、柔らかな月明かりがベッドサイドの机を照らしている。

 その上に、ひとつの白いカード。

 玲奈からの手紙だった。


 封を開けたときは、何も期待していなかった。

 玲奈は優しさの仮面をかぶった冷徹――そう思っていた。

 けれど、その短い文章は、なぜだか胸に刺さった。


 「あなたは、誰のために舞台に立ちたいの?」


 それだけだった。


(誰のために……?)


 エリカは思わず、口の中でその言葉を反芻した。

 ふっと、目を細めて笑う。


(そんなの、決まってる。最初は……自分のためだった)


 入学当初、トップに立つと誓った。

 才能に溺れたくなかった。

 努力を怠りたくなかった。

 負けたくなかった――誰にも。

 その中には、隣に立つ彼女もいた。


 鷹宮あかり。

 いつの間にか、遠くから視界に入っていた彼女が、今では同じ舞台を目指すライバルになっている。


(気づけば、ずいぶんと成長したわね……)


 そして――もうひとり、どうしても意識してしまう存在。

 綾小路澪。


(あの子にだけは、知られたくない感情がある。それなのに、いつも目が追いかけてしまう。やめたいのに、やめられない)


 エリカは立ち上がり、ゆっくりと窓辺へ歩いた。

 ガラス越しに見える夜桜は、淡いピンク色に染まりながら、月の光の中に揺れている。


(でも、私が舞台に立つ理由は……まだ、それだけじゃない)


 あるとき、玲奈が言った言葉。


 「あなたには、人の心を揺らす剣のような視線がある。美しいだけじゃない。鋭さと哀しみが共存している」


 その言葉を思い出すたび、エリカは胸がざわつく。


(誰のために――それが、もし誰かひとりのためだったとしたら。それは、舞台人として、正しいことなの?)


 わからない。けれど――誰にも言えない。

 たったひとつの心の熱だけが、胸の奥に密かに灯っている。

 その熱を、いつか演技に昇華できる日がくるのなら。

 それが舞台に生きるということなら。


(私は、その火を消さずに進みたい)


 エリカは、玲奈のカードを胸元でそっと握りしめた。

 まるで祈るように。

 静かな夜。

 心の奥底に差した一筋の問いが、まだ誰にも見えない未来の幕を、そっと押し上げていた――。

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